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  • 竹村 和子――友情およびアメリカ研究と日本研究のクィア化について 2018/05/19

    2018/05/19

    • カルチャー

    著者名:Keith Vincent

    1968年生まれ。90年代から日本におけるゲイ・スダディーズとフェミニズ ムの関係や翻訳の問題について考えてきた。著書にTwo-Timing Modernity: Homosocial Narrative in Modern Japanese Fiction. (Harvard Asia Center, 2012), 「日本文学をクィア・セオリで読む: 漱石を例に」『立命館言語文化研究』28巻2号2016年、"Queer Reading and Japanese Literature,” Routledge Handbook of Modern Japanese Literature, 2016年), and “Better than Sex? Masaoka Shiki’s Poems on Food,” in Devouring Japan, Oxford University Press, 2018. 現在、ボスト ン大学で世界言語・文学の学科長を務めながら女性、ジェンダー・セクシュ アリティ・スタディーズ (“WGS”)を講じる。

    コメンテーター:小林 富久子(こばやし ふくこ)

    竹村 和子――友情およびアメリカ研究と日本研究のクィア化について 2018/05/19

     竹村和子(1954-2011)は,1990年代初めから2011年に57歳で亡くなるまで,日本と米国のフェミニストとクィア理論が切り結ぶ地点の重要人物でした.彼女は,ハリウッド映画はもとより,ヘンリー・ジェイムス,ヴァージニア・ウルフ,ルイーザ・メイ・オルコット,アーネスト・ヘミングウェイ,ウィリアム・フォークナーを含む19世紀および20世紀の米英作家の研究者として著名でした.また,ジュディス・バトラー,ガヤトリ・スピヴァク,トリン・T・ミンハ,スラヴォイ・ジジュクの翻訳を数多く手がけた翻訳家である彼女は,日本のジェンダー・セクシュアリティ研究に携わる者を精力的に導くファシリテーターであり,メンターでもありました.
     竹村は,また,私の古い友人でもありました.私がアメリカ人日本研究者として彼女の国の文学を研究するのに時間を割いている一方で,彼女が日本人アメリカ研究者として私の国の文学を研究することに時間を割いていることについて,私たちはよく冗談を言い合ったものです.私たち二人を引き寄せていたのは,フェミニズムとクイア理論への共通の関心と関わりであったので,私たちの専門としている対象分野の違いは,全く問題ではありませんでした.とはいえ,彼女が他界した今となっては,存命中に竹村の仕事をもっと読まなかったことを悔やんでいる自分を感じます.また,なぜそうしなかったのか,問いただしている自分がいます.私はジェンダーやセクシュアリティに関連した米文学関係の著作を読むことにしているのだから,それを読まない正当な理由などなかったのです.私はたぶん,自分がわざわざ日本語で何か読むのであれば,それは日本についてであるのが当然だと思っていたのだと思います.
     このことを認めるのは恥ずかしいのですが,まさにこうした打算こそが,竹村の仕事を学ぶ妨げになっていました.日本文学について英語で書いている者として,私はもっとよく分かっているべきでした.つまり,もしこうした考え方が逆向きに向けられたら,自分自身の仕事を無効にするだけなのだと.自分で「直接原典に」あたれる状況にあって,私のような白人米国人男性が日本文学のジェンダーやセクシュアリティについて語ることをなぜ読まねばならないのか.この種の態度は,日本では全く珍しいものではなく,その点では米国でも同様であり,これこそ私がつねづね狭量で本質主義的だとしきりに非難していることなのです.にもかかわらず,竹村の仕事に関しては,私は自分が説いていたことを明らかに実践していませんでした.
     私は,この論文を本号に収容するにあたり,竹村の仕事を振り返り,彼女の仕事をさらに読む機会だけでなく,日本人アメリカ研究者と米国人日本研究者にはどのような共通点があり,フェミニズムとクイア理論がそうした共通項を表現するのにどう役立ちうるのか,広範に考える機会を与えられたことに感謝している.竹村の目を通して,米国におけるフェミニズムとクィア理論の歴史の様々な側面とあらためて邂逅し,そして多くの場合それらを初めて知ることとなったことも喜びでした.たとえば,彼女の2012年に出された『文学力の挑戦』のおかげで,私はルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』がクィアなテクストとして読めることを今では知っています.また,ケイト・ミレットの1970年の古典作品でフェミニスト文学批評の著書『性の政治学』が,ジャン・ジュネのジェンダー体制に対する姿勢を好意的に書いている章で終わっていることや,D・H・ロレンスのホモフォビアとミソジニーについてのミレットの分析が,15年後の『男同士の間』のイヴ・コゾフスキー・セジウィックの仕事を先取りしていることも学びました.アメリカの反‐知性主義に関する秀逸な章では,19世紀の「ノウ・ナッシング党」に立ち戻りながらリチャード・ホフスタッターの古典作品を援用し,ジョンズ・ホプキンス大学拠点の学術誌『哲学と歴史』が1998年にジュディス・バトラーに与えた「悪文大賞」授与の状況を説明しています.その章で彼女が指摘しているように,バトラーよりずっと難解な文章を書くポスト構造主義理論家たちはいくらでもいたし,マスメディアの耳目を引けなかっただけで他にも選考された受賞者は何人もいました.これら二つのことは,バトラーの文章の伝説的な難解さというよりも,むしろ古き良きアメリカの反‐知性主義に根深く命脈を保ち,ジェンダーや性の規範を堅牢に防御している『常識』という概念にそれが突きつけた挑戦こそが問題であったことを示唆しています.
    竹村自身にとって,バトラーの文章は難解なものではなく,彼女自身がそれまでずっと日本のミソジニストと異性愛規範主義の暴力と不正義に抵抗する方法として事分けしようとしてきた思想を「スリリング」で明確に表現したものでした.彼女が訳書の後書きに書いているように,『ジェンダー・トラブル』は「直接に,ためらいなく,食い込んで,わたしたちの隠れた現実」を語ってくれるものでした.彼女は日本の読者に,バトラーの言葉の難解さに萎えることなく,「ゆっくり,じっくり」彼女の著作を読み,味わうよう励ましました.
     「日本のフェミニズム」についての特集号なのになぜ米文学とジュディス・バトラーについてばかりなのでしょうか.私は,竹村がジュディス・バトラーを翻訳し,米文学を研究していたことは,彼女が「日本のフェミニスト」であることを少しも減じることではないと,当たり前の返答をすることができるでしょう.しかし,私は,そうしてこの問が持つもっと大きな意味を払い除けてしまうのではなく,そうした意味を真剣に受け止めたいと思います.というのも,私は竹村がそうしていたことを知っているからです.米国文学を研究する日本のフェミニストであるということは何を意味するのか.あるいは,もっと広く言えば,自分のところ以外の文化に焦点を当ててクィアやフェミニストの研究をするということは何を意味しているのだろうか.この問いはもちろん,竹村の研究にそうだったのとまったく同じように,私自身の研究にも関係しているのです(もちろん,日米間の勢力の不均衡を考えれば,完全な対称ではないのだけれども).また,この号の多くの読者の研究にも関係していることです.ここで答え始めるにあたり,私は個人的なことからテキストに関することへと進めていきます.最初に,私が竹村に初めて会った状況のことを説明し,次に,その問題を真正面から論じている彼女の論文の一つを読解していきます.

