WANフェミニズム入門講座第1期
第2回「フェミニズム理論」受講レポート 山本悠
『はじめまして。山本悠と言います。性別は男です』
現在フェミニズム講座では、講座のグループチャットに参加している。その一番初めの書き込みで参加者が自己紹介をした。いくつかの書き込みが初めに『性別』を書いた。僕もフェミニズム講座の内容もあり、数名と聞いている『男』の参加者だという事もあり、はじめ性別を書こうと思った。
が、結局書かなかった。勿論必須の項目でも無かったわけなのだが、結局書かなかったのは性別を言いだすと数行の説明が必要になる気がしたからだ。身体の性、性自認、性的指向等々、今や性別は『男か、女か』という二つとも言えない。断っておくと、僕はセクシャルマイノリティ(と呼ばれる事のある概念)に属してはいない(と思う。今のところ)。ただ、僕にも僕で、性別に関しては個人的な幾つかの考えがあり、そういう考えを示したうえで、『で、僕は男なんです』と説明しないと『性別は男です』なんて簡単に言えない感じがしたのだ。別にすごく迷ったわけではなく、ほんの数分の迷いではあったと思うのだけど。
第二回フェミニズム講座は、『新編 日本のフェミニズム』の第二巻に収録されている『フェミニズム理論』に基づいて江原由美子先生から講義があった。また、その後上野千鶴子先生を交えてのトークセッションがあった。
講義では、フェミニズム理論の観点として、既存のあらゆる分野の中で隠匿されてきた『女』の排除<男性中心主義>を、女性たちがそれぞれの分野で暴いていった過程が示された。その排除はほとんど感動的な程多岐に渡り、多くの(残念な)発見に満ちている。男性中心主義の根の張り方は少し話を聞くだけで多様で今の社会にも結び付く部分が多く、面白かった(あとで講座は動画が公開されると聞いてるので、是非見て下さい)。
フェミニズムは、『女の』『女による』『女の為の』活動だった。それは社会の中から排除されていた『女を』『女たちが』『女の為に』取り戻す活動だったのではないかと思う。そこでは、『女』であることと『男』である事は、大きな(そして男性中心主義と抑圧という一つの方向を指し示した)意味を持っていた。
一方で、僕は後半のセッションの中で、江原先生からの『今は、私たち、とか、女、とか言っても、誰が女なの、というのが難しくなった』との言葉が印象に残った。そこには複雑な響きがある。かつて『女』は、大きな共通言語として扱われた。しかし今、『性』も『状況』も複雑化している。選択肢が増え、一面的には『多様性が担保されている』ようにも見え、男も女も共通のアイデンティティを持つことは難しくなっているのかもしれない。
かつても女たちは決して一枚岩だったわけではなく、『共通性を立てる、という所は、やろうとしては水をさされ、結局それは共有されなかった』と江原先生は言う。
『私には関係ない』『私は状況が違う』と、個別の問題は複雑だ。特に、『性別』という二分を持ってのみ集まるというのは、今はさらに難しいのかもしれない。
これからのフェミニズムはどうなっていくのだろうか。
一つ、江原先生は『これからは、アイデンティティで集まっていくのではなく、一つ一つのイシューで集まっていく時代になるのではないか』と言った。その言葉に僕は納得する。女だとか男だとかいう事より、一つ一つの『問題と意見』に集まるのだ。
しかし、『男』と『女』という属性に結びついた問題は、そうするとやがて溶けてなくなるのだろうか?あるいは、すでに『性別』から逃れられた人がいるのだろうか?
僕は自己紹介に『性別』を書かなくていいとは思わなかった。書こうかと迷ったのだ。
また一方で、上野先生は『横断的な共通性は提示されていくだろう』との趣旨の言葉を口にしていた。
江原先生の講座で使われたフェミニズム理論の観点という資料の中に、以下の文章があった。
『「地図と実際の空間」との関係 実際の空間に対し地図は複数作成可能。地図の有効性は、正確さだけでなく、実践的有効性からも判定しうる』
地図とは、現実をただ写し取るだけではなく、近所のおすすめランチマップや観光名所紹介マップの様に、同じ地域で作ったとしても『用途』『観点』によって作り分ける事ができるという事だ。
江原先生の講座で紹介されたフェミニズム理論の観点は多岐に渡る。その目線は、既存のあらゆる分野の中の『女性』の排除に向けられる。哲学、社会学、生物学、文学、学術分野一つとっても、そこには徹底された男性中心主義があり、そしてその隠蔽の歴史がある。
それはつまり、女性学、リブ、フェミニズムが明かしてきたものは、横断的な社会の問題でもあり、社会の様々な階層で個別に結びついた問題でもあったということだと思う。そしてそれは、被害者である『女たち』の問題でもあった。そこにはそもそもが複数の(一見何のかかわりもない)分野にまたがる『横断的』な『観点』がある。
ところで、僕は現在とある職場で働いている。行政の福祉職で、学校に派遣されて仕事をしている。目的を持ってまるで関係のない話をさせてもらうので、まるで関係ない話が始まったぞ、と思っても、どうかそのまま見て欲しい。
仕事上、ミスをして怒られる事がある。それなりにある。
おおよその場合、それは書類上のミスであり、手続き上のミスである。
これは率直に言って周囲よりミスの多い僕の問題である。しかし一方で、行政上の手続きが変われば起こりようのないミスであったりもする。
手書きで個人情報を扱い、特定のファイルから別のファイルに手打ちでデータを写す時。議事録をそれぞれがノートにとっていて、その記述が違う時。特定の服務処理に、幾つもの手続きが必要になる時。情報共有システムが『その場その場で臨機応変に』でしかない時。そういう時にミスは起きる。
