
熊本日日新聞に「上野千鶴子が読む」という連載大型書評コラムを持っている。最近の掲載記事から、媒体の許可を得て転載する。(少し改訂しました)
Twitter@ueno_wanでこんなことをつぶやいた。
「ドイツとフランスでコロナ禍の影響によるDV被害増加への警告。対応がすばやい。それにしても閉塞状況や危機が起きると、女子どもに攻撃性が向かう「男らしさ」って、ほんとに謎だ。」
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船戸優里『結愛へ 目黒区虐待死事件母の獄中手記』小学館
子どもの虐待死事件が続く。結愛(ゆあ)だの心愛(みあ)だのという名前を聞くと、生まれたときにはどんなに愛されてこの世に誕生したのだろう、と思う子どもたちが、「助けて」「ゆるして」と助けを求めながら得られずに、無惨な死を遂げた。しかも同居している実父や継父によって。
2018年3月、東京都目黒区で、当時五歳だった少女、船戸結愛ちゃんが継父の暴力によって殺された。母の優里は、夫の暴力を止められなかった保護責任者遺棄致死罪で2019年9月に懲役8年の実刑判決を受けた(現在上告中)。夫の雄大は懲役13年の実刑判決が確定した。同じく2018年1月には、千葉県野田市在住の10歳の少女、栗原心愛ちゃんが、実父の勇一郎に虐待死させられた。こちらの公判は継続中である。
母親がついていながら、いったい何故こんなことが起きるのか、と多くの人は不審に思うだろう。その謎に答えることができるのは、当事者だけだ。本書にはその内情が赤裸々に描かれている。
船戸優里は、18歳のときに中学時代の憧れだった彼とつきあって妊娠し、結婚する。だが娘の結愛が生まれた後も、若い夫は金銭感覚もルーズで、父親としての責任感を持たないまま。夫婦は結愛が2歳のときに離婚する。シングルマザーになった優里は、キャバクラ嬢として働いて結愛を育てる。男達への性的サービスを代償に、つかのまの自由と幸せを味わった。ここまではよくある話だ。優里は職場で8歳年上のキャバクラのボーイと知り合う。雄大である。頼りになる男だった。妊娠がわかり、2016年4月に再婚、息子が生まれた。結愛とは養子縁組し、彼をパパと呼んだ。「その先に幸せが待っているはずだった」。
結婚直後から結愛への暴力と、度を越した説教と、しつけという名の虐待が始まった。
「オレが正しい、おまえが悪い、謝るまで許さない」という徹底的な自己中心性を、雄大はこれでもか、と発揮する。家のなかでは彼が最優先されなければならない。まるで猛獣が小禽を追い詰めるようないたぶりが、妻と娘に対してえんえんと続く。反抗すればもっと激しい追及と虐待が待っている。娘をかばうために、母は夫の代理人の役割さえ果たす。夫の不在の隙をついて、母子は呼吸(いき)をつき、母は娘に好きなものを与えるがそれも隠れてのことだ。
家父長制そのままの姿である。明治期のテキストに夫は「専制君主」のようにて、夫がいる間中家の空気は緊張のもとにあり、夫が家を出て行くと「笑いの声は家内に満つ」とある。今のDV家庭そのままの姿だ。
犯行当時、雄大は33歳、勇一郎は41歳。こんな若い夫たちのあいだにも、夜郎自大な「男らしさ」は再生産されている。彼らは妻と娘が自分の支配下にあり、逃げない・逃げられないとわかるといたぶりはじめ、それによってかろうじて「オレサマ」意識、つまり男としてのアイデンティティを維持しているのだろう。彼らが優里のような「告白」を書くことがあるだろうか?
それにしてもオトナの女がなぜ逃げられない、助けを求められないのだろう?結愛ちゃんの場合も心愛ちゃんの場合も、児相や学校が関与していた。なのにそのつど、不適切な対応で彼女たちが絶望し、孤立していくさまが描かれる。専門職は本書から対応を学ぶ必要があるだろう。
本書は弁護にあたった女性弁護士との信頼関係のもとで、優里が語った本音である。共に泣いてくれた弁護士に、彼女は初めて心を開いたのだ。他に優里の精神鑑定に当たった精神科医と、児童虐待を取材してきたノンフィクションライター、杉山春の解説がついている。
優里も雄大のDVの被害者だった。DVは被害者を孤立させ、蛇ににらまれた蛙のように萎縮させる。優里は結愛ちゃんの虐待死に手を下していない。優里は何もしなかった。何もしなかったことで優里が罰されるとすれば、彼らの周囲にして「何もしなかった」行政、専門職、親族、友人、地域社会・・・は罪を問われなくてよいのか?
----読後に深い疑問が残る。
(2020年3月8日熊本日日新聞朝刊)
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