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    1990年代初め,私はクローゼットから出たばかりで,東京に住んでおり,表向きは博士論文のための調査をしていることになっていたが,ほとんどの時間を「アカー(OCCUR):動くゲイとレズビアンの会」という団体と活動することに割いていました.アカーは日本の性的少数者の権利と認知をめぐる闘争の数々の戦線に関与していました.私にとって彼らとともに活動できたことは,名誉であり喜びでした.彼らは,ゲイやレズビアンのための匿名電話相談や,クィア・フレンドリーな英会話レッスンを提供していました.また,日本で初めてゲイの権利に関する訴訟で原告となり,同性愛者をユースホステルから締め出したかどで東京都を訴えました.地域レベルでも厚生省などの国レベルでも,HIVの予防や治療の問題に取り組んでいましたし,国際ゲイ・レズビアン協会のアジア代表でもありました.
     しかし,アカーの仕事はそうしたアクティヴィズムに留まるものではありませんでした.これは1990年代,つまり,クィア理論が米国から到来した初期の激動の時期のことで,アカーの私の友人も私も,戦略を練ったり,日本の異性愛規範的な社会構造をよりよく理解し,理論化したりするために,もっと多くの理論ツールを切望していました.その目的のために,私たちは数年間「アイデンティティ研究会」,そのうち親しみを込めて「ID研」という略称で呼ばれるようになる月例セミナーを開き,モニック・ウィティッグ,リュス・イリガライ,ゲイル・ルービン,ジュディス・バトラー,イヴ・セジウィック,レオ・ベルサーニ,D・A・ミラー,リー・エドルマンなどを含む,フェミニズムや台頭しつつあったクィア理論の研究書を読み,議論していました.こうした研究の多くは当時まだ翻訳されておらず,英語でもそうしたテクストを読めるアカーのメンバーの助けを借りながらそれらの論点を日本語で伝えることが,たびたび私の仕事になりました.私自身,クィア理論を初めて知り,実際,当時それは全く新しいものでしたから,そうした著書に出会い,そしてただちにそれらを日本語に翻訳するか,別の言葉に言い換えるか,あるいは共有する道を見つけようとすることは,二重にわくわくすることでした.そうすることで私はそれらの著書をよりよく理解し,いっそう大切に思うようになりました.というのも,それらは私たちが関わっていた闘争にとってとても重要に思えたからです.
     私が竹村に初めて出会ったのはこのような状況でした.それは1996年頃だったと思います.最初に会った正確な機会を思い出せないものの,筑波大学の近くの彼女のアパートに出かけたことははっきりと覚えています.彼女はそこで米文学を教えていました.私は河口和也や新美広を含むアカーの何人かのメンバーと,全員ゲイ男性ですが,一緒に行き,床の上でピザを食べ,煙草を吸いまくり,日本で,そして日本語で,どのようにクィア理論に重要な意味を持たせていくかについて何時間も語り合い,一日を過ごしました.これは私たちにとって深刻な問題でした.というのも,ちょうどそのころクィア理論が日本の学術出版においてちょっとした流行になりかけていたものの,それはクィア・アクティヴィスト・コミュニティからほぼ完全に孤立して起こっていたからです.竹村は,クィア理論とそのフェミニスト・ルーツに精通していただけでなく,アカーの友人や私と同じように,それを生命線のようなもの,つまり抵抗の一様式であり文化的運動の一形態だと考えていた日本の数少ない学者の一人でした.だから,私たちがクィア理論の翻訳を日本語で出版し始めたとき,彼女がときどき私たちの研究会に来るようになり,そのうち手伝ってくれるようになったことを私たちは喜んでいました.彼女はすでに熟達した翻訳者で,1995年にトリン・T・ミンハの『女・ネイティヴ・他者――ポストコロニアリズムとフェミニズム』の翻訳を出版したばかりでした.1999年には,ジュディス・バトラーによる『ジェンダー・トラブル』の非の打ちどころのない翻訳を出版し,その後も2002年にバトラーの『アンティゴネ―の主張』,2004年に『触発する言葉』,2008年にはバトラーとスピヴァクの『国歌を歌うのは誰か?』を含めた多数の重要な翻訳を立て続けに上梓することになります.
     しかし,竹村は優れた翻訳者であるだけではありませんでした.というよりもむしろ,竹村は優れた翻訳者でしたし,なおかつ,彼女にとって,米国のフェミニストやクィア理論の翻訳は,もっと大きなプロジェクト,つまり,日本におけるミソジニーと異性愛規範への抵抗というプロジェクトのかなりの割合を占めるものでした.翻訳者としての彼女の仕事は,サラ・フレデリックが本号で論じている山川菊栄によるエドワード・カーペンターの作品の翻訳とおそらくほとんど大差なく,フェミニストとしての仕事の自然な成り行きであり,彼女の研究から切っても切り離せないものでした.私が彼女に初めて会った頃,彼女は学術誌『英語青年』に「レズビアン研究の可能性」についての6回にわたる先駆的な論文を,そうしたことを書くと「品位を落とす」ことになるという他の学者からの親身なアドバイスをよそに,まさに出版しようとしているところでした.そして,2011年12月13日に悲劇的な死を遂げる直前まで,そしてその後にも,彼女はますます素晴らしい研究を世に出し続けていくことになります.
     竹村の2012年の著書,『文学力の挑戦――ファミリー・欲望・テロリズム』は,語るべきことがたくさんある類まれな研究書ですが,ここでは「ある学問のルネサンス?――英(語圏)文学をいま日本で研究すること」というタイトルの最終章に焦点を当てたいと思います.この章では,竹村は「日本で暮らしながら英語で書かれた文学を研究する意味とは何か.そしてフェミニストとしてこれを研究する意味は何か.」という問題に正面から取り組んでいます.先に触れたように,これは,米国で執筆する日本文学のフェミニスト研究者やクィア研究者たちも同様にもっと考えるべきことであり,私がここで竹村のアプローチを論じることが,さらなる問いへの弾みとして役立てばと願っています. 
     
