2010.01.31 Sun
前回に引き続き、『女性学年報』(以下『年報』)30号(日本女性学研究会)発刊に際し、編集委員3名(小山有子、森松佳代、荒木菜穂)による座談会をお届けしたいと思います。

前編では、女性学的視点で作られる『年報』についての話題でしたが、今回は、女性学と権威主義、なぜ今の時代に「女性学」? というようなことについてお話ししていけたらと思います。最後のほうに今号の盛りだくさんな内容や目次も紹介していますので、ぜひごゆっくりお楽しみください。ちなみに上の写真は、カラフルなバックナンバーの一部です。
※『女性学年報』は、日本女性学研究会サイトhttp://www.jca.apc.org/wssj/
もしくはオフィス・オルタナティブ06-6945-5160 begin_of_the_skype_highlighting 06-6945-5160 end_of_the_skype_highlightingよりご購入いただけます。
【「女性『学』」であることと権威主義】
小山:
『女性学年報』(以下『年報』)は結果よりもプロセスが大事にされる…むしろ「プロセスしかない」ような気がします。投稿論文へのコメント作業の後の結果よりも、コメント、編集を通じての人と人との関係性のほうに一生懸命になってしまうような。
そのような関係性では、今号掲載の小山静子さんの論稿にあるように「私が大学の教員であるいうことがわかった途端に、ありがたいという人もいて」ということへの悩みなど、生じてしまう力関係と向き合い、考えていく姿勢もまた『年報』らしいかなと思います。
荒木:
私も、気にしてはいけないと思いつつ、まだ学生の、こんなしょうもない人間がコメントなんてしていいんだろうか、なんでおまえなんかにコメントされないといけないんだ、みたいに思われないだろうか、という気持ちがあります。
森松:
私は研究者ではないので、「なんであんたに言われないといけないの?」と思われるのではと、最初はやはり少し気にしながらコメントしていたのですが、いろいろ話し合っていく中で、お互いわかりあっていくと、学生であるか先生であるかそれ以外であるか、といようなことは、だんだん関係なくなってくる、と感じました。
中には、すでに別のどなたか「偉い先生」に読んでもらった論文なのになぜこんな批判的なコメントをするのか、と言われる方もいらっしゃいますが、結局は、コメンテーターや執筆者が、お互いの人間性を探り合い、それが上手くいかなかった時、表面的な情報に基づいてお互い言いたいことを言えず気を遣ってしまうことになるのかなと思います。
荒木:
そういった探り合いや関係性が大切、ということですね。
森松:
初めて知り合う者同士がコメントや改稿の作業を繰り返し行い論文を作っていく、というのは、よく考えたら、かなりすごい作業です。10年ほど前のように、会って対面して行っていたコメント作業ならば乗り越えられる思いのぶつかり合いが、最近のメールや電話中心のコメントでは難しい。どうしても一方通行のコメントになってしまいます。本当ならコメントするほうが先生でされるほうが学生、というような上から下にコメントするほうが作業としては楽なんですけど(笑)、『年報』はそうじゃない方法を目指しているという。
小山:
コメントは上から目線で「こういう風に書き直せ」というような査読的なものじゃなくって、一緒に論文を作っていく、そのためにコメンテーターや編集委員が思ったことを伝える、お願いとか、希望みたいなものだと思います。だから、このテーマならこういう可能性も考えられるのに、これは書かないのかみたいなことではなく、その人の書きたいと思ってることに向けて、どれだけわかりやすく、かつどのように読者がスムーズに読める構成にするのかなど、そういった提案をしていくことがコメントなんだと思います。
荒木:
コメンテーターからの提案を、執筆者が無視するのも自由だし、私は関心ないです、とはっきり言い合えるような関係性を上手く築くことがまず大事ですね。上下関係がないと批判や指摘ができない、という状況を超えた関係性を作るような。なかなかスムーズにいく場合のみではないですが…。
【『女性学年報』30号の見どころ】
荒木:
