日韓メモリー・ウォーズ《私たちは何を忘れてきたか》

著者:朴 裕河

弦書房( 2017-08-24 )

メモリーウォーズ」。上野さんがつけたというこのタイトルを、
日本語に訳すとしたら、「記憶の闘い」。
日本と韓国の間にながれた時を物語る記憶の闘い。
本書は、2016年3月19日、福岡市で開かれた福岡ユネスコ国際文化セミナー
「日韓メモリーウォーズ―日本人は何を知らないか」
をもとに一部補筆されたものである。

「歴史というのは、事実の集合とは単純に言えなくて、
むしろ選択的記憶と忘却の集合です。
しかも、何を語るかについては、
時代と社会が決めた公式見解というのがあって、
これをマスター・ナラティヴと言います。
たとえそれが事実であっても、
何を語ってもよいか何を語ってはならないかという、
発話の正当性が問われます。」
(はじめにp.7~8)

事実は、当事者の数だけ存在する。
そのひとつひとつを、私たちが、背景も含めて正確に知りえることはできないが、
研究者の目を通して、伝えられる事実、真実があるとして、
何を多角的に捉えているか、偏った、または操作された情報ではなかったか、
その当事者の思いは報われているか、
踏みにじられてはいないかを時間をかけて精査していく必要がある。
このとき同時に、意図して語られることのない事実の一部があるとするなら、
受け手である私たちは、欠けたピースの存在さえ知らずに、
思いを完結に向けて、進んで行ってしまうのだろう。

国家という単位で行われる最大の暴力である戦争。
そして、個人の身近に起こる争い。規模の大きさに違いはあるが、
自分でない他者とのかかわりのなかで繰り広げられることにちがいはない。
国家とは、他人事ではなく、個人の意思の集合体。
すなわち、個人である私たちが、戦争を選択する当事者になるかならないか、である。
暴力をふるう者の弱さが、ねじ伏せようとする力が、
受け止める準備の無い人たちを傷つける。
その事実を知るとき、個人としてのわたしに何ができるか。
すべては個人に還元されることを、未来志向における希望としたい。
私たちひとり一人の問題として、受け止め、考えることが問われている。
簡単に言えば、この先もずっと、闘い続けていきたいのか、そうではないのか。
記憶を、未来志向上にのせて、共に闘う。
人間は未来に、何を選び残すのか。
いまからつながる未来に、何を残さないのか。
■ 堀 紀美子 ■