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    米国における日本研究が,その「原罪」として冷戦を起原にしているとすれば,日本における英文学はそれ自体に波乱万丈の過去を持っているといえます.それは20世紀初期に,ちょうど日本が帝国になっていく過程で,英国および大英帝国の文化との嘆かわしいほど無批判な同一化の一部として現れました.さらに,冷戦期には,同じように問題含みの起源を持つアメリカ研究が日本で台頭しました.竹村は,20世紀初頭の英文学研究でも,冷戦期の米文学研究でも,その日本の研究機関の構造は,英国や米国におけるこうした学問領域の制度化を後追いしていたわけではなく,少なくとも同時か,あるいは先んじてさえいたという興味深い事実を指摘しています.たとえば,オックスフォード大学がそれを教え始めたのはやっと1894年のことでしたが,東京大学は(周知の通り,最初にラフカディオ・ハーン,次に夏目漱石,そして後に野口ヨネが指導し),1890年代に英文学のプログラムを設置しました.英文学は1911年までケンブリッジでは開講されていません.同様に,日本のアメリカ学会は,合衆国にできることになるその手のものよりも5年早く,1946年に設立されました.こうしたことを指摘しているからとはいえ,竹村は日本の驚くべき早熟さを述べようとしているわけではありません.彼女がこの歴史事象に読み込んでいるのは,こうした支配的な西洋の力に対する日本側の強烈な模倣欲求であり,つまりは,彼らにもっと近づき,英国と米国と「友達」になり,その友情――実際,男同士のホモソーシャルな友情の類ですが――を喜んで受け入れることで,擬似植民者とか帝国主体といった自身の主体の立ち位置について考えないでいたいという欲求についてなのです.
     マサオ・ミヨシは日本における英文学の歴史について,ある論文の中で以下のように述べています.