今号の見どころは、まずは、このような『年報』30年の歴史の振り返りですが、けっして系統的にまとまったものではないですが、個人の思いが決して個人だけの思いではなく、全てひっくるめて「女性学」なのだという実感が、私自身、読んでいく中で持てた次第です。
小山:
そして、もちろん今号でも、特集以外に、力強い6本の投稿論文が掲載されています。それぞれのテーマは、男女共同参画、セクシュアリティ、クィア、暴力など、女性学に関連する様々な事柄が網羅されています。まず、木下直子さん「DV被害者支援をおこなう民間シェルターの課題」は、今現在、シェルターでは二次被害が起こりやすい、しかしシェルターの利用した方の声が残りにくい、という現実と、アンケート、インタビュー調査により丁寧に向き合われた論稿です。シェルターがあることでたしかに助かったけど、もっとこういうことがあったらいいということ、現実的な視点で提案されています。
荒木:
シェルターや活動を単に賛美するのでもなく、だからといって、二次被害について批判するのみでもなく、というところが現実的ですね。
小山:
いろんな問題関心の人がいて、自分とは違う問題関心の人に共感できるかどうか、相手の想像できるかどうか、ということが女性学の課題となってくると思うのですが、そのような想像力ためのリソースはなんらかの情報が必要。『年報』に掲載の論文が、そのような意味合いを持つことができればよいなと思います。
荒木:
みんながみんな当事者になれるわけではないので、どの立場でどう共感できるかが大事ですね。
森松:
木下さんの論稿では、シェルターの側の人たちは、こういう調査で、気づくきっかけになり、人に向かい合う仕事は常に問い直していくことが必要だと思います。木村尚子さんの論稿「『産ませること』から『選択的に産ませること』へ」では、資料を丁寧に追っていき、社会が出産をどう受け止めてきたのかということが明らかにされています。このような新たな視点での論稿は、出産に関するテーマの過去の『年報』に掲載の論文との関連で読んでも面白いかもしれません。
小山:
山家悠平さんは、27号、28号と論稿をいただいていますが、今号掲載の「遊廓のなかの女性たちがみた『近代』」でも、一貫して、遊廓と娼婦と歴史に関する独自の視点で歴史の描きなおしが試みられています。「遊廓のなか」にいた女性と現在の性に関する仕事につく女性たちとの間には境界線はない。同じように、「玄人の女」と「素人の女」の境界線がない。すなわち、「見る対象」「特殊な女性」としての「遊廓」の女性ではなく、現実を生きる女性として「遊廓の中」から彼女たちが社会を見るという視線が示されているのだと思います。
森松:
石河敦子さんの「総合職経験を持つ大卒専業主婦にみる性別役割意識の変容」では、「なぜ総合職経験を持つ女性の多くが専業主婦となるのか」という自らの疑問に基づき、その問題関心の解明が目指された、もっとも年報らしい「わたしから」のテーマでの論稿だと思います。結果的には、すぱっと結論が出る問題ではないですが、このテーマをめぐる現実の女性たちの苦悩や状況が滲み出る論文であると思います。
荒木:
桂容子さんの「フェミニズムと男女共同参画の間には、暗くて深い河がある」でも、男女共同参画の現場という内側からの視点に基づいた問題提起がなされています。
小山:
これまで日本がやってきたことの問い直し、これでいいのか、という視線を投げかけるという意味でも重要ですね。フェミニズムはここまでやってきたけれど、もし軌道修正ができるなら、敢えてする勇気も必要だと。こういうものなんですから、で済まさないというような。また、石井香里さんの「レズビアンのパッシング実践の可能性について」は、セクシュアル・マイノリティ女性の実践について、アイデンティティ重視の解放戦略では「よくないもの」とされてきたパッシング実践に敢えて光を当てるという試みがなされています。
これまでにも『年報』には女性のセクシュアル・マイノリティに関する論稿が、いくつか掲載されてきました。私は異性愛者ですが、セクシュアル・マイノリティの問題でも、男性のほうが代表されやすいということがあるように感じています。このような問題を扱う上でも、女性の問題という点も一つの観点として意味があるのではないかと思います。
荒木:
