2015.09.10 Thu
もう一度、しっかりと生きるために
「乳房再建」へ向けて
「乳がん」で右乳房を全摘してから1年後、私は「乳房再建」への一歩を踏み出した。まず乗り越えなければならないのは、エキスパンダー(=乳房の位置の皮膚を拡張する医療器具)挿入手術だった。再建の本手術の前に、新しい乳房を形成するための土台作りである。
手術に要した時間はおよそ二時間半。今回の手術は、全身麻酔といっても、胸にちょっとした医療器具を入れ込むだけ、と軽く思っていたが、大間違い。それは甘い考えで、麻酔から覚めた後の吐き気と痛みには、正直、まいった。
会社勤めの夫には、
「簡単な手術だから、付き添わなくていい」といい放ち、ひとりで入院し手術を受けただけに、いまさら弱音をはくわけにはいかなかった。大部屋の病室から、トイレまでの距離が長いこといったらない。壁にしがみつくようにして歩き、やっとの思いでトイレにたどり着いた時には、冷や汗が流れた。お茶を飲むために、廊下に設置してある給湯器の所に行くだけでも、術後のからだには重労働で、自分ひとりで身の回りのことをするたいへんさを思い知った。それでも、からだの辛さとは反対に、「乳がん」によって乳房をとり、平らになってしまっていた右の胸に、もとあったような膨らみができたことは、嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。
1週間の入院生活を終え、自宅へ戻るために病院を出た私は、ありとあらゆるものに光が差しているようで、目にするものすべてが輝いて見えた。駅まで歩く道沿いにある、ブティックのショーウィンドウに映る自分の姿を見ると、しっかりとしたバストラインが映し出されている。私は胸を張ってみた。誰が見ても、私のことを、かつて「乳がん」で乳房を失った人間だったとは思わないだろう。これから私は、胸を張って生きていけるのだ、と。
冷静に考えてみれば、もともと世の中の誰も、私の胸に気を留めたりなどしていないのだ。ただ、私自身が、自分のことを、おっぱいを失った、かわいそうな人間・・・という思いで自分を見下し、ひとからもそう見られているに違いないと、思いこんでいたのだった。しかも、なぜ、こんなに「醜いからだ」になってしまったのかと、心のなかで、自分のからだを責め、自分の存在を軽蔑さえしていた。これからは自分をもっといたわらなければ、そして毎日の生活をもっともっと楽しもう…そんな気持ちにもなった。
体力は日増しに回復し、エキスパンダーを挿入した場所に、生理食塩水を足すことで胸のふくらみを大きくする処置をするために、新幹線を使ってS医師の勤務する病院に通った。
お尻の脂肪から、乳房ができた!
エキスパンダーの挿入手術から、待ちわびること10ヶ月。ようやく乳房を自分の脂肪で形成する手術を受ける日がやってきた。そのときの気持ちを白状すれば、「やっとこれでおっぱいがふたつあるからだ」になれるという高揚感とは反対に、長時間のしかも難解な手術への恐怖から、どこかに逃げ出してしまいたい気持ちだった。
私は手術前夜、どこの脂肪を乳房として移植するのか、S医師と最終的な話し合いをした。その結果、右のお尻(臀部の上位部分)から脂肪を取り、新しい乳房を形成する決断をしたのだった。これは、時間が許す限り、患者本人に考えさせたうえで手術法を決断するというS医師の方針でもあった。
手術は優に8時間はかかると聞いていたが、実際に要した時間は6時間半。全身麻酔をしていた私にとってはあっという間の出来事のように思えた。
術後、病室で麻酔から覚めた私は、夫と、見舞いに来た友人たちのほころんだ表情を見て、この手術が成功したことを察した。
「ありがとう」
私が言葉を発したのはそれだけで、すぐにまた目を閉じ、S医師が率いる医療チームの仕事に思いを馳せた。
手術台での私は、お尻から脂肪を取るために、最初はうつ伏せにされていたはずだ。乳房を形成するのに適した脂肪を丁寧に取り出した後、医師たちは、私のからだを仰向けにし、乳房となる位置に、摘出した脂肪の血管を胸の血管と繋いでいった…。想像しただけで、気の遠くなるような仕事だ。 血管どうしを縫い付けるという緻密な作業は、かなりのストレスを伴うだろう。しかも長時間、根気と集中力が必要とされる、きつい手術である。私は卓越した手技を持つ医師たちが全力を尽くして、私の乳房を作ってくれたことを想うと、何と表現していいのかわからないほど、感謝の気持ちで胸がつまった。
「よくがんばりましたね。私もがんばりましたよ」
病室に様子を診にやってきたS医師は、ベッドに張り付いた私に、ごく自然に、その右手を差し出した。女性のように白く繊細な手だった。私は、こみ上げてくる熱い想いを言葉にできず、ただ力を込めて強く握り返したのだった。この手が、私の乳房をつくってくれたのだと想いながら。
術後48時間は、ベッドに張り付いたままで、じっとしていなければならない。繋いだ血管を守るために、身動きひとつしてはいけないのだ。寝返りさえもできないのは、堪え性のない私にとって、ひたすら耐える時間だった。からだを動かすことによって、血管が破れては、もともこもないからだ。1時間ごとに、担当の看護師さんが、専用のセンサ―を使って、私の胸に異常がないかをチェックした。24時間の看護体制のなかで、ひらすらじっとしてベッドに寝ているのは、まるで自分の忍耐力を試されているようだった。我慢の限界に挑戦しているとも思えるほどでもあった。
それでも、新しい乳房が完成した喜びに比べれば、これくらいの苦痛は、がまんしがいがあると思えた。仕事の都合で、短い時間しか病院にいられない夫に代わって、身の回りの世話をしてくれたのは、学生時代からの親友である、Y子とK子だった。
地方都市に住む彼女たちには、
「お金も時間もかかるのだから、わざわざ見舞いに来なくていい・・・」
そう伝えておいたにもかかわらず、彼女たちはふたり揃って、手術の前日から病室に現れたのだった。それもまるで、卒業旅行のような楽しそうなノリで私の前に突然姿を見せ、手術を目前に控え、不安な気持ちの私とはまったくの正反対で、なんだかウキウキしている。「乳がん」がわかったときは、私は彼女たちに知らせなかった。それぞれに親の介護や、経済的な問題などを抱えている彼女たちに、余計な心配をかけたくなかったからだ。乳房の全摘手術から1年が過ぎ、「乳房再建」への希望が見えてきたとき、ようやく私はそれまでの出来事を彼女たちに打ち明けたのだった。頻繁に会うわけでもなく、連絡をせっせと取り合うわけでもない。それでも人生の節目で必ずといっていいほど、関わってきた。病院の近くのホテルをとり、泊まり込んで世話をしてくれた彼女たちとは、出会ってからもう30年以上にもなる。どんなことがあっても、さりげなく寄ってもらえるありがたさ。「人生の宝物」という表現が、ふと浮かんだ。
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