         当時一般的だったのは,等価という現在も続いている教えで,同一化を重視することで差異の意味を最小にしてしまうものです.イングランドで直面する英文学の問題が,日本の英文学研究の問題にそのまま移植されてしまうのです.そうした外国の視点の馴化が継続的に起こる中で,日本の文脈へのほとんど完璧なる無関心さがあります.

    ミヨシはこの論文で批判の手を差し控えているわけではありません.彼は日本における英文学の「知的皆無さ」について,つまり,英文学を「ただ単にやみくもに崇拝して讃える」傾向について語っており,またあるところでは,「学術誌『英語青年』,字義通りに言えばEnglish-language Youthsであり,<新しい世代の若者たち>(The Rising Generation)と訳されるそれが,どのように1898年に創刊され,そのおぞましいタイトルにもかかわらず,今日に至るまで日本の英語の権威ある論文集として中心的に機能しているか」を,論じています.ミヨシの場合散見されることですが,ここでの彼の批評は的を射ているものの,自分が精通している人間だと示したい気持ちのせいで少し損なわれてしまっています.
     まさにこの学術誌『英語青年』に,その「おぞましいタイトル」および日英の帝国主義との共犯関係にもかかわらず,竹村は私が先に言及したレズビアン研究の6巻からなる論文を掲載しました.戦後直ぐに日本を去り,そのプロフェッショナル・アイデンティティがその旅立ちに密接に結び付けられていたミヨシとは異なり,竹村は日本にとどまり,そこでの英米研究の中で仕事をしました.彼女は,自身の学問領域が持つ理論的な土台やそれの帝国主義との共犯関係について,ミヨシの批評と多くの点で間違いなく一致していました.実際,彼女はそのミヨシの批評や,同様の議論をしている日本語の他の近著書から惜し気なく引用しています.しかし,同時に,彼女はこの分野で研究をする選択をした日本人フェミニストとして,自身の特異な立場を明確にし,理論化しようとすることにも関心をもっていました.
     この彼女自身の立ち位置に関する疑問は,彼女が2000年代初め頃に意識的に考え始めたと書かれています.彼女はこのように真剣に考えるきっかけとなった人生における三つの出来事に触れています.一つ目の出来事は,アメリカ文学会東京支部の2003年の会で,彼女が司会をしたパネルの最中に起こりました.そのテーマは,「ポストファミリーの攪乱/暴力――2003年暮れアメリカ文学フェミニスト読解」でした.その発表論文は素晴らしく,パネルは大成功でした.しかし,質疑応答のときに,その聴衆のなかの「ある社会学者」(上野千鶴子さんがそれがご自分であると私に教えてくれました)が,次のような質問をしました.「このようなアメリカ文学の議論を日本で,日本語で,日本の観客に向かって発する意義はどこにあるのか.」
    竹村さんはその時の最初の反応は,このポスト構造主義時代にあって,そのような質問はせいぜいナイーブで,悪く取れば不必要に挑発的だと思ったと書いています.想像するに,もし病気に参加を阻まれなければ竹村さんが登壇者になることになっていた2009年のラトガース大学のアメリカ日本文学会(AJLS)のパネルで,私がイヴ・セジウィックと漱石に関する発表をした際に,「イヴ・セジウィックは日本文学とどんな関係がありえますか.彼女はイギリス文学について書いているのですよね」と質問されたときに私が感じたようなことを,彼女も強く感じただろうと思います.
    それで,竹村は,私がAJLSで例の質問に残念ながら答えてしまったのと同じ気持ちで,もちろんもっとエレガントにですが,この社会学者の質問に答えました.著書の中で,意図的だと思いますが,彼女は,諧謔的なポストモダン理論のパロディかのように,自身の応答を複製しています.ジャック・デリダやホミ・バーバや読者論などを引き合いに出し,重厚な理論武装でかためながら,彼女は次のように書いています.

         読みはつねに,多様に,そして遠くへ,それゆえさらに豊穣に,さらに生産的なかたちで再生産され,翻ってその読みが置換され,変容したかたちでテクストに舞い戻り,新しいテクストの生産へと導いていく.したがって,アメリカ文学を日本で,日本語で,日本の観客だけに論じることが非生産的だということは毛頭ない.

