アートの窓

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イトー・ターリ(アーティスト)   ~パフォーマンスアートとアクティビズムを同時進行する私の方法~

2009.07.03 Fri


写真:《Rubber Tit Viva! Art Action》2006年(モントリオール)
 
写真左から《わたしを生きること》1999年、トキ・アートスペース(東京)、 撮影:松本 路子)、《虹色の人々》2003年、Bordaerline Cases展(東京)、撮影:安田 和代)、《虹色の人々》2004年、第六回シアターX国際演劇ダンスフェスティバル(東京)、撮影:芝田 文乃

(文:イトーターリ)
1.パフォーマンスアートとアクティビズムを同時進行する私の方法 (ステートメント)
2.いつ、なぜアーティストになったのか? (インタビュー)
3.資料 (今後の活動、URL、プロフィール、インタビュー記事)
4.パフォーマンスアート・アクション「ひとつの応答」縲恤垂ニ感想縲彈/size]1.パフォーマンスアートとアクティビズムを同時進行する私の方法(ステートメント)

21才のときに「絵画」ではなく「身体が介入するアート」をしたいと思いたった。それ以来、37年そのことをして来た。当時、まだパフォーマンスアートという言葉もなく、1920、30年代のヨーロッパにおける芸術運動を図版で見て興味を深めた個人的体験と、肉体の叛乱という言葉が踊るアートシーンが世間に吹き出ていた時代に遭遇してでの思いつきだったと思う。学生運動の先が見え出した70年に大学に入り、少なからず波をかぶった経験も作用している。

幸いにも家族から「結婚しろ」という脅迫的な言葉を受けずに済んだ私は、パート生活をおくりながら、パフォーマンスすることにかけてきた。そう言っても過言ではない。パフォーマンスアートがなぜそんなに面白いのか、自分がするのも面白いけれど、他人がやっているのを見るのが好きだ。飾っていられずにその人の本音が垣間見えて、その可愛さにしびれ、身体の不器用さや賢さ、意志の揺れる様に触れるとき、このアートのすばらしさを肯定したくなる。人間の行為が面白い。結果ではなく、その経過する時間を観客と共に過ごす、それがパフォーマンスアートの醍醐味だ。

パフォーマンスを買う画商が居るわけでなく、お金から見放されたアート。西洋美術史の研究対象に入っていないからと、アカデミーな世界からも門外視されたりする。されど、パフォーマンスアート。わたしはさまざまなことを学んで来た。

自分で定義つけたアート私感にもとづいて、パフォーマンスでセクシュアルマイノリティであることを公表した。このカムアウトの時点でわたしのトラウマは解消したらしい。環状島で言えば外輪山に手をかけ,這い上がりかけた状態だ。1996年当時、「カミングアウトなどする必要はない、かえって異性愛主義を補完するだけだ」と言われてしょげたけれど、レズビアン活動を始めることとなった。
自分を知ることは他人を知る事になる。マイノリティとして生きる人たちに出会うと、わたしはマジョリティで、往々にして偏見を持った加害者であることも知った。

今、セクシュアルマイノリティは細分化がすすみ、おもしろい状態になっている。レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、トランスセクシャル、インターセックスなどなど。多様な人間が混ざり合って存在するための試金石となっていると思う。現に身近かな友人から「レズビアンではなくトランスなんだ」と言われたときの動揺は大きかったけれど、絶対でないものの真実を知った。

パフォーマンスアートは生きている人たちに向かって表現される。だから、ラディカルなアートフォームである。時に闘いである。

私はセクシュアルマイノリティなので、居るにもかかわらず居ないものとして扱われる事に恐れを強く感じる。日本軍「慰安婦」たちが描いた絵画を見たときに、そこにある悔しさに打たれ、深い感銘を味わった。以来、他人事ではなくなってしまったのだ。日本軍「慰安婦」だったおばあさんたち、米兵によってレイプされた被害者たちが居る事をパフォーマンスで見えるようにしたいと考えている。軍事主義がもたらす構造的性暴力を見えなくしようとする勢力に抗する。

ついこの間、パフォーマンスつくりのために沖縄へ行った。渡嘉敷にあった「慰安所」跡を探しあて、ふらふらしていると、孫を抱いたおじさんが現れて、しばらく話しているとこう言った。「ちゃんと日本政府が謝らないと北朝鮮から拉致被害者たちは帰らないよ」と。わたしもそう思うと言った。平和は綾を解く作業をしなければやって来ない。私のパフォーマンス作業の意味はそこにある。

