ある日突然、やってくるかもしれない。
「おひとりさま」で暮らす日々。
夫がいて、子どもたちがいて、そんな日が来るなんて、
想像していなかった、と言ってもあとの祭り。
それなら心構えだけでも、と健康で自由に動けるときにしているのは、
すこし甘いかもしれないという出来事に遭遇した。
わたくしごとだが、この本を読んだあと、
この原稿を書くまでのあいだに、体調を崩して寝込んでしまった。
突然やってくるのは、家族がいなくなることだけでなく、
自分自身が健康でなくなることでもある。
布団から起き上がることができなくて、食べることもできない。
スマホであちこちに電話でなくても
連絡することができるのは、とても便利だと感じた。
すこし大袈裟だが、安否確認もしてもらった。
普段、何気なく過ごしていることが、どれほど貴重なことか。
動けることで、仕事でもプライベートでもご近所でも血縁でも、
だれかとつながってさえいえば、とりあえず、
おひとりさま環境の整備はうまくいっていると言えそうだと思った。
ただ、ひとりで暮らしている以上、覚悟しなければならないのは、
死ぬことよりも、死ぬまでの過程だと痛感する。
身の回りのことが自らの力でままならなくなったら、
意識だけで絶望していくのだろうか。
「わたしは、日本では超レアケースの確信犯おひとりさまなんです。
つまり家族を作ろうと思わなかった人間なんです。
家族を作ることを、自分の意志で選択しなかった。
そのことをまったく後悔していません。
どうしてかっていうと、誰かと運命共同体になることを
一切したくなかったからです。」(本文p.170)
家族を作らない選択。そもそも家族なら、
死に行くものの絶望やさみしさを、癒せるのか。
家族とだけではないつながりもある。
ひとり死はみじめで悪いものなのか。
自分の死を見通せない以上、どんな想定も想定外となるかもしれない。
対談中、山折さんから輪廻転生の話を持ち出され、
「いえ。わたしは、生きてる間によりよく生きたい。
それがわたしのモチベーションです。」と上野さん。
ひとり一人、ひとつひとつの選択の繰り返しが、人生を創り上げていく。
自分の、思いのまま選び生きることで見いだせる確かな事が、逝き方の極意と感じた。
■ 堀 紀美子 ■
2018.04.07 Sat