    彼女はそのときはこの返答でよいと思っていたものの,徐々に不満を感じるようになっていったと書いています.日本人の英語圏文学の学者としての自身の立場について,より批判的な問題を自分に問いかけ始めました.彼女が主張しているように,米英文学が米国人や英国人にのみによって議論されるべきだと考えるようになったというのではなく,むしろ,彼女が当初ナイーブだと思った(あるいはただ迷惑だと思った)問いを真剣に考え始めたということです.つまり,日本で英語圏文学を読むとは,どんな意味があるのか.それをフェミニストとして読むことにはどんな意味があるのか.
     日本人の英語圏文学の学者という彼女のアイデンティティをそれまでとは異なって考え始めさせた二番目の要因は,2000年代初頭に,アジアの国際会議に何回も出席し,そこで英語圏文学に携わっている日本以外のアジアの研究者と出会い始めたことでした.はじめて,彼女は,英語を母国語とせず,英文学や米文学の研究を専門とする制度を独自に持つ国々から来た学者たちと,米英文学について議論している自分に気づきました.彼女は,こうした邂逅が集積した影響を,彼女自身の自己認識への「ボディブロー」のようなものとなったと説明しています.この「ボディブロー」の結果として,「英文学がそれぞれの国で制度化されたシステムとして機能しているという自覚と,そういった制度から逸脱して,あるいは横断して,何が蠢いているのか,蠢きうるのだろうか,そのときわたしは英文学研究者としてどんなプロフェッショナル・アイデンティティを持っていくのだろうかと考えるようになった」と述べています.
     竹村がここで使用し,私が<wriggling up>と翻訳した動詞は「うごめく」です.これはそれほど魅力的な言葉ではないし,かなり恐ろしい見栄えの漢字(蠢)です.蠕虫や蛆虫が四方八方に這い回っている巣を想起させる言葉です.汎アジア的な団結という見方(竹村にそうしたセンチメンタリズムは全くないと思いますが)では全くなく,むしろ,過激なまでに多様な読みの実践のメタファーなのです.もしこうしたアジアの国々における制度としての英文学が,ある種のポストコロニアルな文化的帝国主義装置の一部であり,(ミヨシが言おうとしていたように)サバルタンをその主要都市とより緊密で,より親密に接触させるために組織化されたものだと言えるならば,文学を実際に読み,しかも細密に読み込む数多の行為は,確かに,同時に別種のエネルギー,つまり,(イギリスやアメリカにもっと近づこうといった)単一の目的を持つ組織的な集合体ではなく,むしろ差異の群れのようなものを生み出していくでしょう.
     彼女は以下のように述べています.
     
         三番目理由は,さらに個別的なこと,わたし自身のことです.1990年代の前半あたりからセクシュアリティについて書くようになりました.というか,セクシュアリティについて書けるようになったのですが,書き進めるにしたがって,自分が英文学の研究者であることと,セクシュアリティについて書いていることが,どのように繋がるのだろうと考えるようになり,ひいては,自分が英文学の研究者であることは,どんなことなのか,そもそものプロフェッショナル・アイデンティティは,なべて何によって裏書されているのかと考えるようになってきたことです.

    自分の英語圏文学者としてのプロフェッショナル・アイデンティティを再評価させるきっかけになったと語っているこれら三つの要因を書き連ねてから,竹村は,日本における英文学史のなかで,このことを最も慎重に考えた人物で,英国への盲目的崇拝や「均等論」の外にとどまり,それとは異なる関係を見つけようともがいたある人物を思い起こしています.竹村にとって,またミヨシにとっても,この人物とは夏目漱石というおそらく日本で最もキャノンな小説家で,図らずも東京帝国大学の最初の日本人の英文学教授になった人物でした.
     
