エッセイ

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友情をクィアする キース・ヴィンセント ②

2013.08.30 Fri

「友情をクィアする――グローバル・コンテクストにおける竹村和子のフェミニズムとクィア理論」は、キース・ヴィンセント(ボストン大学)さんの

2013年4月20日、エモリー大学『セックス・ジェンダー・社会――日本のフェミニズム再考』での講話を翻訳したものです。以下、長文ですので、3回に分けてお届けします。また、英文原文については、こちらからどうぞ。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.しかし、竹村さんは優れた翻訳者であるだけではありませんでした。実際には、こう言い直させてください。竹村さんは優れた翻訳者でしたし、なおかつ、彼女にとって、アメリカのフェミニズムとクィア理論の翻訳とは、もっと大きなプロジェクト、つまり、日本におけるミソジニーと異性愛規範への抵抗というプロジェクトのかなりの割合を占めるものでした。翻訳者としての彼女の仕事は、サラ・フレデリックさんがこのパネルで語ることになっている山川菊栄によるエドワード・カーペンターの作品の翻訳とおそらくほとんど大差なく、フェミニストとしての仕事の自然な成り行きであり、彼女の学識と切っても切り離せないものでした。竹村さんは日本におけるセクシュアリティ研究を創設した一番重要な人物とまでは言わないまでも、そのうちの一人だったと言ってよいと思います。1995年にお会いしたとき、彼女は学術誌『英語青年』に「レズビアン研究の可能性」についての6回にわたる革新的な論文を、そうしたことを書くと「品位を落とす」ことになるとの他の学者からの親身なアドバイスにもかかわらず、まさに出そうとしているところでした。[i]そして、2011年12月13日に悲劇的な死を遂げる直前まで、そしてその後にも、彼女はますます素晴らしい研究を世に出し続けていくことになります。亡くなった時、彼女の手元にはさらに三冊の本があったそうです。

本日私に残されている時間の中で、その仕事の本の一部分をお話できればと思います。竹村さんの2012年の著書、『文学力の挑戦――ファミリー・欲望・テロリズム』は、語るべきことがたくさんある類まれな研究書ですが、ここでは「ある学問のルネサンス?――英(語圏)文学をいま日本で研究すること」というタイトルの最終章に焦点を当てたいと思います。この章では、竹村さんは「日本で暮らしながら英語で書かれた文学を研究する意味とは何か。そしてフェミニストとしてこれを研究する意味は何か。」という問題に正面から取り組んでいます。先に触れましたように、これは、私たちアメリカで執筆する日本文学フェミニスト研究者たちも同じように考えるべき立場にあることであり、竹村さんのアプローチは実に模範的だと思うのです。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.アメリカにおける日本学が、「原罪」であるかのように、エリア・スタディーズの起源である冷戦構造に由来しているのと同様、日本における英文学はそれ自体が波乱万丈の過去を持っています。[ii]それは日本が帝国になっていく過程で、嘆かわしいほど無批判に英国および大英帝国の文化と同一化した結果の一部として、20世紀初期に現れました。冷戦期にはさらに、同様の問題含みの起源を持つアメリカ研究の出現を日本に見ることになりました。論文の中で竹村さんは、その研究制度が、20世紀初頭のイギリス文学研究のものでも、冷戦期のアメリカ文学研究のものでも、英国や合衆国におけるこうした学問の制度化を後追いしていたわけではなく、少なくとも同時か、あるいは先んじてさえいたという興味深い事実を指摘しています。したがって、東京大学は(周知の通り、初めはラフカディオ・ハーン、次に夏目漱石、そして後に野口ヨネが指導し)、1890年代に英文学のプログラムを持ち始めましたが、一方で、オックスフォード大学がそれを教え始めたのはやっと1894年のことで、1911年になるまでケンブリッジでは教えていませんでした。同様に、日本のアメリカ学会は、合衆国にできることになるそうしたものより5年も早く、1946年に設立されました。こうしたことを指摘しているからといって、竹村さんは日本の驚くべき早熟さを述べようとしているわけではありません。全く違います。彼女がこの歴史事象に読み込んでいることは、こうした支配的な西洋の力に対する日本側の強烈な模倣欲求であり、つまりは、彼らにもっと近づき、イギリスとアメリカと「友達」になり、その友情――実際、男同士のホモソーシャルな友情のたぐいですが――を受け入れることで、擬似被植民者とか帝国主体とかいう自身の主体の立ち位置について、どうにか考えずに済ませたいという欲求についてなのです。

