2015.02.26 Thu
『名前をなくした女神』
放映:2011年4月~6月、フジテレビ系列
脚本:渡辺千穂(ノベライズ本:百瀬しのぶ『名前をなくした女神』扶桑社文庫、2011年)
主演:杏
公式サイト:http://www.fujitv.co.jp/b_hp/megami/index.html
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「働く女」を考えるにあたって、子育て=仕事という観点からとらえたドラマはないかと探していたとき、行き当たったのが今回紹介する作品である。冒頭では、残業を終えて慌ただしく保育園に子どもを迎えに行く女性と、家で楽しげに子どもの世話をしている数人の女性が対比的に映し出されるなか、こんなナレーションが流れる。「母親をひとくくりにしてはいけない。そのエネルギーを仕事と子育ての両方に注ぐ母親と、すべてを子育てに注ぐ母親。二種類の母親を取り巻く環境は、あまりにも違う。どちらがいいとかどちらが幸せだとか、そこに正解は、ない。」
そこまで見て、共働きの母親と専業主婦の母親が両方描かれるドラマなのかと思っていたら、主人公があっという間に仕事を辞めて、専業主婦の世界に入っていくという展開になった。
ハウスメーカーに勤める秋山侑子(杏)は、子どもが生まれてからも、夫の拓水(つるの剛士)とともに共働きを続け、夫婦で協力して家事・育児をこなしていた。だが、自分が設計した新しいマンションへの引っ越しを決めた矢先に、会社側から山梨への転勤か退職か、どちらかを選べと迫られる。
専業主婦となった侑子は、引っ越し先の幼稚園で同じクラスの母親たちと親しくなったことがきっかけで、一人息子の健太(藤本哉汰)を有名小学校の受験準備のための塾に通わせ始めた。
表面上は親しくつきあっている幼稚園の「ママ友」たちは、それぞれに家庭内の問題を抱えつつ、それをひた隠しにしている。女性雑誌で読者モデルをしている本宮レイナ(木村佳乃)は母親グループのリーダー的存在で、才色兼備のうえ経済的にも恵まれているが、仕事にかまけて家に居つかない夫との間に溝を感じている。その分、娘の彩香(小林星蘭)の「お受験」にのめり込み、過剰なプレッシャーを与えていることに気づいていない。そのレイナと同じ高層マンションの低層階の一室を無理して購入した進藤真央(倉科カナ)は、ローン返済に追われながらも、背伸びをした生活スタイルを維持しようとしている。トラック運転手をしている夫、陸(五十嵐隼士)共々高校中退の学歴しかないという理由でお受験をあきらめ、娘の羅羅(谷花音)をモデルデビューさせるべく奔走する。
クラス役員をしている安野ちひろ(尾野真知子)は、夫から日常的に怒鳴られたり、携帯をチェックされたり、生活費を厳しく管理されたりといった形のDVを受け、怯えながら暮らしている。実は親の仕事の都合で転校を繰り返していた中学時代に侑子と同じ学校になり、いじめの加害者からかばってもらった経験を持つため、侑子との偶然の再会を喜ぶが、侑子のほうが彼女のことをまったく覚えていないことを知り、傷つく。ネットショップのオーナーとして自宅で仕事をしている沢田利華子(りょう)はバツイチで、再婚相手の圭(KEIJI)、連れ子の空斗、圭との間に生まれた海斗と一見穏やかな生活を送っているが、実は圭の浮気に悩んでいる。
明るく前向きな性格の侑子は夫と信頼関係で結ばれ、のびのびと育ててきた健太も塾でいい成績を出すようになる。だが、自覚のないまま周りの母親たちの神経を逆なでしてしまう侑子の率直な言動が、結果として、彼女たちの過剰な反応を引き出すことに…
