再生可能エネルギーを農業・市民農園などと連動し進める市民活動「宝塚すみれ発電所」井上保子さんの存在を知ったのは2018年7月14日の「小田原ソーラーシェアリング」から。全国の再生可能エネルギーに取り組む実践メンバーが集まりノウハウを連携し広げることを目的としたシンポジウムで、もっとも印象に残ったのが井上さんだった。
宝塚市で、市民協業で6機の発電所を作ったという。「まさか新聞配達をしていた私に再生可能エネルギーができるなんて」というコメントにも、びっくり。仲間と始めたというのだが、それも身近な食を守るためという。どんな力を秘めているのか。どうやって生まれたのか、その原動力と手法を知りたくてインタビューとなった。
◆仲間が10万円ずつを出して300万円で手づくり発電所がスタート
「宝塚すみれ発電所」が生まれたのは2012年12月。2011年の東日本大震災で生じた福島原発事故がきっかけだった。井上さんたちが呼びかけ、仲間が10万円ずつを出して集めた費用は300万円。耕作放棄地に敷石を置き51枚のパネルを張って5時間で作り上げた11.16KW。3軒分の発電所が生まれた。ここからが始まりだ。
「1号は北部西谷地区にあります。宝塚の地図をみると、3分の2が西谷地区。宝塚は人口22万5000人で、西谷地区は2500人。5年前は3000人だったのが、1年で100人ずつ減っている。高齢化も進み過疎化している。そういうことを宝塚市民の人は知らない。ものすごい問題だと思った。でも私たちにとっては資源の宝庫」
宝塚は合併前4万人の町。合併後、大阪と神戸の間にあることでベッドタウンとして広がっていった。ところが西谷地区は、人だけが減っていった。そこに市民発電所の第1号が生まれたのだ。
井上さんは、それまで、生産者の顔の見える食べ物を共同で購入する消費者運動や、原発と環境や食のことを学ぶ勉強会に参加していた。2011年の事故(東日本大震災)があり、2012年、再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT)ができた。これはやりなさいということだろうと、2012年「NPO法人新エネルギーをすすめる宝塚の会」を立ち上げる。
「それまで電気は手を出しちゃいけないものだと思っていた。でも、自分たちでできる、というのでやってみたらできた。それで自信をつけたんです。
土地は探していたのではなく、たまたまの幸運。地主は反原発の集会で知り合った人。仲良かったのではなく、意見が合わず喧嘩ばかりしていた人(笑)」
借地料3万円/年が、太陽光発電の売電益から支払われている。その後にできた発電所も、宝塚市と協働で作り上げた3号以外は同様に売電益で借地料を支払っている。
売電で収益は出るが、収益事業を運営するのは大変だ。次々と発電所を作るには、銀行からも資金を借りないとできない。そのためには事業体というものが必要になり、「株式会社宝塚すみれ発電」を作ることになった。
「会社は実質、私一人で、あとはNPOメンバーがサポートをしてくれています。発電所自体は作ってしまえば、そうやることはないので、発電所の管理運営は発電所の設置事業者にサポートしてもらっている。NPOの理事が10名。運営委員が5名います。毎月1回運営委員会を開いています」
会社は、阪急電鉄今津線・逆瀬川駅から徒歩2分のビル1階にある。実は、このビル、もともと電気店だったところ。太陽光発電パネルの紹介をしていたので仲間の一人が飛び込み営業したら、意気投合。それが現オーナーの西田光彦さんだ。
「西田さんは電気屋さんの息子さんでエンジニアでしたけど、電気店を継ぐわけではなく、たまたま帰っていらして、そこに太陽光発電の看板を掲げていて、たまたま飛び込みで入ったと いうわけですね。それを面白がってくれて一緒にやることになった(笑)」
太陽光発電の設置事業者である西田さんの参加によって、事業はさらに進むこととなる。西田さんは、現在、すみれ発電所の取締役でもある。
◆新築の公営住宅暮らしでシックハウス症候群にかかり健康づくりに新聞配達へ
井上保子さんは、1959年宝塚生まれ、宝塚育ちの元イラストレーター。
「京都精華大学のマンガ科出身なんですよ。ぜんぜん仕事をするつもりなかったんですけど、結婚後、美術館のアルバイトに行って、そこでいたずらに人の似顔絵を描いたりしていた。それがおもしろいといわれて、イラスト描いてということから仕事として受けるようになった。今でもいろんなところに私の絵が残っているんですけどね」
ところが、25歳のときに体を壊してしまう。シックハウス症候群(Sick House Syndrome)だった。新築の公営住宅に入ったのが原因で、そこからありとあらゆる病気になった。盲腸を患っただけなのにほとんど破裂状態で1歩も動けず、半分死にかけるところまでいった。
「公営住宅は2年半で出ました。一時、神戸にいたのですが、宝塚に戻って体を鍛えようと新聞配達を始めた。それまでは月の半分は寝てましたからね。新聞配達したらよくなるかなと思ったのですが、店主から「半年は続けてもらわないと困る」と言われた。次の日に熱だして、でも我慢して、せめて1週間は続けようと始めた。結局25年やりました」
