◆反原発の勉強会と運動に参加したことがきっかけに
 井上さんは、20代後半でかかわった食と環境の勉強会、そして共同購買事業で知った生産者の訪問に積極的に関わり、イラストレーターと新聞配達をしながら、現場で話を聞く活動をしてきた。そんななか、故・中川康雄神戸大学教授が始めた原発の勉強会「原発の危険性を考える宝塚の会」に参加。そこから反原発の活動にも参加するようになる。

ソーラシェアリングの前の井上さん


「そのときにちょうど日高・日置川原発(和歌山県)に反対する活動があってチラシのイラストを描いてと言われて、それくらいしか手伝えないから毎週のようにイラストを描いていたんです」

 中川氏が48歳で亡くなったあとは、当時、英米文学の大学教授であった妻の慶子氏が中心となった。

「お二人とも大学の先生をしながら活動をされていて、無理しすぎだと言われていて、その無理がたたったのだと思います。中川保雄先生は胃がんで亡くなられて、そのあとを中川慶子さんが引き継いでくださって、今は、「宝塚すみれ発電」の取締役も務めていただいています」

 井上さんが関わった反原発運動は、美浜原発(福井県三方郡美浜町)、日高原子力発電所(和歌山県日高郡日高町)。そして芦浜原子力発電所( 三重県度会郡南島町(現南伊勢町)、紀勢町(現大紀町))に作るという時には漁業者との話し合いの場にも行った。そこで地元の人から「あんたら言って帰るだけやろ。気楽かもしれんけど、自分たちはここに住んでいる。何もできない。お前たち帰れ」と言われる経験をした。

「地域の中でものすごい分断があった。こんな苦しいことをさせちゃいけないとそのときから思っていた。原発がいいとか悪いとかの話をする前に、すでに人間関係を絶ってしまっている。なんてひどい事業だろうと思いました」

◆原発反対だけでは前に進まない。そこから再生可能エネルギーの実現活動へ
 こうした運動を通して、井上さんは正しいということを正しいというだけでは通用しないんことを学んだ。

「ただ反対と言うだけでは、言えば言うほど人が引く。私は今年還暦なんですが、学生運動を知らない世代にとっては当時の反対運動は変な話、学生運動の世代の人たちがそのなごりでやっているという感じだった。それじゃあ厳しいな、という感じがあった。でもそれによって鍛えられた。半面教師ですね」

 しかし、再生可能エネルギーだと受け入れやすい人が多いと言う。井上さんは、これを「北風と太陽」に喩えた。

「外套を脱がせるのに北風ビュービューは正しいかもしれないが脱がない、じりじり照りつけて脱がした方がいいかなって。生ぬるいかもしれないけれど、でも、じりじりの照り付けはどんどん熱くしていきますんで(笑い)。で、その方法をあるときからとりはじめたんです」

 再生可能エネルギーを形にできたのは長く一緒にやってきた反原発運動の仲間たちがいたからだ。みんな原発が嫌だ、なんとかしたいと思ってきた人たちだ。

「NPOでお金を集めるのは疑似私募債しかないんですよ。人からお金を借りるということですね。そのときにターゲット決めてお願いしますと言うしかできない方法なんです。
 私たちは反対運動をしてきたけれども、これからは自分たちでエネルギーを作っていくんだよ、協力していただける方いませんかと声をかけたんです。そしたら仲間は後ろにいっぱいいますから、じゃ、出しましょう、となった」

 たまたまその時、井上さんが10年郵便局に預けていた10万円の貯金が戻ってきたところだった。その通知のハガキをみんなのところへ持って行って言った。

 「いい、今から言うよ。10万円を10年預けたお金が戻ってきた。600いくらの利子がついている。これで税金払うと400なんぼやて。うちらは10万円預けたら10年後には11万円にして返す。すごいお得(笑)。もうかった気しない」

