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『廃墟で歌う天使−−ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を読み直す』 遠藤薫

2013.07.14 Sun

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.最近、古典的文献を「古くさい」と切って捨てる人が多いような気がします。

でも、それはあまりに軽はずみな見方ではないでしょうか。

過去を軽んずることは、現在に目を閉じることと同じです。

なぜなら、〈現在〉とは、いまこの瞬間に突如として現れたものではないからです。〈現在〉の背後にはここに至るまでのプロセスがあり、その前には、これから続く未来へのプロセスがあるのです。

現在とは、遠ざかっていく過去とまだ見ぬ未来のはかないはざまに過ぎません。まさに、ベンヤミンの愛したクレーの「新しい天使」と同じく、私たちは過去の堆積をわずかな手がかりとして未来へ吹き送られていくのでしょう。いってみれば、われわれが未来をのぞく媒体は「過去」しかないのです。

 また他方、古典を参照することを、「権威主義」と感じる人もいるようです。

たしかに、「虎の威」を借りて議論をする人はいます。こうした戦略は一種の詐術です。まやかしの議論に欺されてはなりません。

しかし同時に、古典は、光り輝くインスピレーションの集積でもあります。

ベンヤミンは、ショック作用を引き起こす異化のための方法論として、「引用」と「蒐集」を挙げています。つまり、まさに彼は、「引用」や「蒐集」を、他者の威光へのただ乗りとしてではなく、むしろ、もとの文脈を解体し、新たな可能性を発見する行為として見いだしていたのです。

 本書では、ベンヤミンの古典的名著から現代の寵児である〈初音ミク〉を読み解くという試みをしています。その取り合わせに異様な感じを持たれる方も多いかもしれません。

けれど、異化によるショック作用に強く惹かれたベンヤミンなら、自分自身が「古典」となった現代、自分の言葉がバラバラに引きちぎられ、〈初音ミク〉とremixされることも、笑って受け入れてくれるかもしれない、と勝手に思っています。

 しかも、改めて彼の論考を読むと、「引用」と「蒐集」に没頭し、「遊戯」をたたえるベンヤミンは、どこか、現代のオタクの風貌を漂わせていると思いませんか?ベンヤミンの文章が同時代人の言葉として聞こえてきませんか?

それも理由のないことではありません。

鋭い社会観察眼は、時代に囚われない、普遍的な社会のダイナミズムを見抜きます。

ベンヤミンが生きていたのは「複製技術時代」でしたが、彼のまなざしは「メタ複製技術時代」の現代までも見通しています。だから彼の議論が、複製技術時代よりもむしろメタ複製技術時代を的確に捉えていることもあります。

ベンヤミンは、古典である以上に、現在形(アクチュアル)な同時代人でもあるのです。

 本書から、私たちの同時代人としてのベンヤミンとの対話を、どうぞお楽しみください。 (著者 遠藤 薫)








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タグ: / ベンヤミン / 複製技術時代 / 遠藤薫