前回に続いて、「戦争アカン!京都おんなのレッドアクション」が主催し、「24条変えさせないキャンペーン」が協賛した、「24条から考える自民党改憲草案」学習会の内容を報告します。本学習会は、2016年10日22日(土)14:00〜17:00に、東本願寺しんらん交流館にて開催され、吉田容子弁護士による憲法、とりわけ24条に関する講演を聞いた後(今回)、保育と育児の現場から、女性たちが実際に直面している問題、わたしたちが求める政策や支援のあり方について発表がなされ(その 2) 、その後、約50人の参加者とともにグループ討論を経て、「戦争アカン!京都おんなのレッドアクション」共同代表の岡野八代がまとめを行いました(その 3)。
最後に、本学習会に参加したある親子の会話を紹介します(その 4)。
なお、本報告では、グループ討論の内容については割愛させていただきます。
まとめと閉会あいさつ:岡野八代(同志社大学大学院教授・レッドアクション共同代表)
今日はみなさんの発言からいろいろと学ぶことができました。途中からの参加で、吉田先生の講演を聞くことができなかったのが本当に残念でした。吉田先生の講演の中にもあったかもしれませんが、自民党の憲法改正草案24条で、追加された第1項「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」についてです。自民党改憲草案のQ&Aでも、朝日新聞にもインタビューが掲載されていた、「日本会議」の重鎮で憲法学者でもある百地章氏は「世界の傾向だ」と言います。
確かに調べてみると、家族に関する保護規定、保護条項といわれるものがあり、ヨーロッパでもそういったものがあります。一方、世界人権宣言の第16条3項では、「家族は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であって」と前段では書いてあり、一見してみると自民党会見草案と似ています。しかし、世界人権宣言はその後半が重要で、だからこそ「社会及び国の保護を受ける権利を有する」とあります。自民党改憲草案Q&Aで述べられている思想とは真逆であり、自民党改憲草案Q&Aで、「家族は自然な単位」であるということのみを「世界の傾向だ」ということは、墓穴を掘っていると言えます。
いま日本の現実は、一人世帯も多く、多様な社会、多様な家族のあり方があります。同性パートナーと過ごしたい人も、ペットを家族だという人もいます。大切にしたい絆や「家族的なもの」を、社会が守ることが大切です。介護でも、一人で抱え込んでしまうと、「早く死んでしまわないかな」と思ってしまうこともあります。家族が気持ち良くすごせるようには、ヘルパーさんに助けてもらうなど、人の手を借りていくことがどうしても必要になってきます。そうした家族以外の支援、社会の支援を受けられることが必要です。こういうことを私たちは、声を大にして訴えていく必要があります。
みなさんのお話を伺うと、自民党の国会議員たちは、いかに現実を見ていないかということがわかります。6人に1人と言われる子どもの貧困についても、民主党政権時代に統計を取り始めて明らかになってきました。日本は高等教育についての公的支援がとても少なく、先進諸国OECDの中でワーストです。この国は、子どもを育てたり、人を育てたりすることに全くお金を使わない国です。本当に税金を何に使っているんだというくらい、教育に使っていない国です。自民党の赤枝恒雄という国会議員は、子どもの貧困を語り合う会議の場で高等教育の話が出ると、「がっかりした。義務教育さえしっかりしていればいいんだ」ということや「親に言われて仕方なく進学しても女の子はキャバクラに行くと」として、そんな生活をするくらいなら、高校に行かなくていいという意味の発言をしました。
女性は育児や介護に身近に接しているのでよくわかると思いますが、「家族で助け合え」と言っている自民党こそが、アベノミクスの経済によって、働かせすぎて過労(死)であったり、低賃金で働かせたり、若者は家族を作れない、結婚なんて考えられないような状況をつくっています。「家族で助け合えないようにさせている張本人」が、「家族で助け合え」という矛盾が自民党政治です。経済政策によって、家族の繋がりをバラバラに切っておいて、それを家族の責任にする。自分たちが壊したものを人の責任にして、無責任極まりないと思います。
最近、「自己責任」のことをずっと考えていましたが、「責任」という言葉は英語だと“responsibility”で、これは“response”=「応答する」と“ability”=「…の能力」という単語でできています。責任とは「応答できる」、つまり「できる人がする」という意味です。一方、いまおこわれているのは「できない人にまで押し付ける」こと。こうした自民党憲法改正草案の24条を中心に、日本を潰し、心もボロボロになって、あとは企業戦士になるか、本当に戦争に送られるか、そういう国民を心から作りたいと思っているのだろうと、私は思っています。
いろいろな人がいて、家族にいろいろな事情があっても、ひとりひとりが夢を持って生きられる家族のあり方を目指していくべきだし、一人でも安心して生きられる社会を目指していくべきだと思います。また自分のことを大切に思えるような、自分のこともケアできるような人を、政治は本来、政治の力によって作っていかなければならない。それがいま、本当に壊されそうになっていると思います。ですから今日、みなさんとこういう場を持てて意義深かったし、またこういう場を持つことができればいいなと思います。
こういう輪が少しでも広がって、家族の問題で本当に大変な、特にこうした場に出て来ることができないような人たちも元気になれるような作戦を、どうたてていくかが大切だと思います。家族のことで大変になればなるほど、外に出ていけなくなります。そして、いかにこの憲法改正草案が、家族に押しつぶされそうになっている人たちに鞭打つ規定かということを、やはり声を大にしていかないといけないと思います。
ある雑誌に24条のことを寄稿する際に、今更ですが24条の成り立ちを勉強しました。24条の作成に関わったベアテ・シロタ・ゴードン(1923-2012)さんの草案を紹介したいと思います。
「家族は、人類社会の基礎である。その伝統は良きにつけ悪しきにつけ、国全体に浸透する。それ故、婚姻と家族とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意にもとづき、かつ男性の支配ではなく両性の協力にもとづくべきであることをここに定める。」
この他にも、実はベアテはいろいろなことを書いています。たとえば、「女性や子ども、恵まれないグループの人々には特別な保護が与えられる。国家は個人がみずから望んだ不利益や欠乏でない限り、そこから国民を守る義務がある。」と。
以上の内容が、いろいろと削られてしまいましたが、それでも当初の彼女の精神が、今の日本国憲法第24条になり、第25条(生存権)へと生かされたのかもしれません。
私たちはみんな、お母さんから産まれてきます。必ず誰かから生まれてくる私たちは、「ケアの関係」が必ず必要な存在であり、国家から保護(ケア)を受ける権利があるということになります。これは権利なのだということです。ベアテの憲法草案を読んで感動しましたが、こうしてみると、自民党憲法改正草案第24条の第1項は、ベアテの24条の精神と全く逆に書き換えているということがわかります。2項と3項を完全に打ち消すような内容になっています。
以上のような内容を、ここ東本願寺が発行する雑誌『身同』に寄稿しました。今年の12月に発行される聞いておりますので、またアナウンスさせていただきます。
本日は本当にありがとうございました。
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