 儲けようという人はいなかったが、みんな笑って「ほんとに儲かるんだ」と出してくれた。1口10万円。1ヶ月で32口320万円が集まった。

「でも手探りでしたよ。やったこともないし」

 1号機が生まれたあと、なかなか次に続かない。そんな時に協力を申し出てくれたのは、地元のお寺さんだった。境内の敷地を借りて、2013年11月、47.88kWの2号機発電所が誕生した。そして、同時に井上さんたちは市に対して再生可能エネルギー推進の要請をして、市との連携事業も作りだした。

「2号、6号は浄土宗のお寺さん。志の高い人で、宗教者はもっと社会的に物申すべきとおっしゃる方。1号機のあと土地探しにすごい苦労していました。ご住職がいなかったらできなかった」

市民出資で無配当という形で生まれた宝塚すみれ発電の3号機


◆市にも再生可能エネルギーの町づくりを提案して採択される
 2011年3・11以降、すぐに再生可能エネルギーで街づくりを行ってほしいと市に対して要請を行った。市長に対しては要望書、議会に対しては請願書を出した。紹介議員もいれて出して採択された。この時の文言は、「子供たちの未来のために再生可能エネルギーを使って安心安全な町を創ってください」だった。

「これ断ったら、子供のこと考えていないんかと言えるじゃないですか。3月に事故があって、6月の議会ですぐ採択となった。これだけ早かったのはうちだけ。当時は福島県から600キロ以上も離れているところで何を言い出すのか、という雰囲気だった。けれど私たちは知っている。チェルノブイリの原発事故で、遠く離れているところでも、牛乳にもお茶にも放射能が出た。600キロなんて目と鼻の先やって。許すものかと、このときはすごかったですね。押せ押せやった」

 それからは市と連携で市民発電をすることになり、そこから資金調達の方法も変わった。1号のときはみんなの出資。そのときは断った人も多かったが、2号のときは出資する人も増え、銀行からのお金も入るようになった。

「その時に社債にしたんです。社債になると配当金を払わないといけない。そしたら配当金いらないといわれた。そんな目的でやるんじゃない。配当するくらいなら次に作れとみんなから言われたんです」

 そのうち元金もいらんという人が出てきて戸惑っていると、「10年後には生きてないからあげる」というお年寄りも出てきた。NPOに30万円寄付した人もいる。
 2015年3月、兵庫県宝塚市山手台に45.6kWの3号機の発電所が生まれた。井上さんたちの要望が市に通り、市が土地を無償で提供し、市との協業の市民発電所ができたのだ。

 このモデル事業をやるときは無配当出資。そのことで弁護士さんに相談したら、「井上さんのやりたかったことができるかもよ」と言われ、それで始めたのが「すみれハート2015」。

「ファンドと言えないですよ。配当がつかないから。1口5万円。みんなに『あんた馬鹿じゃないの』『配当つかないのにお金貸してくれる人いないよ』と言われた。『無茶するな』とも」

 ところが蓋をあけるとどんどん振込があって、予定の500万円はすぐに超えてしまった。それどころか応募が多かったので、「ひとり1口までです」と断る状態であった。
 井上さんはみんなから、「井上さんがやろうとしたことは、みんなの名前が残ること。21世紀の寄進だね」と言われた。

「名前は書いてないけど、これまで神社とかがやってきたことやないの。なんとか左衛門10円也とか、神社の境内に書いてあるやろ、あれや、と。みんなで作り上げたものがここにある。安心安全の再生可能エネルギーがある。みんなでやれる。それが無配当につながったんですね」

 しかし、この3号機はいざ始めようとすると、すったもんだでもめた。というのも、その土地の住民との調整ができていなかったのだ。現地に行ってみると、住民から「話をきいてない。あんたたちの話はわかったが、市のやり方が気にいらん。市の担当者を呼んで来い」と言われる始末。

「こちらは話がついていると思っていたから、それからが大変でした。もともといざこざのあった土地だったんですね。市長はすごく進めたい、でも現場の人間がついてこれない。これはどこの行政でもよくあることで、よほどの職員でないと無理。でもそう言っていても仕方ないので、住民の方とも市とも何度もやりとりして、協力して進めました。そして実現しました」