パフォーマンスアートとアクティビズムを同時進行する私の方法。売れっ子の親しいアーティストが「運動はほどほどにしてアートをしっかりやらないとだめ」と顔をゆがめて私を嗜めた。身体がおこなうライブアートと物をつくるアートとの違いだろうか。

 
写真左から《Meditaing body》2005年、 F+Fプロジェクト(ヘルシンキ)、《あなたをわすれない》2006年、8th International Art Action Interakcje(ポーランド)

2.いつ、なぜアーティストになったのか?(インタビュー)

具体的には大学4年間の終わりに、表現者としての道を選ぶことを決断したと思う。舞台美術の研究会に学外で参加していた関係でテレビ会社受験の話が舞い込んだ。しかし、紹介者が居たにも関わらず、受験しに行く事をやめた。そのとき、やりたいのはそこにはないと思ったのだろうと回想する。

幼児のころから引っ込み思案、いつもあたりをじっと見ている自分の姿を記憶している。そして絵を描くのが好きだった。小学生になると近所の男の子たちと三角ベースボールをしたり、探検ごっこをしたり、生傷が耐えない子になった。3年生になると、「男の子と遊んでらあ」と囃されたのをきっかけに、ぱたりとベースボールをやめ、今度は紙芝居つくりを始めた。家にあった世界童話全集から話を選び、シーン割りして絵を描いてゆく。10円のお小遣いを持って画用紙を買いに走るマイブームが続いた。当時八つ切りの紙なら5枚は買えた。友達を誘って、「紙芝居って面白いよ」と説得し、彼女のお菓子を画用紙に変えてしまったこともあった。見せて人を喜ばせることよりも、作る過程が好きだった。
絵を喜びとする親だったから、私は絵を描くことの許可を子どもの頃から得て居た。
わたしのクレパスはいつも24色ではなく、30色入り、せっせと色を混ぜ合わせ絵を描いた。進学も当然美術系、しかし、生意気盛りで独りよがりの私は、受験校に合わせてデッサンの手法を学ばなくては望む美大に入れないということに、意を添えず嫌った。そこで高校2年のときには大学へ行くなら和光大学だとさっさと決め込んで、そのまま受験した。ところが和光向けデッサンがあったのだ。デッサンの受験場で先生が私のデッサンを見て通り過ぎたとき、「受かった」と確信した。和光大が単科大ではないところも選んだ理由。いい絵を描くには、描くだけでは足りないと欲張っていた。

1970年に1年生、安保の年で学内は騒々しかった。私はカトリック女子校の隠れ反戦女子だったのでベ平連の集会や、そのしっぽに捕まりながらデモに参加した。ジーンズを履く事とデモに行く自由を得た事がとにかく嬉しかった。そして、7月にあった富村順一の「東京タワー立て籠り」事件にかすめるように遭遇する。学内に小さな富村さん支援グループがノンセクトで生まれた。このグループに近づいた私が体験したことは、富村さん支援をかざした他大学生第四インターによる乗っ取り劇だった。彼らが何を言っているのかわからず、噛み合う言葉はなく、這々の体でわたしは退散した。本当の富村さんの主張を知る前にセクト主義にやられた。
学生運動の高揚、新宿地下道にあった時代のほとばしりに心熱くした者が体験した負のエネルギー、それに向き合うには「自分の言葉を持たなくては」だった。実感を直接的に、その思いは「身体が介入するアート」を遂行することへ向かわせた。

富村さんがやったのはパフォーマンスである。しかも政治的なパフォーマンス犯罪だ。東京タワーの展望台に包丁を持って1人を人質に立てこもり、「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」を書いたTシャツを着ていた。当時の報道から聞こえてくるエキセントリックな行動だとするバッシング、私も富村さんが言っていることに疑問符をかかえたまま、時を過ごしていった。
現在、私は日本軍「慰安婦」にさせられた朝鮮人女性のこと、沖縄で軍隊による性暴力にあった人々のことをパフォーマンスしている。
学生の時にやり残し、潜在的にひきずっていたことを今やろうとしていると気付く。

便宜的に自分はアーティストだと名乗るけれども、物事へのこだわりをこだわり通す人をアーティストだと定義つける。
週に2度自閉症の大人の人たちのグループホームで夜間支援のバイトをしている。そのなかに、物をあるべき場所にもどすというこだわりに生きているひとがいる。その戻し方には美的センスが溢れ、所作へのこだわりがすごい。変化への即対応をしないから、私はイライラさせられることが多いが、日常生活という時空間はゆっくりと変化を彼にも運んでいく。彼の部屋と共有スペースすべては彼の価値観のもとに美的にいつもかたずけられている。彼の行動はアート行動だと思う。