マサオ・ミヨシは日本における英文学の歴史について、ある論文の中で以下のように述べています。

当時一般的だったのは、等価という現在も続いている教えで、同一化を重視することで差異の意味を最小にしてしまうものです。イングランドで直面する英文学の問題が、日本の英文学研究の問題にそのまま移植されてしまうのです。そうした外国の視点の馴化が継続的に起こる中で、日本の文脈へのほとんど完璧なる無関心さがあります。[iii]

ミヨシはこの論文で批判の手を差し控えているわけではありません。彼は日本における英文学の「知的皆無さ」、英文学を「ただ単にやみくもに崇拝して讃える」傾向について語っており、あるところでは、どのように「『英語青年』という学術誌――字義通りに、「新しい世代の若者たち」(The Rising Generation)と訳されている――が1898年に創刊され、そのおぞましいタイトルにもかかわらず、今日に至るまで日本の英語の権威ある論文集として中心的に機能しているのか」[iv]を、論じています。ミヨシの場合、よくあることですが、ここでの彼の批評は的を射ているにもかかわらず、物事がよく分かっている人間に自分を見せたいという彼自身の欲求のせいで少し損なわれてしまっています。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.まさにこの学術誌、『英語青年』に、その「おぞましいタイトル」および日英の帝国主義との結託にもかかわらず、竹村さんは私が先に言及したレズビアン研究の6巻からなる論文を掲載しました。戦後直ぐに日本を去り、そのプロフェッショナル・アイデンティティがその出立に非常に意味付けられていたミヨシとは異なり、竹村さんは日本にとどまり、そこの英米研究の中で仕事をしました。だから、ミヨシの批評と確実に多くの点で一致しているにもかかわらず(また実際、そのミヨシの批評や、同様の議論をしている日本語の他の近著書からよく引用しているのですが)、彼女はこの手の、自分の学問領域の価値体系の根幹やそれと帝国主義との共犯関係について「真相をばらす」ことより、むしろその分野で仕事をしている日本人フェミニストとしての自身の特異な立場を明確に説明し、理論化しようとすることに関心をもっていました。[v]

彼女が書いているように、これは2000年初めころに真剣に考えるようになった問題です。彼女は、このように真剣に考えるきっかけとなった、人生における三つの出来事に触れています。一つ目の出来事は、アメリカ文学会東京支部の2003年の会で、彼女が司会をしたパネルの最中に起こりました。そのテーマは、「ポストファミリーの攪乱/暴力――2003年暮れアメリカ文学フェミニスト読解」でした。発表は素晴らしく、そのパネルは大成功でした。しかし、質疑応答のときに、その聴衆のなかの「ある社会学者」(上野千鶴子さんがそれは自分であると教えてくれました)が、次のような質問をしました。

「このようなアメリカ文学の議論を日本で、日本語で、日本の観客に向かってだけ発する意義はどこにあるのか。」[vi]

竹村さんはその時の最初の反応は、ポスト構造主義時代にあって、そのような質問はせいぜいナイーブで、悪く取れば不必要に挑発的だと思ったと書いています。想像するに、私が数年前、もし病気に参加を阻まれなければ竹村さんが登壇者になることになっていたラトガース大学のアメリカ日本文学会(AJLS)のパネルで、私がイヴ・セジウィックと漱石に関する発表をした際に、「イヴ・セジウィックは日本文学とどんな関係がありえますか。彼女はイギリス文学について書いているのですよね」とだけ質問されたときに私が思ったようなことを、彼女も思っただろうと思います。

それで、竹村さんは、私がAJLSで例の質問に残念ながら答えてしまったのと同じ気持ちで、この社会学者の質問に答えました。もちろんもっとエレガントにですが。著書の中で、意図的だと思いますが、彼女は、起源のない諧謔的なポストモダン理論のパロディかのように、自身の応答を再生産しています。デリダやホミ・バーバや読者論などを引き合いに出し、重厚な理論武装でかためて、次のように切り出します。

読みはつねに、多様に、そして遠くへ、それゆえさらに豊穣に、さらに生産的なかたちで再生産され、翻ってその読みが置換され、変容したかたちでテクストに舞い戻り、新しいテクストの生産へと導いていく。したがって、アメリカ文学を日本で、日本語で、日本の観客だけに論じることが非生産的だということは毛頭ない。[vii]