朝2時半に起きて、夜は8時半に寝ると決めた。8時までに食べることはやめ、飲むのも8時半まで。2時半に起きて、水だけ飲んで新聞配達に行って帰る。
それを続けていたら健康になって、3年くらいたったときにはもの足りなくなり、もっとハードなところをくださいと言って8階だてのエレベーター無しの大きなマンションをもたせてもらった。そこを駆け上り駆け下りして150軒から200軒を担当。昼間はイラストを描いたり環境の活動をしながらそれを続けていたら、どんどん健康になり、みんなに「元気だね」と言われるようになった。
「新聞配達に人生を教えてもらったようなもんです。途中からは楽しくて楽しくて仕方なかった」
体を鍛えるというのは排毒。体を動かし良い食べ物をとる。良い食べ物とは、生産地がはっきりしていて誰がどう作っているかわかって、それをどういただくかまでの一連を学んで、それをどうやって守っていくことができるかということにまでつながっている消費者運動なのだ、と井上さんは言う。
「今も、食品は共同購入しています。デリバリーもとっています。『発電会社の社長さんですよね?』とよく言われるんですけど、それをやっているのではなく、それを使って環境をどう守っていくこかというとをやっているつもりなので、電気だけを作っているつもりはない」
◆美術館時代にかかわった共同購入をきっかけに全国の生産地を巡る
井上さんの環境に対する信念は、美術館時代に出会った消費者運動を通して培われた。
「美術館でのアルバイトのときチラシがおいてあったんです。牛乳のことを考えるというような内容だった。牛乳が好きかと聞かれ、それで『北海道特濃牛乳大好き』と答えたんですね。じゃこんな集いやるから来るかと誘われて行ったら、ぜんぜん違ってLL牛乳(ロングライフ牛乳=無菌で長期保存ができる)の輸入の問題。それに反対する立ち上げの会でした」
輸入牛乳にも種類があると知り、そこから調べ始めた井上さんは、「私たちが飲んでいるのはなんだったの」ということを考えて悶々とし始めた。
「今度は同じ人から『バナナ好きか』と尋ねられて『バナナ大好き』と答えたら、今度、こういうのやるからとスライドを見せられた。来てくださいと言われて行ったら、題名が『人を喰うバナナ』。プランテーション(大規模生産の農業)の問題。それを観たときに思ったのは、自分たちがおいしいと思ったものが、傍で人の健康を害し人を殺すまでになっているものがある。食べ物を手に入れるってなんだとなった」
誘った人は、実は共同購入をやっていた。「生協のような大きな組織じゃないけれど、自分たちが生産地に行って、その人たちの思いを受け止めていいなと思うものをみんなで共同購入している」、と言うので井上さんも入会して今に至っている。
「すごい小さい会です。入ったのは26歳の頃だから1986年。同じ年の4月にチェルノブイリ原発事故で大騒ぎになったから、その前には入っていた。会に入って、それこそ北海道から九州までいろんな生産地を行くんです。そこで話を聞く。するとすべて環境がからんでくるんですよね」
◆チェルノブイリ原発事故が食の環境を考える大きな転機に
環境のなかには当然、原発も入ってくる。「珠洲(すず)市(石川県)のよしひろさんのスイカ一緒に取らない?」「なんなの?」「珠洲原発(珠洲原子力発電所)に反対している(2003年に計画は凍結)」「珠洲原発ってなに?」・・・と関わるうちに立木トラスト運動をはじめいろんなことを知ることになった。
水俣にも行って、今は亡き杉本栄子さん(漁業に携わり水俣病に罹患。その後、語り部となる。産直運動も始めた)にも会って話を聞いた井上さんは、「申し訳ない、私たちが知らん顔をして生きている間に、この人たちは、こんなに苦しんで生きてきたんだ」と知る。
知らん顔をすることは人を殺すことなんだと改めて身に染みた井上さんは、「生産地にこだわらないと絶対だめ」と考えるようになった。当時、生産者がどんどんいなくなっていた。亡くなる人、やめていく人、それを目の当たりにしてきたことがその思いを一層強くしている。
「食べものを守るということは、絶対に環境を守らないとありえないことで、よく反原発とか再生可能エネルギーをと言うけど、そうじゃない。それはあくまで手法であって、本当に私がやりたいことは、自分たちが安心して食べていける環境を守って作っていく人も食べる人も使う人も、みんな安心して生きていくことができる環境を作ること。それしかない。だから『いつも井上さんは農業や酪農って言うよね。なんで?』とよく言われるけど、『当たり前やん。そこが原点やから』と言ってます」
生産地を巡り環境の大切さを知った井上さんは、そこから、再生可能エネルギーの取り組みへと活動を始めることとなる。(パート2に続く)
◆宝塚すみれ発電
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