<インタビューは続きます‥‥後日のアップをお楽しみに!>

  
写真左から《表皮の記憶》1989年、中村正義美術館(川崎市)、《自画像》1995年 、無名の家(藤野町)、撮影:西村 燎子、《自画像》1997年、Haigo Festival L’art japonais actuel(フランス)、撮影:Lucienne van der Mijle)

3.資料 (今後の活動、URL、プロフィール、インタビュー記事)

■今後の活動案内
パフォーマンスアート・アクション「ひとつの応答」
軍隊による構造的性暴力は止む事はない
65年前に日本軍「慰安所」があった渡嘉敷村から、
現在の沖縄市に建っている「ミュージックタウン」へ
レイプすることも、 されることも当事者になりうる
そこから命や人権を、 そして日本の文化を問い直す
6月13日(土) パフスペース(東京) 19:00縲鰀 パフォーマンス
6月25日(木) ART BASE 88 (福岡)19:00縲鰀 パフォーマンス
6月27日(土) 西南学院大(福岡) 13:00縲鰀19:00森口豁作品上映+ターリパフォーマンス
6月29日(月) 久留米男女平等推進センター 15時縲怎潤[クショップ+パフォーマンス
7月20日(祝)縲鰀26日(日) トキ・アートスペース (東京)
8月15日 (土) 金沢21世紀美術館 「愛についての100の物語」展 16:00縲怎pフォーマンス

■アーティストをもっと詳しく知りたい方は↓

http://www.itotari.com

 

■プロフィール
1974 和光大学人文学部芸術学科修了
1976縲鰀78 マイムグループ気球座に所属
1982縲鰀86 オランダのHet Klein mime theatreに所属、およびダンス、マイムグループのプロジェクトに参加
1987 帰国後、パフォーマンスアートに移行
1987縲鰀88 檜枝岐パフォーマンスフェスティバルに参加
1990縲鰀91 アジアフェミニストアートAFAに所属
1990 カナダ横断9都市ツアー「パフォーマンスフロムジャパン」ウエスタンフロント(バンクーバー)企画
1991 アジアフェミニストアートAFAの企画、インドネシア、タイツアー
1991 田島パフォーマンスフェスティバル(福島)の実行委員
1992 民衆演劇フェスティバル(ホンコン)にafaのメンバーとして参加
1992 東京大阪行為芸術ヨーロッパツアー(ベルリン、アインドホーベン、ニース、ゲント)に参加『フェイス』
1993 ビスバッデン女性の美術館(ドイツ)
1994 フランクリンファーネスギャラリー(ニューヨーク)
1994 第1回シアターX国際ダンスフェスティバル(東京)
1995 ウィメンズアートネットワークWANとして、ウィメンズパフォーマンスプロジェクト『ディスタントスキンシップ』を企画
1995 Women step East to West(リトアニア)
1996 第3回日本国際パフォーマンスフェスティバル(東京、長野)
1996 サードギャラリーアヤ主催、イトー・ターリ個展(大阪)
1996 パフォーマンスとマルチメディアフェスティバル(ケベック)及び5都市
1997 国際女性のアート交流展「Womanifesto」(バンコク)
1997 南斗六星主催イトー・ターリパフォーマンス公演(仙台)
1997 Haigo Festival L'art japonais actuel(フランス)
1998 東京都写真美術館企画展「Love's Body」
1999 第2回国際女性アート交流展"Womanifesto"(バンコク)
1999 トキアートスペース企画展BLOW UP'99 6人のシリーズ
2000 第2回国際視覚芸術交流展(ケベック)
2001 Text&Subtext コンテンポラリーアジア女性アーティスト(シンガポール)
2001 山上千恵子監督フィルム「ディア・ターリ」に出演
2001 ウィメンズアート「越境する女たち21」展(東京)
2001 日韓ダンスフェステュバル(ソウルにて)
2002 第2回フェミニストアートフェスティバル「East Asian Women and Herstories」(ソウル)
2003 ナヌムの家・日本軍慰安婦歴史館式典でのパフォーマンス公演(ソウル)
2003 トロントのAスペースで個展
2003 東京バビロン企画パフォーマンスプロジェクト
2003 「From My Finger---Living in the Technological Age」展(高雄)
2003 ハイウェイズ パフォーミングアートセンター(ロサンゼルス)
2004 {Borderline Cases ― 境界線上の女たちへ}展 FAAB主催(東京)
2004 ディプラッツ主催ダンスがみたい!に参加(東京)
2004 第6回シアターX国際演劇ダンスフェスティバルに参加(東京)
2004 イトー・ターリ個展パフォーマンス+インスタレーション+ビデオ『虹色の人々』
2004 A.R.T ギャラリー(東京)
2005 パフォーマンスin 石響(東京)『虹色の人々』
2005 F+Fプロジェクト フィンランドツアー(ヘルシンキ、ヴァーサ)
2005 栃木県立美術館主催『前衛の女たち1950-1975』展に参加(宇都宮)
2005 On the Move: The Body Projectに参加(香港)
2006 荒井真一企画「大東亜共栄軒1」に参加(大塚)『あなたをわすれない』
2006 8th International Art Action Festival Interakcjeに参加(ポーランド)
2006 Rencontre Internationale d'art performance de Quebec(ケベック)
2006 Viva! Art Action(モントリオール)
2006 アートコンファレンス「GAZE」に参加(東京・横浜)
2007 お茶の水女子大「文化/テクノロジーとジェンダー」で公演と対談
2007 東京都港区男女平等参画センター・リーブラで公演
2007 佐喜真美術館で公演(沖縄)
2007 シカゴ大学、イリノイ大学、LGBTセンター(N.Y)で公演
2007 "Trauma-interrupted" 展 フィリピン文化センター (マニラ)に参加
2008 美学校ギグメンタに参加 「Mori-森 ― 人という森と森が出会う場所―」展(東京)
2008 「性暴力禁止法をつくろうネットワーク」スタンドアップ集会(東京)
2008 Rainbow Arts Exhibition 2008(東京)
2008.08, 11 パフォーマンス「ひとつの応答」自主企画@PA/F SPACE
2008.11 第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議で追悼パフォーマンス
2008.12 国際シンポジウム「ジェンダー研究とアートの現状 ― 「グローバリズ ム」再考」でパフォーマンス(東京・武蔵大学)
2009.01 パフォーマンス「ひとつの応答」自主企画@PA/F SPACE