僕は非常勤職員であり、給料も決して高くない。非常勤職員という立場上、現状をあまり否定するような(大きく変えるような)『改善策』を出しにくい。言い訳にしかとられないのだ。また、僕は行政職員ではあるものの、あくまで福祉職として雇われている。だが、職務の範疇は曖昧で、非常勤でも責任が非常に重い職務が突然現れる。
これは僕の問題かもしれないが、僕だけの問題ではない。行政全体、福祉職の現場全体に、こうした動きが目立てば、これは僕や僕の職場だけの問題ではなくなる。
それから僕の同僚には、女性が多い(管理職には男が多い)。30代でも40代でも、25歳の僕と同じ賃金で働いている。硬直性、低賃金労働、ジェンダー格差の問題は、全く関係のないものだろうか、それともそうではないのだろうか。
共通性は希望にもなる。1人で社会は変わらず、そして社会が変わらなければ生活は変わらないからだ。
僕は自己紹介の時、『性別は男です』と言わなかった。複雑な説明が必要な気がしたからだ。そして同時に、『男です』と言った方がいいような気もした。それが小さな事ではないと思ったからだ。
たぶん、僕はそういう迷いのある世代に生きている。
『男とか女とか、関係ないじゃん?』とか、『多様化してるからさ、一概には言えないよね』というのは、正しいと言える事もある。多様な状態を繊細にとらえる事はとても大切な事だろう。でもまた同時に、そこに横たわる横断的な問題をとらえられないというのは悲劇でもある。社会は属性を押し付ける。誰もが性別当事者としてとの属性の『一部』を持ち、そしてあらゆるものを個人的な『観点』を持つ当事者なのではないか。
ふと思えば、僕の様な若者世代は気を抜くと自分を『個人』だと思い、そして目に映る多様性の名のもとに小さな所属を得ることで、昔よりもずっと『自分を支配する大きな属性』の存在を拒絶できてしまっているのではないか。少なくとも、気持ちの上では。
複雑化した世界の状態把握、そしてそれらを横断的する領域としての『フェミニズム』の模索は、どちらもずっと続けていかなければならないのだろう。そして、『多様性』のある世代の『フェミニズム』のバトンは、たぶんもう持たなければならない。
僕の『男の自分』はどこにいるのだろう?どこの誰と手を繋いでいるのだろう?
講座を通して、少しずつそのヒントを手に入れられればと思っている。
(レポート内の先生方の言葉は、僕が大体のニュアンスで引用しています。間違っていたらごめんなさい!)
WANフェミニズム入門講座第1期
第2回「フェミニズム理論」受講レポート 甲斐一再(かいめぐる)
2011年12月4日に行われたNPO法人参画プラネット主催の「拡がるブックトーク」ののなかで、江原先生は「理論観」について、「理論というのはモノを見る見方」だと仰っていた。「私たち、“そのもの”なんてみていない。私たちは“なんなのか”としてモノを見ている」のだと。つまり、フェミニズム理論は「女性の視点を通じての現象(モノ)の見方」であり、それを意識化して作り上げることだと捉えることができた。
しかし現実の世界は男性の視点を通じた理論だけが理論として存在している。私たちはそれが、人類、社会の理論だとして疑う事無く教わってきたのである。モノの見方に「女性の視点を通す」という方法があることなどは教わらなかった。なぜなら理論を作ったのも教えるのも男たちであったからだ。そうして、私は女性としての自分の経験と視点を通してモノをみたときに、理論と現実が一致せず「モヤモヤ」を感じていたのだろう。
江原先生と上野先生との対話の冒頭で「マルクスおじさんとフロイトおじさん」という言葉が出てきて、私は思わずにやりとしてしまった。私が過去に大学で感じた違和感に、15年以上たって初めて名前を付けてもらったからだった。
この体験は、昔多くの女性が、おっぱいをさわれてムカついたのに、そんなものはコミュニケーションだよと言われモヤモヤしていたところに、「それは“セクハラ”だよ」と、自分の体験に言葉を与えて貰ったときのものと似ているかもしれないと思った。
「ありものの言葉ではしっくりこない。どうしても言い表せない」、そんなモヤモヤを抱えて生きていて、それがなんなのか、どうしてなのかも分からなかった。私が通っていた大学の経済学部には、当時女性の教授はおらず、「先生」と呼ばれる人達は皆男性だったので、女性の視点など無くて当たり前であったし、教えてくれなくて当たり前だった。
けれど今こうして私は、女性の先生お二人に、新しいモノの見方を教えて貰い、新しい色眼鏡を授けて貰えた。そして私は過去の経験を、その色眼鏡をかけて振り返る。
あのとき、経営会議でブラックスーツのおじさんに囲まれて、「ねぇ、女性の意見も聞かせてよ」という言葉をかけられた時のモヤモヤ。大学院の入試で、「子どもが居るのによく来たね」と言われて感じたモヤモヤ。「個々の男性の偏見や悪意」ではない、社会に自然とはびこってしまっている「男性中心主義」によって、女性の存在が異質と決めつけられていることに、モヤモヤを感じていたのだ。
こうしてたくさんの先輩方が戦って示してくれたモノの見方を受け継いで、しつこく、しぶとくこのモヤモヤに立ち向かい、この色眼鏡をあとに託す役目を少しでも担えればと思う。
2021.12.18 Sat
カテゴリー:新編「日本のフェミニズム」
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