
清々しく爽やか、それでいてしみじみと涙ぐましい。博士論文を基にした精緻な研究書に対して、こんな情緒的感想はふさわしくない。それはわかっている。しかし読み終わってしばらく、わたしはそんな思いに浸っていた。
テーマは1970年代はじめのウーマンリブ(第2波フェミニズム)。巻末の紹介によると、著者は1985年生まれ。リブの娘、というよりは孫世代である。日本のリブは本書によって、この上ない継承者を得た。しかもただの継承ではない。「〈化外〉のフェミニズム」という新たな次元をひらいている。
*〈化外〉のフェミニズム
「化外」とは朝廷の支配の外にある「未開野蛮の地」。古来東北は「化外の地」として周辺化され、他者化されてきた。それはリブについても言えると著者はいう。リブは東京中心、それも田中美津らの活動を中心に語られてきた。そこから生まれた女性学も、対象は主婦的状況にある都市部の女性が中心、「地方」や農村部の女性は視野に入っていない。
この批判はわたしの胸に刺さる。これまでわたしは何度かリブの軌跡をあとづけてきた。昨年秋のWAN主催「こうして戦争は始まる 孫世代が出会う『銃後の女たち』」シンポでは、わたしたちの機関誌『銃後史ノート』が取り上げられたが、その最終号は「全共闘からリブへ」(1996年刊)。当事者の座談会や手記などで500ページ近い大冊だが、ほとんどが東京中心の活動である。「地方」、まして東北は視野に入っていなかった。
もちろんベティ・フリーダンの「名前のない問題」のように、高度産業社会におけるこぎれいな近代家族の女性抑圧を問題化する意義は大きい。しかし国家は一枚岩ではない。地域や産業構造等による差異がある。それに無自覚であることはゆるされない。
それに対して著者は、岩手の麗ら舎読書会への参与観察と、参加者、とりわけ主催者小原麗子、盟友石川純子のライフストーリーから、東北の地に生まれ育ったリブの生成発展をたどり、日本のフェミニズムに位置づけた。それを「〈化外〉のフェミニズム」と称するのは、「中央」や「東京」へのすり寄りではなく、「マイナスでしかなかった〈化外〉性を転倒して力の源泉とする」、「〈化外〉というスタンドポイントから日本近代を批判的に眺める」という姿勢による。清々しく爽やかな読後感は、まずはそこから生まれるのだろう。
*〈おなご〉の主体化
副題にある〈おなご〉にも同様の姿勢がある。〈おなご〉とは、小原が1976年に創刊した個人誌『通信・おなご』にはじまる。「婦人」ではなく「女性」「女」でもなく、あえて差別的語感をもつ方言「おなご」を使ったのは、自由を求めて都会に出るのではなく、「やっぱり地域のなかでやらなきゃ物事変わっていかない」、「身の回りにこそ問題がある」という発想による。
第2波フェミニズムの意義は、まずは「個人的なことは政治的」の発見にある。だとすれば日常における男との関係、「家」の問題等への姿勢こそが問われる。「身の回りにこそ問題がある」とする小原たち「おなご」はまさにリブを生きていたのだ。
* 〈おなご〉たちと戦争
それは戦争のとらえ方にもあらわれている。小原は驚いたことに、「戦争未亡人」は戦前にもあったという。「忠良な兵士の供給地」岩手では、多発した「戦争未亡人」問題が『あの人は帰ってこなかった』(大牟羅良 岩波新書)などにまとめられている。そこには嫁に手を出す舅の性暴力が何件もある。それによる妊娠を表す「粟まき」ということばまであるという。粟は麦などの畝と畝の間にまかれるからだ。それを小原は「戦争の悲劇」ではなく、戦前からの日常的問題が形を表したものにすぎないというのだ。
これは「戦争体験の悲惨」さのみを強調する平和運動への批判である。「従軍慰安婦」問題についても、「普段」から存在した植民地主義、民族差別、性差別と、戦争の重層的犠牲とする。その思いを凝縮したのが詩「火焔の娘、氷柱の娘」である。そこで小原は、戦争に行った父や兄たちに、「あなたたちは/異国の娘たち 異国の妹たちに/何をしたのだ」と痛烈に問いかけている。
さらに衝撃を受けたのは千三忌である。千三忌とは、貧しい農婦・高橋セキが、戦死した息子千三のために建てた墓を記念する行事である。1985年以来麗ら舎の重要な活動になり、その記録は毎回『別冊・おなご』にまとめられてきた。じつはわたしは以前からセキのことが気になっており、3年前に岩手で開かれた「全国女性史研究交流のつどい」の講演では、冒頭で墓に手をあわせるセキの写真を紹介した(参照・「全国女性史研究交流のつどい」基調講演)。しかしわたしの認識は、なんと底浅いものであったことか。
セキが建てた墓は普通の墓とはちがって、ただ「南無阿弥陀仏」と刻まれ、道端に建っている。著者が聞き取った小原、石川の語りから浮かび上がるのは、戦死したひとり息子のために爪に火を灯して墓を建てた母の「美談」ではなく、フェミニズムの文脈である。母の「美談」は家と国家に回収され、戦争を支える。それに対してセキが建てた墓は「家」に背を向け、路傍という公共空間で、行き交うひとに「南無阿弥陀仏」をよびかけているのだ。
なぜセキはそんなことをしたのだろうか? この疑問を追求する過程で、石川はこの地域に根づく民間宗教・隠し念仏の信仰にゆきあたる。70年代から個人誌を発行し、『まつを媼 百歳を生きる力』など聞き取りによる著書をだしている石川は、そうした歴史的背景をふくめて「おなごたちの千三忌」をまとめようとしていた。しかしガンにたおれ、未完に終わる。