※パフォーマンス活動と並行して各地のアーティストとの交流を深めると共に、ジェンダーについてのプロジェクトに積極的に参加している。1994年に作った、ウィメンズアートネットワーク(WAN)では、95年にパフォーマンスプロジェクト『ディスタントスキンシップ』と、96年にアートトーク+エキジビション『表現の現場』を主催した。97年、多くの人々に参加を呼びかけ直し、集ってきた人々と共に、シンポジウムの開催やイベントへの参加を経、2000年 12月から2001年1月にかけて、「越境する女たち21」を開催した。先達の話しを聞き、女性アーティストのカタログを集めたアートサロンと39組の参加者による展覧会を行った。この展覧会はアーティストが作り、かつジェンダー、フェミニズムの視点を打ち出した日本では画期的なものとなった。2002年 8月には日韓ウィメンズアート交流ツアーを組織した。2003年PA/F SPACEを開設、セクシュアルマイノリティの拠点となる。2008年3月で経営を下りる。

※プロフィール中の以下の催しにはプロデュースにも参加しています。
1990,1991 田島パフォーマンスフェスティバル実行委員(福島県)
1990 パフォーマンスパースペクティブ(東京)
1995.05 ウィメンズパフォーマンスプロジェクト『ディスタントスキンシップ』(東京)
1996.12 アートトーク&エキジビション『表現の現場』(東京)
2000.12縲鰀2001.1 「越境する女たち21」展実行委員 代官山ヒルサイドフォーラム
2002.08 日韓アート交流ツアー(ソウル)
2004.06 「ボーダーラインケース」展実行委員(東京)
2006.12 Art Conference "GAZE" 実行委員(東京、横浜)

■インタビュー記事
「わたしを生きること」
北原恵『攪乱分子@境界』(インパクト出版会)より

↓全文をPDFファイルでダウンロードできます。
http://wan.or.jp/uploads/awan/itotari.pdf (1.5M)

4.パフォーマンスアート・アクション「ひとつの応答」縲恤垂ニ感想縲彈/size]

2009年7月イトー・ターリさんのパフォーマンス「ひとつの応答」(トキ・アートスペース) を見逃してしまった私は、31日(金)「アトミックサンシャイン」沖縄展の検閲に抗議する美術展(ギャラリーMAKI)で行われたパフォーマンスに駆けつけた。
それは、2009年4月「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄 ─ 日本国平和憲法第九条下における戦後美術」展(沖縄県立美術館)で検閲にあった大浦信行さんのコラージュ作品『遠近を抱えて』全14点のうち3点が展示された壁一面に、「ひとつの応答」のインスタレーション映像が投影され、プロジェクターの光を受けたターリさんの影が重なり、ターリさんの身体が重なり、周囲には上記事件に抗議する美術家・表現者たちの作品がひしめき、観客の息づかいが交わり…という重層した空間を織りなした。


