お茶の水女子大学へのトランスジェンダー学生受け入れをきっかけにSNSを中心に論争が起こっている。WANでも「トランス女性に対する差別と排除とに反対するフェミニストおよびジェンダー/セクシュアリティ研究者の声明」をはじめ特集記事を掲載してきた。私も賛同人の一人である。しかしツイッターをやらないので、ツイッター上での経緯をよく知っているわけではなく、この件について積極的には発言してこなかった。しかし今回投稿された石上氏の主張について、とりあえず思うことを書いてみたい。この問題は、女性がかつての「男性専用スペース」で経験して来たことと類似しているからであり、その経験を思い出してみたいと思ったからである。また「排除ではない」と言いながら実際は極めて強い排除の意図が感じられることにも強い懸念を持つからである。

 女子大へのトランスジェンダーの入学それ自体には反対ではない、と投稿者は言っているようである。問題は「トイレ」「更衣室」「風呂」など身体のプライヴァシーが保全されるべきスペースであると述べている。しかしそもそも「女性専用スペース」問題は女子大だけにあるものではない。多くのトランスジェンダー当事者たちは性別二分法が厳密に適用される公共施設のプライベート領域で戸惑いながら生活してきたのである。ここでの「安心・安全」とは身体のプライヴァシーの保全であるとすれば、私たちの多様な身体はいずれも保全の対象である。

しかし投稿者の「女性の安心・安全」についての懸念は「性加害者がMtFに便乗する」可能性を想定する。そうした可能性からの「保全」とは結果としてMtFを「性加害者予備軍」とみなすことになりかねない。こうした言説から直ちに想起されるのは、アメリカ合衆国でアフリカ系アメリカ人が日常的に被る差別のことである。彼らの多くが「犯罪者」とみなされない様に身だしなみに気を遣い、生命の安全のために警察の目を引かない様気を配る日常を送っていることは、おそらくはMtFの多くの当事者の日常に共通するのではないだろうか。

そもそも公共施設は成人健常男性基準で作られており、女性は随分苦労してきた。公的施設でのプライベート領域のあり方には、施設において誰が正統なメンバーシップを認められているのか、また場所によってはどのようなメンバーが重視されているかまでもが現れている。温泉での男湯と女湯の時間制による入れ替えは今では当たり前になったが、行動する女たちの会の指摘以前には、広くて立派な男風呂に対して狭くて地味な女風呂が当たり前だった。平等にするには時間制での入れ替えをせざるを得ないほどの差が施設そのものに存在しているのである。私は幼少時に父親と一緒に銭湯や温泉の男湯に行くのが楽しみだった。「男性専用スペース」は広く立派で壁絵のレベルも高かったのだ。性別二分法が適用されない場合は男性が基準であり、適用される場合は、より条件の悪い方が女性専用スペースとして割り当てられてきたのである。つまり女性専用スペースとは、女性排除の結果として作られた付け足しの隔離スペースであり、歴史的には女性の安心安全のためだったとはいえない。

戦前は女性の入学を認めなかったが戦後に共学になったような学校は、1970年代に高校大学生活を送った世代にとってはまだ酷い環境だった。私自身、高校大学ともに、かつては男子校であった学校に通った。高校の40数名の学級に女子は7名しかいなかった。女子に制服はなかった。制服がないのは個人的には歓迎だったが、要するに正式メンバーとして認められていなかったのだ。入学式では同窓会長が祝辞で「男らしく」を連発するので、睨みつけていたら気がついて「あ、女は女らしくね」と追加した。半世紀前はこんな状態だった。 「ここはお前の来るところじゃない」という明示的暗示的メッセージにつきまとわれながら生きてきた女性は少なくないはずである。

 この排除のメッセージは施設そのものからも発せられる。大学の古い建物には女子トイレは大きな男子トイレの一角を仕切って設置されていた。比較的新しい建物にも女性トイレは本当に少なく、入学した直後は探し出すのに苦労した。この一応女性も入学できるようになった大学という場で女性は「付け足し」であって主人公ではないことを、トイレの状況は示していた。

 そこに来る者としてどんな人々が想定されているかは、トイレのあり様に端的に示される。男しか想定されていなかった時代から今日女性用トイレにはかなりの配慮が行き届く様になってきた。子連れや車いす用、そして多目的トイレなど公共施設は多様な人々に開かれる様になってきたが、言うまでもなくその様な変化が自然に生じたのではない。排除された人々の声が社会に認識されるに到るまでには多大な継続的努力が積み重ねられている。トランスジェンダー学生の受け入れにあたっては、女子大側はトイレに限らず多くの配慮を行い準備をしてきたと思う。女子大はそもそも男性中心社会から排除されてきた女性が学ぶ場所として作られた。男性社会からはみ出た人々が集い学ぶ拠点としての女子大は多様な性のあり様に開かれた場として新しい段階へ向かおうとしている。多様な構成員のニーズに応えていく女子大の選択は、個人の事情や希望への理解と柔軟な対応を前提としてこそ可能なのであり、そうした努力を前提とした選択にエールを送りたい。女性運動もまた様々な議論を重ねながら、多様な性との連携を進めていきたいと思う。

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