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     漱石は前世紀の最初の二年間を英国で学びましたが,その何もかもを嫌悪していたようです.ミヨシが述べているように,「漱石は話せる人もおらず,絶望的に孤独だった.文学研究にどんな意味があるかとか,自分にとってもっと重要なことは何かとか,日本人にとって英文学を研究するとはどんな意味がありうるのか,といったことをじっくり熟考するような状況ではなかった.彼はひどい神経衰弱になるまで,ほとんど完全に孤独のうちに,書籍を読んだり,書いたり,収集したりしていた.」漱石は,竹村のように自身の立ち位置について執拗に問い続けましたが,「漱石が遭遇したその重要な問題は,[彼の後を継ぐ人たちに]積極的には議論されず,むしろ恣意的に避けられるまま,英文学の制度化は続いていったのです.」
    ミヨシが日本における英文学(あるいは米文学)という「制度」で目指すところは,二つの国民国家,すなわち二つの帝国を「友達」の関係にすることです.漱石は日本の英国との「友情」の始まりをつぶさに見ていました.というのも,まさに大日本帝国がアジアへと進出する重要な布石となる日英同盟が1902年に締結されたとき,彼はロンドンに住んでいたからです.その友情は文学研究にも同様に波及していったのでした.良い子で勤勉に勉強し,一言一句OEDを引くことで,日本の英文学研究者はそのテクストにより近づき,できる限り自分たちと英国との距離を縮めようとしました.
    しかし,そうしたアプローチは,竹村にとって,また,漱石にとっても同様に,個々のの主体が文学テクストとの邂逅の中で起こることとは何も関係がありません.ここで私は彼女の著書のタイトル,とても翻訳しづらいものですが,『文学力の挑戦』を思い出したいと思います.その本は,グループへの帰属を当然のことと考えずに問題視した著作です.国家アイデンティティに付随し,クィアなコスモポリタニズムの代わりに議論されるような,擬似家族的で異性愛規範的なジェンダー関係を否認しています.竹村は,漱石の有名な講演「私の個人主義」のなかで,まさにこの集団思考に異を唱えるところを引用します.

         もっと解りやすく云えば,党派心がなくって理非がある主義なのです.個人主義者とは,朋党を結び団体を作って,権力や金力のために盲動しないという事なのです.それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです.すでに党派でない以上,我は我の行くべき道を勝手に行くだけで,そうしてこれと同時に,他人の行くべき道を妨げないのだから,ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません.そこが淋しいのです.

    竹村は,大変うまい一手で,「党派心」というものへの漱石の批判と,彼の言う「個人主義者」が持つ避けがたい「淋しさ」という彼の認識とを,ガヤトリ・スピヴァクの最近の比較文学に関する著書『ある学問の死』に沿って読んでいます.スピヴァクは同書で,ヒューマニズムに向かう「旧来の」比較文学も,アイデンティティの政治に向かう「新しい」カルチュラル/エスニック研究もどちらも批判しています.スピヴァクはどちらの比較文学にも「集合体を検討しないポリティクス」があると,竹村が漱石の不気味な残響と説明するもののことを批判しています.
     漱石とスピヴァクはここでは仲間とは言えないようなものかもしれません.何よりも,漱石は正確にはフェミニストではありませんでした.彼は小説の中で極めて忠実に描き,あたかもその描写があまりに念入りに手の込んでいて批判を内包しているかのようでありながら,その男同士のホモ・ソーシャルな世界の外側に立っていたわけでもありませんでした.彼は「私の個人主義」の同講演の中で,英国における女性参政権運動の理念には,冷淡な態度を示しています.とはいえ,スピヴァクのように,彼は「検討されずにある集合体」については仮借なき批評家です.
     それだけではありません.日本の英文学の制度化に対する漱石の関与の仕方も変わったものです.ここでの私の意図としては,彼は文学をより大きな共同体に接近したり,あるいは,呼び寄せたりする手段としてではなく,そうした概念を批評する兵器として考えていたということです.竹村が論じているように,このことが,なぜ漱石が日本の英文学機構の只中で,創設者の一人としての立場にありながら,「検討されずにある集合体」に対して批判的姿勢を維持できたのかの理由にあたるのです.同様に,漱石はおそらく日本の最も優れたナショナリズムについての批評家であり,かつ,その最も尊敬されている国民作家であり続けています.現代日本文学のキャノンの中でも最も愛されている小説の一つである『三四郎』の有名な場面,タイトル名になっている登場人物が,熊本から東京まで行く途中の列車の中で,謎めいた独身男,広田先生と初めて会う時を考えてみましょう.「東京は熊本より広い.東京より日本は広い.日本より・・・頭の中の方が広いでしょう.囚われちゃ駄目だ.いくら日本の為を思ったって贔屓の引き倒しになるだけだ」と広田はナイーヴな三四郎に説明します.
     竹村は漱石のクィアな点を彼女自身が共有していたがために明確に認識していました.彼女の『ある学問のルネサンス?』というエッセイのタイトルはハイブリッドなものだと説明しています.それは,スピヴァクがフェミニストとポストコロニアルな政治とが響きあうような新しい比較文学の形を議論している彼女の著書,『ある学問の死』への部分的な応答となっています.そうした比較文学とは,国家間の友情,つまり,ホモソーシャルな絆に入り,結果として国家の集合体を強固にするための手段として,英国や米国の文学を研究する日本人によって始められるものではなく,その逆なのです.そうではなくて,その比較文学とは,もっとラディカルな民主主義を約束するものです.とはいえ,スピヴァクはデリダを引用して,「民主主義――判で押したように友愛のポリティクスのひとつと主張されているもの,あるいはおそらくこれこそが友愛のポリティクスにほかならないと主張されているもの――は,ロゴス中心的=兄弟中心的な集合体の概念を前提とせずに機能しうるものなのか.姉妹については,ごくまれに,それも名誉兄弟としてのみ参加が許されるものなのか」と問うています.竹村のタイトルにある『ルネサンス』とは,F・O・マシーセンの1941年の著書『アメリカン・ルネサンス』を参照しています.マシーセンの著書は,米国における米文学研究の分野を創設し,メルヴィル,ソロー,エマソン,ホーソーン,ホイットマンの作品をそのキャノンとして打ち立てました.
     ヘンリー・アベラブが説得力ある論文のなかで説明しているように,ある種のクィアさがこの作品選択から見て取れるばかりか,実際にアメリカ研究を創設したこの著書のいたるところから読み取れます.アベラブの『ディープ・ゴシック』という,竹村が読んだかどうか定かではないものの,きっととても気に入ったと思う本から引用します.