写真:《ひとつの応答》2009年7月31日、パフォーマンス、於:ギャラリーMAKI(東京)、撮影:鈴木麻里)
緑色に染色されたゴムのスーツ。慈しみいとおしむように抱えながら息を吹き込み膨らませた胸、腹、尻は女性の身体にも植物のめしべのようにも見える。それが掻きむしられ潰され割れる。


写真:《ひとつの応答》2009年7月31日、パフォーマンス、於:ギャラリーMAKI(東京)、撮影:鈴木麻里)
肩から側腕にトゲの生えたゴムのスーツ。大量の鉄クギがばらまかれ、非日常的な威力の大型磁石で吸い寄せるとたちまち鉄の塊になる。

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写真:《ひとつの応答》2009年7月31日、パフォーマンス、於:ギャラリーMAKI(東京)、撮影:鈴木麻里)
白いキャミソールを床に広げてマスキングテープで貼りつける。テープには沖縄の米軍による性暴力事件の記録が、2008年から1971年にさかのぼって書かれている。貼っても、貼っても、終わりがこない。東京では伝えられない事件の多さに衝撃を覚える。黙々とテープを貼り続けるターリさんのスーツの裾から汗が水滴となり床にこぼれる。ゴムのスーツの中で沖縄の蒸し暑さと息苦しさが再現されている。目の前のテープに書かれた「93年9月8日 14才、15才の少女をグリーンベレー所属の22才の米兵が…」の文字が目に入り、突き刺さるような恐怖と怒りがこみ上げる。


写真:《ひとつの応答》2009年7月31日、パフォーマンス、於:ギャラリーMAKI(東京)、撮影:鈴木麻里)
インスタレーションの映像の前に立ち上がり、テープに刻まれた文字を読み上げる声は毅然としている。頭上で戦闘機の映像が威嚇している。それでも声をあげることを止めないターリさんは、被害者の痛みを自分のものとして引き受け、「軍事下での性暴力はなかった、今もない」ということにしようとする勢力にひとり立ち向っているのだと感じた。


写真:《ひとつの応答》2009年7月31日、パフォーマンス、於:ギャラリーMAKI(東京)、撮影:鈴木麻里)
ターリさんは「居るにもかかわらず居ないものとして扱われること」の悔しさ、憤りから、テープに刻む事件の記録を1971年までさかのぼりたかったと語る。1972年、沖縄が日本に返還されてからは、米軍による性暴力事件は「検挙件数」として沖縄県警から発表されるようになり、件数は激減した。返還前は「発生件数」が数えられた。「被害者がいるのにもかかわらずいないことにされてしまうこと」に憤り、会場から声があがる。「沖縄米兵による性暴力、慰安婦問題はドメスティックバイオレンスの問題にも通じると思う」という女性。「知っている人が被害に遭うという渦中にいると近すぎて慣れてしまうのか、若者は米軍の性暴力を話題にしない。楽しいことに流されている。それは変えていきたいと思う」という沖縄からやって来た青年。
ターリさんのパフォーマンスは、見る側に「あなたはどうなの」と問いかけてくる。軍事下の性暴力を見聞きし、被害の深刻さに心が揺さぶられても、今までの私はどこか他人事ではなかったか。「日本は戦後60年間平和が続いている」というとき、被害を引き受けさせられた沖縄の少女たちは「居ないもの」にされてしまう。「たまたま沖縄に生まれ、引き受けさせられていること」と「たまたま日本に生まれ、引き受けていないこと」の間のアンフェアに気づかないふりをすれば、「性暴力などなかったことにしたい勢力」に加担することになる。
トキ・アートスペースの壁に残されたテープだけを見たときは、これは闘いなのか祈りなのか、写経のようにたくさん書き写すことが大事なのか、知りたいと思った。パフォーマンスを見終えて気づいた。私にとってそれは入れ墨だ。テープに書かれている沖縄の少女たちを忘れないために、こころの皮膚に刻んでおこうと思う。(写真・文 鈴木麻里)

PS.パフォーマンスが行われたギャラリーMAKIは、川と川に挟まれたちょっと不思議な場所にありました。川からの夜景です。

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