シスターフッドと国境線

 2017年2月11日に中日新聞に掲載された上野千鶴子さんの「平等に貧しくなろう」と題する投稿に対する、私たち(稲葉奈々子、髙谷幸、樋口直人)の公開質問状で始まった議論の過程で、上野さんには2度にわたって応答していただきました。またWANのHP上で、フェミニストの皆さんによる関連する議論が展開されたことで、移民研究とフェミニズムの出会いがあり、社会運動と研究のあり方について大きな示唆を得ることができました。

 私自身は、フランスをおもなフィールドとして研究をしながら、移住連の活動をつうじて、海外とくにフィリピンの移住者支援のNGOと付き合いがあります。日本のNGOと、日本に出稼ぎに来る外国人労働者の出身国のNGOが交流するようになった1990年代、特に北京女性会議は、国境を越えた女性運動の連帯を感じさせるものでした。しかし、日本人女性の活動家から、「日本とフィリピンの間に圧倒的な力関係の差があるのに、脳天気に日本人のほうからフィリピン人女性たちにシスターフッドとは言えないのでは」と指摘され、フェミニズムが植民地主義や移民の問題にどうアプローチするのかに関心を持ってきました。

 日本の外国人労働者問題はまず「じゃぱゆきさん」問題としてはじまり、「アジアの女たちの会」などのフェミニストが、植民地主義の問題の延長で「じゃぱゆきさん」を捉えており、そうした立場から学ぶところは大きかったです。欧米ではブラック・フェミニストなど当事者が指摘することを、日本の場合は1970年代末にすでに日本人フェミニストが論じていたともいえます。そうしたフェミニストたちから、私は研究者として移民女性に対してどのようなアプローチがありうるのかを学びました。

移民女性は欧米に移民することで「解放」されるのか

 フランスやアメリカの研究では、移民女性が移民先の国で「解放される」という仮説があります。出身国よりも民主主義の度合いが高い国に移民する場合が多く、そこで男女平等など民主主義的な価値観に触れて、移民女性が「解放」される、と。本当にそうなのかなあ、なんだか盗っ人猛々しいというか、傲慢な理論にも思えたのですが、「アジアの女たちの会」のアプローチは、1990年代の私のそうした疑問に答えてくれるものでした。

日本で介護労働に従事しているジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン(JFC)の母たちは、もとをたどれば1980年代末に「じゃばゆきさん」つまりエンターテイナーとして来日した女性たちです。このことだけとっても、日本への移民の流入は、ジェンダーの問題さらにはフェミニズムのテーマと切り離して考えることはできません。しかし実際には、相互に学問的な交流がほとんどないままでした。

その背景のひとつとして、フェミニズム理論が複雑化しすぎて、すぐには移民研究に応用できないという問題があります(クィア理論などには、まったく対応できていません)。移民については、セクシャル・マイノリティついての言及がされることもありますが、基本的には素朴に「女性」と「男性」しか想定されていないのが現状です。
ふたつめには、賃金が安く、女性の地位を下げるような「女の仕事」に従事したり、男性に従属的とみなされる文化・宗教実践をすることを、フェミニストの価値観と相反するとみなすかどうかの問題もあるのではないでしょうか。これはフランスをフィールドとして移民研究をしていると直面する問題です。ムスリムのスカーフをした女性やセックス・ワーカーは、3月8日の国際女性デーにパリの共和国広場から出発する「公式」のデモから排除されていると感じてきました。その結果、彼女たちは4年前から独自にデモを組織するようになっています。彼女たちは、現在のフランスのフェミニズムが、人種差別、階級差別、トランスジェンダー・フォビア、レズビアン・フォビア、セックス・ワーカー・フォビア、イスラモフォビアのいずれをも解決できないとし、自分たちのフェミニズムは、これらの差別と暴力の直接の被害者である当事者たちが決めた運動の方針に基づいて闘っていくと宣言しています。