『年報』では、クィアやセクシュアル・マイノリティとして特別に特集を組むのではなく、女性学との連続性の中で女性のセクシャル・マイノリティを扱っていく流れもあると思います。「女性学」はヘテロ女性だけのものじゃない、しかし現実にはそういう傾向にあるのはなぜか、ということを考えつづけていくプロセスでもあると思います。
【なぜ「女性学」?】
荒木:
最後に、昨今は、もはや男女は平等のはずだ、区別なぞ必要ない、というネオ・リベラリズム的風潮が高まっていると思います。そのようなことを背景に、いつまでも「女性」にこだわるフェミニズムなんてダメだ、ていわれることも多い時代でもあるわけなのですが、いつまでも古くさい(笑)「女性」学を看板にし続けている『年報』なわけなのですが…。
小山:
今この時期にあえて言い続けることって…でも女性の問題はなくなったわけでは決してないと思います。そういえば以前、若い編集委員の方々から、『年報』の冒頭に設けられている「『女性学年報』のめざすもの」などの文章の中にある、「女性の解放の視点」という文言は古いのではないか、という意見が出たことがありました。
荒木:
たしかに、いろんな立場の人がいることが明らかになって、性に関してのみでさえいろんな権力関係の軸があるわけなのですが、まずは私たちは「女性が女性として置かれている状況」という軸を扱っていますよ、ということはあると思います。ついでに、それは扱い続けないとどんどん見えないものになっていく昨今の状況の中でこそ意味があるのではと思うこともあります。
森松:
「『女性学年報』のめざすもの」は、最近はあまり大きく変わっていませんが、バックナンバーをみていくと、そのときどきで、紆余曲折があって変遷しています。
荒木:
常に問い直しがされてきたということですね。
森松:
そのときの自分たちが正しいというのではなくて、何がダメだったんだろうということが、編集のプロセスでも常に考えられてきたのだと思います。
小山:
この30号でやり残したことは、印刷会社の担当の方へのインタビューです。印刷所の方は毎号の「初めての読者」で、かつ毎年、編集委員会でも見落していたような点に関する的確なコメントをいただき、最終的な完成に向けた構成をしていただいています。『女性学年報』は、読者の皆様、執筆者の皆様、編集委員、コメンテーターといった、多くの方々の関係の中で作られてきた雑誌です。関わっていただいた全ての皆様に心より感謝の意を述べさせていただきます。そのような、関係性としての「女性学」を、皆様の元にお届けできたらと思います。これから次の30年。今後とも『女性学年報』をよろしくお願い申し上げます。
荒木:小山さん、森松さん、ありがとうございました。
☆★★『女性学年報』30号目次と内容★★☆
【一般投稿】
木下直子◆DV被害者支援をおこなう民間シェルターの課題―利用者からの異議申し立てを中心に
山家悠平◆遊廓のなかの女性たちがみた「近代」―1920年代の新聞記事を中心に―
石井香里◆レズビアンのパッシング実践の可能性について
石河敦子◆総合職経験を持つ大卒専業主婦にみる性別役割意識の変容
木村尚子◆「 産ませること」から「選択的に産ませること」へ―1950年代の受胎調節普及事業・家族計画運動における助産婦への期待
桂 容子◆フェミニズムと男女共同参画の間には、暗くて深い河がある
【30周年記念特集『女性学年報』に寄せて】
上野千鶴子、堀川喜子、源淳子、小川真知子、荻野美穂、姫岡とし子、長谷川七重、古久保さくら、桂容子、森松佳代、細川祐子、横川寿美子、森理恵、千葉麗、荒木菜穂、河嶋静代、森綾子、黒木雅子、小川かおり、中西豊子 ・・・ほか、歴代編集委員・執筆者・読者からいただいた「当時」の話、「女性学」の話、編集の話などなど。
【フォーラム報告】
日本女性学研究会30周年記念「女性学・ジェンダーフォーラムin 2007」
※2007年に行われた日本女性学研究会の30周年記念フォーラムの報告です。様々な立場の参加者がガチンコで思いをぶつけるドラマティックな展開、女性学、フェミニズムとは結局どのようなものかについての「混乱」の記録としても面白いかと思います。
※女性学年報のお買い上げは、日本女性学研究会サイト
[url=http://www.jca.apc.org/wssj/]http://www.jca.apc.org/wssj/[/url]から。
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