その思いを引き継ぐかのように、著者は路傍に息子の墓を建てたセキについて、次のようにいう。「靖国神社という国家制度の中、「英霊」として支配される息子の霊魂を、和賀の「おなごたち」がつなぐ土着の反体制的民間宗教をもって国家から奪還した行為者でもあったのだ」。まさに国家を相対化する〈化外〉のフェミニズムである。
*「孕みの思想」と高群逸枝
そもそも著者の「おなご」たちとの出会いは、大学図書館でミニコミ『女・エロス』に転載された石川の文章を通じてだった。以後著者と石川の交流は深まり、最後のインタビューは死の3日前。死を前にした石川にとって、著者との出会いがどれほど大切なものだったことか。「おわりに」に引用されている石川のメールは、涙なくしては読めない。
石川は東北大学を出て高校教師になったが、男たちの操る「近代的知」の世界で失語症に陥る。しかし妊娠・出産を契機に、「孕んだ個我」の引き裂かれの感覚から「女の内界」をくぐった言葉を求めて「垂乳根の里便り」を発行する。わたし自身も『女・エロス』や『高群逸枝雑誌』で同時代的に石川の文章を読み、惹かれるものを感じていた。
しかしそれ以上のものにならなかったのは、彼女が傾倒する高群逸枝への批判による。第2波フェミニズムにおいて、高群は「女権拡張」による「男並み平等」ではない女性解放の提唱者としてよく読まれた。わたしも『火の国の女の日記』や『女性の歴史』は夢中になって読んだ。その「母性我」の提唱にも惹かれるものがあった。しかし戦中の戦争推進のための言論活動と、戦後における「愛と平和の人」へのシレッとした(と思えた)変身は受け入れられなかった。
著者によれば、石川の自宅は高群の「森の家」を意識して建てられたという。だとすれば石川は、死に至るまで高群への敬意を持ち続けたのだろう。そのことと高群の戦中の言論活動について、著者はどう考えているのだろうか。2年前わたしは和光大学ジェンダーフォーラムで「高群逸枝と母性主義」と題し、「自己責任」が問われるネオリベの現在、高群の「母性主義」に一定の意義を認めつつ、戦中の言論活動への批判とその原因について話をした。このWANサイトにその動画が収録されている(参照・和光大学ジェンダーフォーラム公開ブックトーク)。
* 複数のフェミニズムとミニコミ図書館
さて、最後に著者は、〈おなご〉たちによる「〈化外〉のフェミニズム」の意義を次のように言う。フェミニズムとは近代批判の思想だが、東北という「くらい場所」からは日本の近代化・産業化・都市化のもたらす矛盾がよくみえる。
「〈おなご〉たちによる「〈化外〉のフェミニズム」は、「くらい場所」から「日本のフェミニズム」を相対化し、日本国内に存在する複数の近代へ対抗する“複数のフェミニズム(feminisms)”という史観を提示する。」
だとすれば、WANのミニコミ図書館は大いに役に立つ。いまミニコミ図書館には、本書の基本資料である『通信おなご』、『別冊おなご』をはじめ、各地の女性たちの自己解放への苦闘あふれるミニコミが収蔵されている。著者が本書をまとめたときには苦労して紙媒体を収集解読したはずだが、今ではデジタル化され、ミニコミ図書館を開ければ居ながらにして読むことができる。
その意義を誰よりもよくわかっているからだろう。いま著者は南米チリのサンチャゴで暮らしているが、ミニコミ図書館の有力スタッフとしてIT技術を駆使、わたしなどにはチンプンカンプンのシステムの不具合を、地球の反対側からいち早く修復してくれる。
本書が引き金になってミニコミ図書館が活用され、日本近代を相対化する「複数のフェミニズム」が若い世代によって生み出されることを願っている。
◆柳原 恵(やなぎわら・めぐみ)
1985年生。お茶の水女子大学大学院博士課程修了。民間企業勤務を経て、現在、日本学術会議振興会特別研究員、チリ大学ジェンダー研究学際センター博士研究員。
岩手に育って岩手の先輩フェミニストに聞き書きしたり共に行動するなかで学んだ。その結果「リブやフェミニズムという言葉がない頃から、新しい生き方を求め、行動を起こした女性は東北地方にも確実に存在した。彼女たちは地方に立脚し、自らの思想を作り上げた」と断言するに至る。そしてその継承者になろうとしている。チリ在住。
◆加納実紀代(かのう・みきよ)
1940年生、女性史研究家。著書に、『女たちの〈銃後〉』『戦後史とジェンダー』『ヒロシマとフクシマのあいだ――ジェンダーの視点から』など多数。
*本書の著者である柳原恵さんによる「自著紹介」も掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。
*本書についての書評セッションが、9月3日に開催されます。柳原恵さんご本人のほか、コメンテーターに岩手出身で芥川賞作家の若竹千沙子さん(『おらおらでひとりいぐも』著者)、新進気鋭のジェンダー研究者茶園敏美さんも登場します。イベント詳細・申込案内はこちらから。
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