エッセイ

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うすらさみしさで、息が詰まりそうなアメリカ【サンフランシスコ便り(9)】 堀川弘美

2012.01.15 Sun

サンフランシスコのダウンタウンを歩いていると、人々が颯爽と歩いていて、観光客でにぎわっていて、太陽の光がいっぱい当たっていて、生き生きした町のように感じるかもしれない。その隙間は、目が空ろな人たちやホームレスの人たち、言動が不思議な人たちで埋め尽くされている。ダウンタウンだけではない。住宅地も、アメリカのうすらさみしさで満ちているように感じる。子供が全然歩いているのを見かけない。そもそもほとんど人が歩いていない。広くてきれいに整備された公園や湖のほとり、海岸沿いにはジョギングウエアーとサングラスの人たちがいっぱい歩いたり、走ったりしているのだけれど。すぐ近くに行くのでも、車で行っている。道を歩いていて、よく見かけるのは行方不明になった若者たち(10代、20代とも思えるような人たちの写真もよく見る)の写真とその子に関わる情報などが書かれた張り紙。子供が歩けないわけはこういうことなのかもしれない。高齢者が歩いているのも、ほとんど見かけない。異様だと思う。サンフランシスコやバークレーではよく車いすの人を見た。電動車いすを持っている人が多くて、バスもそれに対応してうまくできている印象がある。

日本でもクリスマスはそれなりに大きなイベントで町のあちこちで雰囲気が醸し出されていると思う。サンフランシスコ周辺は、私が経験したクリスマスの中では一番、盛り上がってる風な雰囲気を醸し出していた。そのクリスマスのまっただ中、すごく寂しい気持ちになった。

WalMartという巨大ディスカウントストアのおもちゃ売り場。

強盗が入った直後のように「荒らされた」ようになっていたWalMartのおもちゃ売り場。なんとも言えない悲しい気持ちになった。こんなに荒んだ様子を見たのは初めてかもしれない。クリスマスは、あるグアテマラから移ってきた家族、親戚の集まりに加えてもらって過ごした。子供たちはクリスマス慣れ、というか、プレゼント慣れをしていて、ありがとうの気持ちは湧いてこないようで、その言葉も無かった。表面からは到底見えない奥底で、崩壊して腐りきってしまっているものを抱えていることをすごく感じた。

それはアメリカに来てからずっと気になっているホームレスの人たちの存在とも重なっている。さすがアメリカ、ドネーション社会、というか、いろいろな教会や組織がホームレスの人たちに食事を提供したり、食材を配ったりするなどのボランティアを行っている。一日三食平日毎日食事を提供している教会へ行ってみた。コックさんがいて、きれいなキッチンで料理されていた。身体的に生き延びるためには、そこへ行けばいいのかもしれない。でも、”Hungry”と書いたダンボールを掲げて高速道路の入り口やダウンタウンの周辺にいるホームレスの人たちは、とても多い。シェルターのようなものだってある。でも、そこへ行きたがらないホームレスの人たちは多いと言う。規定、規律が多いから、と聞いた。ドラッグやアルコールが禁止されているから、居心地が悪いのだそうだ。実際の理由を一人のホームレスの人にも聞いたことがないので、知らない。私は、みんなすごくおなかがすいているのだと思う。本当におなかがぺこぺこなのだと思う。寂しくて寂しくて、表面的に取り繕っても満たされなくて、身体的におなかに何かを入れても、それが浸透しなくて満たされないのだと思う。

ちょうどクリスマスのころ、映画”Gladiator”というのを観た。奴隷の人たちがコロッセウムのような場所で殺し合いをするのを、観客は楽しく観戦する。今も変わっていないことに気付く。すぐ横でどうにかなりそうな人たちがいるのだけれど、死んでしまいそうに弱っている人たちがいるのだけれど、私はそれをしっかりと視野の中に確認しつつも、表面的に飾り、彩られたきれいなクリスマスをそれなりに楽しもうとしていた。

サンフランシスコダウンタウンのユニオンスクエアのクリスマスツリー。すぐ隣には仮設のスケートリンクがあり、にぎわっていた。

楽しむ自分を否定するのではない。楽しめる自分であることを、ちゃんと自分で分かっておきたいと思うだけだ。自分が決してピュアでないことを肝に銘じておきたいだけだ。自分がまっさらでピュアであろうとしているとき、見える景色は、そうでない自分を確認したときと全然違うと思うから。

カテゴリー:サンフランシスコ便り

タグ:アメリカ / 堀川弘美