         マシーセンの明確なテーマは,19世紀アメリカにおける民主主義の文化様式である.ただ提示されているだけで,不明確なことは,その本が問いかけることなく形成している問い,すなわち,旧来の共和国の特権的な主体で,平等なはずで,兄弟のはずであったそうした白人男性同士を結びつけていた,あの民主主義のエロティックな意味,エロティックな原動力,絆とか愛情とかいうものは,いったい何だったのかという問いである.もし私たちがあのエロティックな原動力が何かを知っていたなら,私たちは現在の民主主義を改善し,深化させ,拡張し,前進させ,再構成さえしてくれることに関係した何かを知ることになるだろうか.ホイットマンはずっと以前に,旧来の民主主義を「ともにしがみつき,進出を果たす少年たち」のこととして描写していた.あのしがみつくとは何のことだったのか.その旧来の民主主義とは,マシーセンが分かっていたような白人男性のホモセクシュアリティと区別可能なものだったのだろうか.そしてもし可能だったならば,どのようにしてか.

    したがって,「クィア研究」は,アベラブが続けて述べているように常に「無意識」の一部としてアメリカ研究の開始と同時にそこにあったのです.姉妹が「ごくまれに」民主主義という「ロゴス中心的=兄弟中心的な」集合体への参加が許されるにすぎないならば,クィアな男は,そのまさに中心部分に刻み込まれていながら,排除されてしまっています.マシーセンはハーバート大学の著名な教授でしたが,その左翼的政治思想とホモセクシュアリティのために嫌がらせを受けていました.彼は1950年にホテルの窓から飛び降り,自殺しました.アメリカ研究が内包するクィアな無意識と同様に,マシーセンのこの話は,その研究体制が整うにつれて無視され,抑圧されてしまいました.それでも,アベラブが書いているように,アメリカ研究の未来は,「大部分においてその無意識が戻るのを許されるかどうかにかかっています」.日本の英文学研究の「創始者」として,漱石は米国におけるマシーセンと同様の立場にあります.マシーセンの作品と同様,彼の作品は,各々の国の民主主義の捉え方の中に,男同士のエロティシズムがその中核にあることについて疑問を投げかけています.漱石が「文壇における平等主義の代表者」としてウォルト・ホイットマンについての卒論を書いたことは思い出すに値するでしょう.
     まとめると,竹村のタイトルは三つの問いを投げかけています.一つ目は,スピヴァクの『ある学問の死』のもので,ほとんどいつも兄弟の絆として想定されてきた民主主義の中に,女たちの場所をどう見つけるのかという問いです.二つ目は,マシーセンや漱石が明確に問いてはいないものの,問い詰めていないとは言えない問い,つまり,民主主義がもつ男同士のホモエロティックな関係についてです.三つ目の問いは,もっと字義どおりの問いで,「日本における英文学研究という学問領域にルネサンスはありえるだろうか」というものです.彼女がこれをスピヴァクにメールで説明したら,「日本の英文学にルネサンスはありえない.それは私が述べていた比較文学の類ではない」とすぐに反論の返事が来たと述べています.和子さんは次のような返事を書きました.

         いや,そういう意味で――つまり比較文学だけの土壌で――わたしは話そうとしているのではない.わたしがマシーセンを出したのは,そもそも初めから,わたしが望む英文学という装置は生まれていないので,それを「再生」することはできない.だけれども,再生ということを使って,別のことを言いたい.それは「友情」に関係することだ.