このドラマでは、同じ幼稚園に通う子どもたちの小学校受験というイベントを核としながら、虚栄心や妬み、焦燥感にとらわれた母親たちが、互いを陥れたり、不信感を持ったり、自殺未遂にまで追い込まれたりといった「ママ友地獄」のシリアスな状況が次々に描かれる。その一方で、「お受験」という現象そのものについては、子どもたちが通う塾の塾長(夏木マリ)の言葉を通じてポジティブな面が強調され、問題を抱えた家族がゆっくりと再生に向かう契機としてもとらえられている。この点は腑に落ちない部分もあるが、ここで注目したいのは、ドラマのタイトルにもある「名前」の問題である。
ママ友たちは、互いを○○ちゃんママ、○○くんママと呼び合い、苗字も下の名前も使わない。タイトルにつながるのは、一人だけ仕事を持つ母親、利華子とのランチの場面で「私、小さいころからずっと、友達とか同僚には、侑子って呼ばれてたんですけど…。母親でいるだけだと、自分の名前ってなくなっちゃうような気がする」と言った侑子に対し、利華子が「侑子さん」「私、利華子っていうの」と呼びかけるエピソード。ただ、これ以降下の名前で呼び合うようになった二人も、ほかの母親たちに対しては、○○くん・○○ちゃんママという呼称を使い続ける。
親しい間柄であっても、互いの呼び方に子どもの名前しか出てこないのは、あくまでも子どもを介した関係だと認識されているからだ。それは、何らかの理由で母親同士の関係が悪化したとき、その影響が直接子どもたちに及ぶことを意味する。真っ直ぐすぎて空気を読めない侑子に苛立ちを感じたり、傷ついたりした周囲の母親たちは、侑子の息子、健太とたまたま一緒に遊んで擦り傷を作ってしまった娘を見て、「こんなに乱暴に育てられて、何も教えてもらえない子どもがかわいそうだわ。子どもはね、親を選べないのよ」と言い放ったり、果ては健太に対し、誘拐まがいの行動をとってしまったりする。侑子は「私のせいだと思うなら、私を憎めばいいじゃない。関係のない子どもに思いをぶつけるなんて、卑怯よ!」と反撃するのだが、終盤では、もっとも親しかった利華子までが、侑子を裏切る行動に出る。しかも健太に直接かかわる形で。
ドラマに出てくる一つひとつのエピソードは極端かもしれないが、現実のママ友の世界もまた一筋縄では行かないのだろう。それはドラマ放映時、公式サイト以外のところでかなりの話題になっていたことからも伺える。
最後の方で、引っ越してから初めて「健太くんママ」と呼ばれたときに「自分をなくしたような気がしていた」と改めて述懐する侑子に、夫の拓水は「でも健太くんママでいられる時間も、そう長くはないんだよ」と言う。もとはと言えば、再就職を志していた侑子が専業主婦になることを決めたのも、夫が「少しゆっくりしなよ。…(子どもの成長を見守れる)今は、今しかないんだよ」と声をかけたことがきっかけだった。家事にも育児にも協力的で、たしかに理解ある夫ではある。だが、そういう拓水が「健太くんパパ」でいる時間はいったいどれほどのものか。秋山拓水として職場で働く彼にとって、帰宅後や週末に夫や父として過ごす時間が充実したものであったとしても、健太くんパパとしか呼ばれない場面は、生活全体のほんの一部にすぎないのだ。
子育てはたしかに大事な仕事である。子どもの成長を見守る時間はかけがえのないものだ。しかし、時間とエネルギーを注いだ証が、自分自身ではなく子どものふるまいや成績、あるいは受験の成功といった結果でしか測られないと感じてしまうような「職場」が家庭や幼稚園のつきあいだとしたら、それは息苦しいものにならざるを得ない。もちろん共働きの母親も子どもの「お受験」は経験するだろうし、特有の悩みはあるだろう。ただ、自分の名前で呼ばれる時間と場を確保できるかどうかが、冒頭のナレーションに出てきた「二種類の母親」の経験を分ける要因なのかもしれない。
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