移民などマイノリティ女性を差別する論理はイギリスにもみられます。アンジェラ・マクロビーは、男性と同程度に高等教育を受けるようになり、「女の仕事」に就かなくてもすむようになったミドルクラスの白人女性が、「女の仕事」に就くマイノリティ女性に差別的だと指摘しています(Angela McRobbie, 2009, The Aftermath of Feminism, SAGE)。ミドルクラスの白人女性からすると、「女の仕事」に従事したり、男性に従属的な文化・宗教実践をしている女性は、自分たちより劣った憐れみの対象でこそあれ、連帯の対象たりえない、と。西欧的民主主義の価値観に適った行為者でなければ、まだ「解放」途上と見なされてしまうわけです。

しかし、移民女性にしてみれば、生きていくため、家族を養うために選択している行為が、「フェミニスト」の運動に合致しないならば、フェミニズムのほうが、彼女たちのリアリティにあっていないともいえるのではないでしょうか(Patricia Hill Collins, 2000, Black Feminist Thought, Routledge)。

構造だけでなく、個人だけでなく

植民地主義に基づく構造的な差別を考慮する「アジアの女たちの会」のようなアプローチは、理論的には、今日のジェンダーと国際移動研究では「古く」なった印象が否めないのも事実です。移住女性は構造に規定される被害者としてのみ存在するのではなく、女性個人の行為者性に注目する研究が主流になっています。実際、人身売買で「債務奴隷」状態でセックス・ワークに従事させられて警察に保護されても、本人はブローカーを訴えるどころか、借金の返済を気にかけ、さらには日本に連れてきてもらったことに感謝の意を表明することすらあると、支援者たちはしばしば指摘します。それならば、「そういう仕事を選択しちゃダメ」、と言って済むほど単純ではないことは、先だっての私たちの応答のなかで述べました。

しかし、行為者性に注目するだけでは、なぜ日本の外国人登録者のうち、フィリピン人が中国、韓国・朝鮮に次いで3番目に多い外国人となり、その8割近くが女性なのかを説明することはできません。また、なぜ彼女たちの仕事が、セックス・ワーク、介護、家事、清掃、クリーニングなど特定の職種、しかも「女の仕事」に集中しているのかも説明できません。

移民女性、ひいては階級的・人種的マイノリティ女性が条件の悪い「女の仕事」に従事しているという事実が、もっと学問的に掘り下げて検討される必要があるのだと思います。

「階級」について言えば、日本においては移民女性だけでなく、シングルマザーの運動課題についても、フェミニストは関心を示してこなかったと「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の赤石千衣子さんが指摘しています(赤石2009「シングルマザーの現状と課題そして日本女性学会とすれ違い」『女性学』17号)。セックス・ワークも家事労働も、フェミニズムのなかでは一大論争を巻き起こしてきたテーマです。「売春婦」や「お手伝いさん」とされる仕事を、「セックス・ワーク」や「家事労働」、つまり「労働」として定義し、そこに従事する女性たちを「労働者」として位置づけてきたのもフェミニストです。

しかし、これらの仕事に従事するのが、しばしば移民女性やシングルマザーなど、階級的、人種的にマイノリティ女性であることが、フェミニズムの観点からは十分に考察されなかったのではないでしょうか。階級・人種・ジェンダー・セクシュアリティの交差は、マイノリティ女性の運動と研究では、1980年代から「インターセクショナリティ」の問題として取り組まれてきましたが、日本でこのアプローチを深化させるためには、フェミニズムから移民研究を鍛え直していく必要があることを痛感します。

今回の議論で、フェミニスト的思考から多くを学ばせていただき、国際移動研究に足りないところも、あらためてよく分かり、感謝しています。フェミニズムは、何を発言してもリアルな政治に直結してしまう運動である緊張感が、今回、フェミニストの皆さんの議論から伝わってきました。一方で日本人による移住者支援にも研究にも、そうした緊張感がそれほど共有されていないことが、今回の経験から思い知らされ、今後の課題を認識できたという副産物もありました。