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  • 竹村 和子――友情およびアメリカ研究と日本研究のクィア化について 2018/05/19

    2018/05/19

    • カルチャー

    著者名:Keith Vincent

    1968年生まれ。90年代から日本におけるゲイ・スダディーズとフェミニズ ムの関係や翻訳の問題について考えてきた。著書にTwo-Timing Modernity: Homosocial Narrative in Modern Japanese Fiction. (Harvard Asia Center, 2012), 「日本文学をクィア・セオリで読む: 漱石を例に」『立命館言語文化研究』28巻2号2016年、"Queer Reading and Japanese Literature,” Routledge Handbook of Modern Japanese Literature, 2016年), and “Better than Sex? Masaoka Shiki’s Poems on Food,” in Devouring Japan, Oxford University Press, 2018. 現在、ボスト ン大学で世界言語・文学の学科長を務めながら女性、ジェンダー・セクシュ アリティ・スタディーズ (“WGS”)を講じる。

    竹村 和子――友情およびアメリカ研究と日本研究のクィア化について 2018/05/19

    論文概要:

    この論文を本号に収容するにあたり,竹村の仕事を振り返り,彼女の仕事をさらに読む機会だけでなく,日本人アメリカ研究者と米国人日本研究者にはどのような共通点があり,フェミニズムとクイア理論がそうした共通項を表現するのにどう役立ちうるのか,広範に考える機会を与えられたことに感謝している.竹村の目を通して,米国におけるフェミニズムとクィア理論の歴史の様々な側面とあらためて邂逅し,そして多くの場合それらを初めて知ることとなったことも喜びでした.たとえば,彼女の2012年に出された『文学力の挑戦』のおかげで,私はルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』がクィアなテクストとして読めることを今では知っています.また,ケイト・ミレットの1970年の古典作品でフェミニスト文学批評の著書『性の政治学』が,ジャン・ジュネのジェンダー体制に対する姿勢を好意的に書いている章で終わっていることや,D・H・ロレンスのホモフォビアとミソジニーについてのミレットの分析が,15年後の『男同士の間』のイヴ・コゾフスキー・セジウィックの仕事を先取りしていることも学びました.アメリカの反‐知性主義に関する秀逸な章では,19世紀の「ノウ・ナッシング党」に立ち戻りながらリチャード・ホフスタッターの古典作品を援用し,ジョンズ・ホプキンス大学拠点の学術誌『哲学と歴史』が1998年にジュディス・バトラーに与えた「悪文大賞」授与の状況を説明しています.その章で彼女が指摘しているように,バトラーよりずっと難解な文章を書くポスト構造主義理論家たちはいくらでもいたし,マスメディアの耳目を引けなかっただけで他にも選考された受賞者は何人もいました.これら二つのことは,バトラーの文章の伝説的な難解さというよりも,むしろ古き良きアメリカの反‐知性主義に根深く命脈を保ち,ジェンダーや性の規範を堅牢に防御している『常識』という概念にそれが突きつけた挑戦こそが問題であったことを示唆しています.

    コメンテーター:小林 富久子(こばやし ふくこ)