◆農地を使いソーラーシェアリングを実現し継続できる農業を目指す
 4号機からは、ソーラーシェアリングにした。営農継続型発電と呼ばれるものだ。遊休地や耕作放棄地に太陽光発電を設置し、その隙間で農業の継続を行うというもので、農水省が推進をして各地で取り組みが進んだ。ところが、中に耕作放棄地、遊休地に太陽光を設置して肝心の農業はせずに売電だけを目的とするところが出てきたため、農水省は農地として活用することを条件にした。したがって、必ずなんらかの作物を栽培をしなければならない。加えて何を栽培ししているかも報告しなければならない。そもそも高齢化や離農で栽培をする人がいなくなった農地を使うことから、だれが農業をするのかが課題ともなっている。

 そこで考えたのが市民農園。農地をそのままにしていると、年々作り手が減って耕作放棄地になってしまう。宝塚市の郊外にある農地を市民農園として貸し出すことにした。しかし農地だけを貸し出しても、ふだんの管理をすると人がいないと荒れてしまうのでそこに太陽光発電機を設置した。その売電収益の一部を土地所有者に支払い、かわりに管理をしてもらい、同時に、借りる人は廉価で市民農園として使えるというウィンウィンの関係を作ったのだ。隣の市民の農園が1万8000円のところ、こちらは5000円。近くの甲子園大学やコープの協力も得て、今は満杯だ。

サツマイモが栽培されているソーラーシェアリングの市民農園

サツマイモの収穫


「ここに誰が何を作ろうといいじゃないですか。報告しろではなく、借りてくれればいいじゃないですか。農業としてやっているんですから。分けて考えろと今でも言ってます。
 ソーラシェアリングって上物や発電やFITのことばかり言っている。でも、うちは暑さ対策でも役に立ってる。うちの市民農園には屋根がある。隣の市民農園にはないから、みんな来て陰で休んでいる。人にやさしい、食物にやさしいが一番で、発電は二の次ですよ」

 酪農支援の取り組みも始まった。5号機を丹波乳業(兵庫県丹波市)の工場屋根に設置して低温殺菌牛乳のミルクを提供する酪農家を支援するというものだ。

「もともとこの乳業会社は共同購入団体の要請に応えて、一緒に低温殺菌牛乳を作った酪農協同組合から委譲された組織です。自分たちがつくった牛乳。それで34年目を迎えました。生産者、酪農家、そして県内の消費者団体で始まったが、酪農家は、どんどん減っていき、今は、20軒を切ったといっていました. その人達に生き延びてほしい」

 当初は発電機を増やすことが目的だったが、「それでよかったのか」という反省から5号機は他の地域から譲り受けた中古のソーラパネルを使っている。

◆コープ、大学連携で、さらに市民農園が広がる
 再生可能エネルギーと市民とのつながりは、近くの甲子園大学、コープともつながることでさらに発展している。
 コープ神戸は、「食べ物の地産地消を言ってきたが電気はどうなの? 生活必需品を売るのならそのなかに電気があっても当たり前」、ということで電源構成まですでに踏み込んでいた。市民が作って市民が使う電気が欲しいと言われて、3号と、4号のソーラーシェアリングの電気はコープ電気さんに売るようになった。全体からすればわずかな量ではあるが、コープにとっても「電気も地産地消」をうたえるメリットになった。
 

 市民農園ではコープに組合員活動として多岐にかかわってもらおうということになり、一緒にサツマイモ作りを始めることになっている。

「畑の上で電気をつくり、電気を使っているのも自分たち組合員だよと。その下の畑で作物を作り、上も下も使っているのは組合員。恒久的にいろんな人たちにかかわってもらって、少なくとも行き先のはっきりする電気を見せたかたった。まずはそこからです」

 そして新たにバイオガスの取り組みも始まった。これも酪農応援が目的だ。牛の糞尿対策をクリアしないと生産者は安心して続けられないというのが酪農の現状だからだ。

「そのためにバイオガスに行き着いたので、それをきっかけに酪農の基盤をしったかりしてもらいたいというのが目的です。ここにいろんな別の事業者の人に入ってもらい、仕組みを作ってもらっています」

