恒例の『みすず』読書アンケート2020をご紹介。
⑴石川九楊『河東碧梧桐 表現の永続革命』(文藝春秋社、2019年)
俳句は世界最短の詩型。その俳句の革新に挑んだ河東碧梧桐の評伝、に見えて、それを越えた近代俳句史を書き換える挑戦。新興俳句はなぜ失速したのか?口語自由律は、なぜ定型に勝てなかったのか?自由律俳人として知られる放哉と山頭火はどこがどう違うのか?あまたの謎が次々に解き明かされていく。そして書くことを忘れた表意文字の未来はどうなるのか?副題の「表現の永続革命」にふさわしい、根源的な論考だ。
⑵山田詠美『つみびと』(中央公論新社、2019年)
大阪二児置き去り餓死事件に題材をとったフィクション。今年の収穫、と言ってよい。山田詠美の代表作のひとつになるだろう。語り手を重層化して、三世代にわたる虐待の連鎖を描きだす。細部のリアリティに圧倒される。英語のタイトルはsinnersと複数形になっている。シングルマザーの風俗嬢、親族にも行政にも頼れなかったこの女性に対して、「罪なき者のみがこの女を打て」という作者の声が聞こえる。同じように母親による虐待を受けた少女が、自ら風俗の世界をえらびとっていくサバイバル・ストーリーが、丹念な取材にもとづいた鈴木大介の『里菜の物語』(文藝春秋社、2019年)だ。鈴木には『最貧困女子』(幻冬舎新書、2014年)の著書もある。だが、シングルマザーになった多くの里菜たちを待ち受けているのもまた風俗だ。「風俗は貧困女性の最後の社会保障」を唱える坂爪真吾が、『性風俗シングルマザー 地方都市における女性と子どもの貧困』(集英社新書、2019年)で描きだす世界だ。フィクションとルポとを読み継ぐと、子育てから逃げる男の無責任と、風俗という業態を成り立たせている男の性のおぞましさが浮かびあがる。
⑶イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト』(名古屋大学出版会、2018年)
「言語論的転回」以降の歴史学の中では、記憶とナラティブが主題化されているというのに、このタイトルの簡明すぎるマニフェストは、歴史学者からはかえってスルーされてしまうのだろうか。外の旋風に対して、日本の歴史学界が「無風状態」なのが気になる。同じ著者による『私にはいなかった祖父母の歴史』(名古屋大学出版会、2017年)は、ナチの強制収容所で亡くなった祖父母の足跡を辿るエゴ・ドキュメンタリー。ファクトにこだわり記憶の多元性を許さないように見えるユダヤ人被害者の子孫が、記憶を辿る旅を描く。
⑷大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書、2019年)
ソ連邦が崩壊して約30年。ようやく新資料が出てきて、「愛国戦争」の名の下に厖大な犠牲を強いた独ソ戦の実態が明らかになり、これまでの戦争観に変革を求められるようになったという。緻密な資料の検証にもとづき、ドイツ軍の無謀、ソ連軍の無策、犠牲を強いられた人々の無念が浮かびあがる。ドイツ軍の暴行や虐殺が、笠原十九司が描く『南京事件と三光作戦』(大月書店、1999年)の日本軍と酷似していることに驚く。
⑸前田健太郎『女性のいない民主主義』(岩波新書、2019年)
日本のジェンダー格差指数の最新データは2019年で153カ国中121位。「女性がいない」政治を、民主主義(民衆による政治)と呼んでよいのか、と素朴きわまりない問いを真正面に据えて、政治学の主流学説をひとつひとつ論破していく、若き政治学者による意欲作。あまりにあたりまえだとおもわれていたために、不審にさえ感じなかった建前が崩される、「コロンブスの卵」のような着眼点。某紙の選ぶ今年の「論壇賞」に推したいぐらいだ。
(『みすず』2020年1/2月号、みすず書房より)