    米文学研究者として出発後、ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァクなど、海外の先鋭的理論家の邦訳を手がける傍ら、自らもセクシュアリテイに関わるラディカルな問いを発し続けることで、日本のフェミニズム界を牽引していた竹村和子さん。そんな彼女が突然の病に没してから早くも七年が経つ。本稿は、早くから彼女と親交を結んでいた日本文学研究者でクィア理論家のキース・ヴィンセント氏がフェミニストとしての竹村さんの思考の軌跡を独自の立場から辿ろうとした極めて刺激的な論考である。
    現在ボストン大学で教鞭をとるヴィンセント氏は竹村さんとは常々、自身は米国にいて日本文学を研究する一方で、彼女は米文学を日本で研究していることについて冗談を交わし合っていたという。その後、彼はこの話題が実は竹村さんにとって頭から離れないほど重いテーマとなっていたことを悟る。それを彼に知らしめたのが、遺作としての彼女の英米文学論集『文学力の挑戦』の最終章にあたる「ある学問のルネサンス?英(語圏)文学をいま日本で研究すること」なのであった。
    本論の後半部でヴィンセント氏は、この章の綿密な読みを展開することで、果たして「英米文学を研究する日本人」であることが竹村さんにとって「何を意味」していたかを、まるで優れた推理作家のごとく鮮やかな手さばきで解明してゆく。仮に日本のかつての多くの英米文学者が自らの研究対象を熱心に研究することで、英・米というより卓越した帝国としての国家との一体感を果たさんとしていたとすれば、ちょうどその逆を行こうとしていたのが竹村さんで、それを助けたのが、国家をはじめとするホモソーシャルな集合体を批判する学としてのセクシュアリティ研究への竹村さんの傾斜であったというのだ。
    本論文は、文学もまたそれぞれの国のナショナルな欲望の装置として作用しうるという重要な事実に目を開かせてくれるとともに、孤独に一つ一つの作品に向き合い、そこから漏れ来る諸々の得体のしれないものに遭遇しうることにこそ文学の喜びがあるということも伝えてくれる。何よりもまず本論は、二人の優れたフェミニスト学者が国境を超えて交わしえたかけがえのない友情を跡づける物語でもあることを強調しておきたい。

関連する論文

  • 石内都の「横須賀ストーリー」 境界の傷跡

    2019/07/13

    • カルチャー

    著者名:但馬みほ

    コメンテーター:池川 玲子(いけがわ れいこ)

    論文概要:

    本稿は写真家石内都の初期作品を分析する。日本の内部にありながらアメリカとの<国境>を有する特殊なトポスである神奈川県横須賀市を舞台とした石内都のデビュー写真集『絶唱、横須賀ストーリー』と『YOKOSUKA AGAIN 1980-1990』、『CLUB & COURTS YOKOSUKA YOKOHAMA』を分析対象の中心に据えて、軍事基地の存在が横須賀に強いる過剰な身体性と、その反動としての石内作品における身体性操作のありかたを解き明かす。客体をつねに必要とする写真という視覚芸術において、石内が対象の<身体>をどのように表現しているかを検証する本稿では、石内の初期作品に顕著な性的身体の欠如から、その後一気に身体を前景化した作品へと転向する契機に、横須賀における<アメリカ>の存在があることを論証する。 写真行為を通じて「横須賀」と「母」から受けた「傷」と向き合い、選択の余地なく付与された自分のなかの「女性性」と深く切り結ぼうとする石内の側面に光を当てることで、本稿は「横須賀」と「母」を結ぶ一本の線上にアメリカが存在することを指摘し、両者から受けた「傷」を写真行為で定着させることによって、石内がいかに傷を克服し、自ら<女性>として生まれ変わっていくかというプロセスを、日本の敗戦と関連づけて考察する。 Borderland Full of Scars: Ishiuchi Miyako’s Yokosuka Story This paper analyzes the early works of Ishiuchi Miyako (1947-), an internationally renowned Japanese photographer, in which she focuses on her hometown, Yokosuka that is one of the most strategically important locations for the United States Naval Forces operating in the Pacific. Yokosuka is unique in such a way that it contains a national border within itself because of the presence/occupation of the U.S. armed forces since Japan’s defeat in WWII. In this paper, I examine the ways in which Ishiuchi manipulates the representation of the body to overcome the “wounds” inflicted on her by Yokosuka (as well as from her mother), and demonstrate the process as to how she has come to terms with her own femininity under the overwhelming impact imposed by the U.S. military forces. By closely examining her works, I argue that the significant shift in her photography style, from the obvious lack of sexual body in her early works to almost-obsessive exposition of bodies and scars in her later works, represents her acceptance of and transcendence from “femininity” by way of photography.

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