上野研究室

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フェミニズムから見たヒロシマ

2012.10.01 Mon

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 「ヒロシマに爆弾を落とした。それでも日本は無条件降伏しなかった。したがって、我々はやむを得ずナガサキにも落とした。それでも日本は無条件降伏しなかった。我々は、ヒロシマ・ナガサキに原爆を落としたことを正しかったと思っている」
―アメリカの航空宇宙博物館において、エノラ・ゲイの機長が話すインタビュービデオが、14分間エンドレスで大型画面に上映されている。その後、乗組員14人の写真が映し出され、「彼らは愛国者だ」とナレーションが入る。
アメリカ人の若い男女や観光客がそれをじっと見ている。「ほんとに吐き気のするような経験でした」と、上野さんは語る。ビデオは、上から見たヒロシマを映し出す。遠くから見たキノコ雲。その下に一体どういう人間の暮らしがあり、どういう惨状があるか。
スミソニアン博物館には、その惨状を偲ばせる情報、原爆の遺品類の展示はなく、視点は極めて一方的なのだ。

市民社会において、殺人と暴力は犯罪であることは明白なのに、国家の名において行われた殺人と暴力は、「公的暴力」で犯罪にならない。これは一体何を意味するのか。そして国家とともに市民社会に属さない、私領域における「私的暴力」がある。
この二つの暴力には驚くべき符合がある。二つの極で、一人の市民=一級市民によって行使される時、市民社会ではその両局が両方とも非犯罪化される。
ここで見え隠れする女性が一級市民、一級国民になるとは一体どういうことだろう。女が自分たちも一人前だと主張した結果、「女性の国民化」が目指された。国民化していく際、モデルになっている一級国民とは誰なのか。
フェミニズムのゴールは、一級国民のモデルを男とし、男に似ることなのか。
公的領域における暴力の犯罪化は、私的領域における暴力の犯罪化と同時に目標とされ、しいてはあらゆる暴力の犯罪化を達成する方向を目指す。これがフェミニズムの解と、きっぱり言い切る。フェミニズムは、この世の中でワリを食った、差別を受けた、弱者の立場に立つ人々が、他の誰かに力づくで支配されない、弱者の尊重を主張してきたマイノリティの思想なのだ。
ジェンダーの差異そのものの解体がもたらす未曾有の世界を、想像する。一歩を踏み出すためらいはいらない。国家でも市民でもなく、個として生きる権利をフェミニズムから視るとき、あなたが思い描く未来はどんな世界となるだろう。

堀 紀美子

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タグ:フェミニズム / 上野千鶴子 / 民族差別 / 性差別 / 人種差別 / 軍隊 / 堀 紀美子