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    それでは,日本でフェミニストとして,クィア理論家として,英語圏文学について執筆することの意味は何なのでしょうか.米国やどこか他の場所から日本について書くことは何を意味しているのでしょうか.竹村はこの問いを真剣に考えさせることとなった三つのことに言及していました.一つ目は,東京での例の会で「日本国内で米国のテクストを研究する意味は何か」と尋ねられたこと.二つ目は,アジアのカンファレンスで「米国や英国ではない場所で他の研究者と米国や英国のテクストを研究する意味は何か」と自問するようになったこと.こうした問いはどちらも,自身の主体の立ち位置も,その人の想定上の研究対象も,どちらも不安定にすると言ってよいでしょう.その対象が「魅力的」な場合,それは本質的にそういうものなのでしょうか.あるいは,それをそうする外圧があるのでしょうか.あるいは両方なのでしょうか.
     この最後の問いへの答えは明らかに「両方」です.そして,これこそ,なぜ竹村が述べた三番目の要素がとても重要なのかの理由なのです.つまり彼女が1990年代初頭から焦点を当てるようになっていったセクシュアリティについてです.私が先にこのことに触れた際,その重要性をはっきりさせていなかったかもしれません.しかし,最後にあたり,ここで明確に述べておきます.竹村にとって,セクシュアリティこそ,日本の英文学制度の惰性から彼女を救ったものでした.セクシュアリティアを研究するということは,お互いからも,私たちが心的エネルギーを備給するさまざまな対象からも,私たちを近づけたり遠のけたりする力や接着剤を研究するということ,つまり,「愛」とか「欲動」とかそう呼ばれるあらゆるものの持つ力を研究することなのです.「私たちが研究していることを愛するとは何を意味しているのか.あるいはそれを嫌うとは何を意味しているのか.このうちのどれくらいが個人的な嗜好で,どれくらいが自分たちのコントロールからはずれた構造上の圧力なのか.私たちが枠の中で研究している学問の制度の歴史は,これをどのように可能にし,また,制限するのか.」こうした問いを真剣に考えることなのです.
     私が論じてきた竹村の著書の完全なタイトルは「文学力の挑戦――ファミリー・欲望・テロリズム」です.最初に表紙のこれらの言葉を見たとき,私は並列的に,その書籍が論じているキーワードの単なる羅列として読みました.しかし,本の中身を読み進めるにつれて,そのタイトルは多くの章に出てくる用語を羅列しただけではないことに気づきました.むしろ,それらは,恋愛関係にあるカップルから,家族や,日本における英文学研究のコミュニティや,国家や,最も極端な場合には,テロ組織にいたるあらゆる種類の集団を結びつけるリビドー的で社会的な「接着材」の様々な形式や強度で表した一種のスペクトラムを表象する言葉なのです.その「接着剤」を真剣に受け取めようとすることは,家族,友情,エロティックな欲望という結びつきを区別する線がいかに常に流動的であるかを認識することを意味しています.これこそセクシュアリティについて真剣に描くために必要なことなのです.そして,このことが,竹村が研究していた「米文学」を形成した世界の歴史の力学のなかにいながら,竹村さんが自身の立ち位置についてのあのような問いに直面し,それらを通して考えることができた彼女の能力の鍵に,セクシュアリティがなっていた理由なのです.これが彼女の研究をフェミニスト的であると同時にクィアたらしめているものなのです.そして,このことが,たとえ「日本について」ではなくても,それは日本研究のフェミニストやクィア研究者にとって読む価値がある理由なのです.
     しかし,竹村さんの仕事に関して最もスリリングであり,また,彼女と私が友達であった理由でもあるのは,こうした「立ち位置」という問題で止まらないところにあります.その核心部分には,文学を文学たらしめているものがあるのです.竹村和子は,文学テクストの緻密で愛にあふれた読みの中に,国家や制度やアイデンティティ以外の何か,予期せぬようなクィアな何かが,行間から「這い出てきて蠢く」ものの余地を見出していたのです.


    謝辞:本稿の原案は,「Women’s Action Network」のウェブサイトにオンラインで発表された.左記媒体への発表にあたり上野千鶴子教授に感謝申し上げる.また,日本語への翻訳には内堀奈保子に感謝の意を表す.原案の日本語訳は右記にて閲覧可能(http://wan.or.jp/article/show/1278).

    訳者注:本稿は以下の再録の翻訳となる.本号への掲載にあたり,執筆者,編著者,出版元のハワイ大学出版から許諾を受けている.
    Keith Vincent, 2017, “Takemura Kazuko: On Friendship and the Queering of American and Japanese Studies,” Bullock, Julia C., Kano, Ayako, & Welker, James, eds., Rethinking Japanese Feminisms, University of Hawai’i Press, pp251-266.
    ハワイ大学出版のウェブサイトは右記の通り(http://www.uhpress.hawaii.edu)

    訳者:プロフィール内堀奈保子
    日本大学助教。専門/19世紀アメリカ文学、比較文化論。2009年お茶の水女子大学大学院博
    士後期課程単位取得満期退学。論文に「螺旋状の信仰――リディア・マライア・チャイルドの仏教と
    の邂逅」『越境する女たち』(開文社 2014年)等。翻訳に「海外から見た<戦闘少女>」『彼女は
    何を視ているのか――映像表象と欲望の深層』(明治書院 2012年)(Rebecca Suter,"The
    Battling Girl Seen From Overseas," Girls Manga Wonderland, Meiji Hoin, 2012.)等。

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