◆農家にもメリットをもたらしたソーラーシェアリングの仕組み
 西谷地区のソーラーシェアリングは、去年(2018年)12月に新たにできて今では8機に増えた。目標は、農業支援をベースとした20機に増やすこと。20機で1メガの電気ができる。分散型の1メガを作ることが当面の目標だ。
 また、最近では、認知症のリハビリに農業体験を使いたいと医療者からも声がかかっている。

「私がやるのは、発電所を作ることではなくて、この人とこの人を結び付ければ、こんなことができるんじゃないか、それが土地の人たちにどういう響き方をするか、声を響かせることだと思っているんです。地域活性ってお金じゃないと思っている。よく地域創生とか地域活性化と安易に言うじゃないですか。そんなんじゃない。土地に住んでいる人は実はしんどいんですよ」

市民発電所の現地見学会。今では多くの人が視察に訪れる。

ソーラーシェアリングの畑の前の井上さん(右)

 
「しんどいところの人に、市内の近いけどちょっと遠い人が手を貸すことによってたぶん夢としては広がっていくのではないか」、と井上さんは想う。

「大きな施設を作れば人が来てくれるとか観光客が来てくれるとか、そんな話じゃない。
 人口減でどんどんすたれていく地域のなかで継続的に人が流れていくところを作りたい。生きていくためのものがインフラとしてちゃんと成り立つだけのものがほしい。別に細く長くが悪いことだとは思わないので、そうやってつなげていけたらいいなと思っています」

「大学も宝塚市と地域連携包括協定を結んでいるのでなにかやらないといけない。どこも生き残りですわ。でもただの生き残りじゃ面白くないから、こうやって連携させると動きがどんどんでてくる。何より学生たちが面白そうですよね。顔をみていると楽しそうですね」

 井上さんたちの活動は、補助金に頼らない。兵庫県に2015年に新たな融資制度を作ってもらいい、2018年に作った2基にはその融資2500万円をいれてもらった。

◆市民・大学・コープとさまざまなつながりが新たな価値を創造する  
 井上さんは、どうやって広がりが作れるのかとよく聞かれる。

「たぶんそこに住んでいるからよくわかる。机上の空論ではないので、とにかく何をみなさんが期待されているのかなと。たとえば大学にも入ってもらいました。でも、それだけじゃ私、絶対納得がいかないんです」

 大学が入って、コープも入ってきた。コープは6次化が得意で食品工場も持っている。大学は食とエネルギーと農業を結び付けてきた。そこで、次は学生を外に出すことを考えた。それがうまくいくと、今度は逆に一般人が大学に入ることを考え、それに成功してレシピ開発の手伝いもすることになった。レシピ開発は、コープと一緒にという声もかかっている。大学も新たな動きが嬉しいから、活動を動画にしてアップしてくれた。大学の宣伝にもなる、コープにとっても、「大学とも連携しています、地域とも連携しています」というのはメリットだ。

「商品開発を一緒にして、それが店頭に並ぶというところまでいけたらという考えはもともと大学側にもあったが、つなぐ人がいなかった。それをすみれ発電がつないだんです」

 ここまでやって井上さんは納得する。今は学生が商品開発をやろうとしているし、企業との連携も進めている。レシピ開発も、学生とコープの組合員と一緒に畑からやってもらうことになった。

「行政とのウインウインの関係なので、県としても嬉しい。お金は戻ってくるし事業は地域の人たちが作っていく。ものすごい美味しいです。その恩恵があるから無利子でいいよとなっている。そのかわり私たちはちゃんとやろうと、なります」

 ひとつひとつを足元から固め始まった市民主体の市民発電。未来の子供たちに向けて井上さんたちの活動は着実に広がろうとしている。

◆宝塚すみれ発電 
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(*この記事の「パート1」はこちらをご覧下さい:https://wan.or.jp/article/show/8240)