1月末、私は、左の肩・背中・首の激痛に、てっきり動脈瘤破裂の前ぶれか!?と、ハートの病院へ。

痛みで唸っているのに診察は順番通り。心電図と胸のレントゲンを見た若い医者の“この病院では出来る治療はありません、整形外科へ行って下さい。こちらで紹介できる病院は知りません”とつれない言葉。

整形外科では、首のレントゲン。頸椎が潰れて神経に触っているとのこと、鎮痛剤を処方されました。
左の激痛が少し和らいだ2日後、右脚の付け根から足先までのしびれる痛み。
腰のレントゲンを撮り、腰椎が潰れていると、鎮痛剤を増やされましたが脚の痺れと痛みは取れず、立ち上がると痺れと痛みに襲われました。その激痛2週間、80歳の夫が家事をやってくれました。痛み止めという対処療法しか老人にはないのでしょうか。

障がい者について学んだ時、健常者とは人生のあるいっときに過ぎない、いずれ何らかの障がいを持つ…という言葉を思い出しています。耳も遠くなり、TVの音も大きくなりましたしね!

昨年は、走り回っていました。今年も大切な活動の年と、武者震いしていたところですのに!

座っている分には足の痛みはありませんので、パソコンに向えています。7週間たちましたが、立っていたり、歩きはじめると右脚の痺れを伴う痛み。ショッピングカートに体を預けてのお買い物姿です。脳への痛みをブロックのする鎮痛剤だけの処方でいいのか医者の聴くと、“あとは手術ですね!”と。友人たちが大きな病院へ行くべしとのアドバイスで慶応病院の整形外科で診察していただく予定です。

直ぐ病院へ行けない理由として、愛犬ミリミがこの1週間水だけ、腰も抜けてしまいました。ミリミを見送るまでは動きが取れず、痛みに耐えながらミリミと私の老々介護で鬱気味!

4月1日障がい者差別解消法が施行され、合理的配慮が国・自治体には義務とされ民間は努力義務。 障がいを抱えてみると、いかに合理的配慮がないかを知らされます。

2月17日は、茅ヶ崎市役所分庁舎で神奈川県の「障がい者権利条約」の講演とシンポジュウムに。足は相変わらず激痛があったのですが、神奈川県が「障がい者権利条約」を、どのようにとらえているのか知りたくて出かけました。

長女が海老名駅まで車で、夫がJRの改札口まで送ってくれました。茅ヶ崎駅からタクシー。神奈川県は「インクルーシブ課」を他の「部」の上に位置づけたという事でしたが、今日は国の制度がどの様に「障がい者権利条約」と折り合いをつけ(整合性)、

4月1日から施行の「障がい者差別解消法」を造ったかが少し解る程度の講演でした。2006年に「我々のことを我々抜きで決めるな!」というスローガンを掲げ国連で採択された「障がい者権利条約」でしたので、それがどの様に反映されているのか?との質問をしましたが、やはり日本的に解釈されているようでした。障がい者自身の決定権が何処まで保障されているかがはっきりしない。

障がいを持つ7人のパネラー(車椅子、全盲、聾、オストメイト、精神障害、6の病気を持つ障がい、盲聾)、の話はそれぞれの障害で受ける差別、何が合理的配慮か等、その立場の方々の問題直面の様子が解り参考になりました。
驚いたのはヘレンケラーの障害を持った人(中年の男性)の話でした。指通訳でした。「日本にはまだ盲聾者と言う教育(?)がありません。盲聾の障がいをもった子ども達にも、自分で考えられることが可能になる学校が出来るような、合理的配慮をお願いしたい。」という衝撃的な言葉でした。

1979年、日本では各都道府県に養護学校を整備(現在特別支援学校)し、分離教育が完成してしまいました。しかし1979年段階で世界は「インクルーシブ(統合)」に移行していました。学校から障がい者のお友達がいなくなったのです。そして街にも障がい者は見当たらなくなりました。「人生の前半は特別支援学校」、「人生の後半は施設」でと、障がいが重度であればあるほど、分離した世界に置かれるという日本の現実がありました。
しかし日本も2年前、「障がい者権利条約」を批准したので、それら差別の解消に向けなければならなくなります。それが合理的配慮。以上のことを質問で投げかけました。政府への働きかけが大切では?と。

終った後、私の年賀状兼名刺をシンポジュウムの人たちに渡しました。二分脊椎分離章など6つの病気をもっている若者に「又お会いしましょう!」というと、「海老名からの質問した方ですね、覚えました!」と。盲聾の方とは握手で交流。聾のおじさんは海老名在住で、今度お会いしましょうと約束。

私が障がい者の人権に関心を持ったのは、オンブズマンの月1の会議で使うサポートセンターでのこと。 1階は障がい者の作業所。見るともなしに見える様子に、この人たちは幸せと生きがいを感じておられるのだろうか…?イヤそうではないように見える・・・。格子なき牢獄にいるように見える。
○毎日限られた人としか接しない。
○一般の人とのコミュニケ―ションがとれていない。
○とれるような配慮がなされていない。・・・と私には感じられたのです。

国連で「障がいのある人の権利条約」が採択された頃。
放送大学の「障害のある人々」と「各国の福祉」を少し勉強しました。そして海老名市の政策研究員時、「海老名市をノーマライゼーションと男女共同参画実現の町に!」~すべての人が区別・隔離・差別されず地域社会の中で生活でき、自分の意思を我慢することなく、生きいきと生きることのできる町~という39ページの提言をしました。・・・理解されなかったようです!

■ 大治 朋子 ■