そのときはこの応答に満足を感じていながらも、竹村さんは徐々にそれに不満を感じるようになっていったと書いています。日本人の英語圏文学の学者としての自身の立場について、より批判的な問題を自分に問いかけ始めました。彼女が主張しているように、このことは英米文学がアメリカ人やイギリス人にのみ議論されるべきだと考えるようになったというのではなく、むしろ、彼女が当初ナイーブだと思った(あるいはただ迷惑だと思った)質問を真剣に考え始めたということです。日本で英語圏文学を読むとは、どんな意味があるのでしょうか。そして、それをフェミニストとして読むことにはどんな意味があるのでしょうか。

日本における英米文学者という彼女のアイデンティティをそれまでとは違う考え方にさせた二番目の要因は、2000年代初頭に、アジアの国際会議に何回も出席し、そこで英語圏文学に携わっている日本以外のアジアの研究者と出会い始めたことでした。はじめて、英米文学について、母国語を英語とせず、「イギリス」や「アメリカ」文学の研究を扱う制度を独自に持つ国々から来た学者たちと議論している自分に気づきました。彼女は、こうした邂逅の集合的な影響を、「ボディブロー」のようなものだったと説明しています。この「ボディブロー」の結果として、「英文学がそれぞれの国で制度として機能しているという自覚と、そういった制度から逸脱して、あるいは横断して、何が蠢いているのか、蠢きうるのだろうか、そのときわたしは英文学研究者としてどんなプロフェッショナル・アイデンティティを持っていくのだろうかと考えるようになった」と述べています。[viii]竹村さんがここで使用し、私が<wriggling up>と翻訳した動詞は、「うごめく」というもので、それほど魅力的な言葉ではないし、(蠢くという)かなり恐ろしい見栄えの漢字で、蠕虫や蛆虫が四方八方に這い回っている巣を想起させる言葉です。したがって、これは、汎アジアの団結というヴィジョンより(竹村さんにそうしたセンチメンタリズムは全くないと思いますが)、まったく煩わしいほど多様な読みの実践のメタファーであります。また、もしこうしたアジアの国々における制度としての英文学が、ある種のポストコロニアルな文化帝国主義装置の一部であり、(先のミヨシの言及にあったように)サバルタンを植民地本国とより緊密で、より親密に接触させるために体系化されたものだと言えるなら、文学を実際に読み、しかも細密に読み込んだ数多の行為は、ちょっと違ったエネルギー――(イギリスやアメリカにもっと近づきたいといったような)単一の目的を持つ体系的な集合体ではなく、むしろ差異の群れのようなもの――を生み出していたのは確かでした。彼女は三番目の理由を以下のように述べています。

三番目は、さらに個別的なこと、わたし自身のことです。1990年代の前半あたりからセクシュアリティについて書くようになりました。というか、セクシュアリティについて書けるようになったのですが、書き進めるにしたがって、自分が英文学の研究者であることと、セクシュアリティについて書いていることが、どのように繋がるのだろうと考えるようになり、ひいては、自分が英文学の研究者であることは、どんなことなのか、そもそものプロフェッショナル・アイデンティティは、なべて何によって裏書されているのかと考えるようになってきたことです。[ix]




[i]『文学力の挑戦――ファミリー・欲望・テロリズム』319頁。レズビアン研究についての論文は、『英語青年』142巻、4‐9号、研究社、1996年7月‐12月。

[ii]マサオ・ミヨシはアメリカにおける地域研究のそのような状況を印象深く述べています。「戦争終結後50年以上経っても、アメリカの学者はいまだに知を体系づけようとしている。まるで執念深い敵に直面して、それを破壊するかそれと結婚するかしたい、という欲望に駆られているかのように。」Learning Places : The Afterlives of Area Studies. Ed. Masao Miyoshi and Harry Harootunian. Duke University Press, 2002.5.

[iii]Masao Miyoshi, “The Invention of English Literature in Japan.”Japan in the World. Durham: Duke University Press, 1993. 271-87.284.

[iv]Ibid, 283.

[v]彼女が言及している他の二冊は、齋藤一による『帝国日本の英文学』人文書院、2006年と、宮崎芳三による『太平洋戦争と英文学者』研究社、1996年。

[vi]『文学力の挑戦』289頁。

[vii]『文学力の挑戦』289頁。

[viii]『文学力の挑戦』290頁。

[ix]『文学力の挑戦』290頁。








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

タグ: / フェミニズム / 竹村和子 / クィア / セクシュアリティ研究 / 文学

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