中学社会の授業で初めて見た『青鞜』は、私にとって教科書で知る史実であり、神話であった。表紙絵は、ビアズリーの描くサロメを彷彿とさせ、さらに昔話の印象を強くした。 当時の私のフェミニズムのお手本は、もっぱらおひとりさまの伯母の存在であった。歴史の教科書に載るものが、私の生きる指針になるとは思いもよらなかった。
これまでに、平塚らいてうや、伊藤野枝を描いた芝居は観たことがあった。パートナーとの関係などをはじめとして、その生き方には、エキセントリックなイメージを抱いていた。

ところが、二兎社の芝居で描かれた『青鞜』の言葉は、セックスワーク、リプロダクティブ・ヘルスなど、今につながるものばかりだった。 その言葉は、今の私と地続きの、怒りや苦しみの叫びだった。

「ああ、私は何も知らない。」
ため息が出た。

100年前の女性たちの声が、今を生きる私たちに響く。演出家の手にかかると、生の声として、感情を伴って心に染み渡る。表現の力というものを強く感じた経験だった。 昔話と思ってた青鞜の言葉は、想像よりずっと今の自分の感覚と同じだった。参政権は得ていても、日々の暮らしの中で受け続ける女性差別は100年前とこんなにも変わらない。

女性の声を集め、議論の場を作るという、青鞜の役割を、今、wanが担っていることを思った。
一つの意見だけではなく、その反論も掲載し、活発な議論の場を提供する。
100年経って、変わったこと、それはこんなにも無学で無名な私でも、声を発信できるツールがあることだ。小さな声が集まり、重なり、大きなムーブメントとなっていること。弱さでつながり、力となる。

#Me Too、#With You

二兎社の『私たちは何も知らない』はぜひとも多くの人に観てもらいたい芝居だ。そして感想を語りあってほしい。
今を生きる私たちが、青鞜を作った女性たちを知り、感じ、明日へ繋ぐ力としよう。

Arai.H

二兎社公演43『私たちは何も知らない』:雑誌『青鞜』の編集部を舞台にした青春群像劇