1カ月があっという間に感じます。最近は支援者向けの研修をしたり、「性暴力禁止法ネットワーク」の公開講座にて、「継続的な虐待・時効の撤廃・性交同意年齢」について当事者の立場から話をしました。刑法改正市民プロジェクトのYoutubeに「当事者の声」として3本の動画があがっています。お時間ある際に、見て頂けたらと思います。
今回は東京に避難をした時の話です。
虐待親と悪質な宗教から逃げ、東京に行く
地元で支援を受けることができず、私は東京に住んでいるジャーナリストの長田美穂さんの家にお世話になることになりました。1年間、長田さんとメールや電話をしたりしていたので、初めて会う感覚はありませんでした。長田さんとの出会いは第1回目のエッセイに記載しています。
長田さんが作ってくれる食事。そして、一緒に食べる時間。私は「自分の感覚」をはじめて感じました。お味噌汁からはいい香りがすること、人数分ある食事。生きていてもいいのだと思う環境。
私はある日、長田さんに「お父さんとしないの?」と尋ねました。長田さんは驚いた顔で「しないよ?」と言い、私に座るように言ってきました。
「父親と娘はそういうことしない」と何度も言われ、私の中に稲妻が走りました。今まで自分の家では当たり前の出来事を否定されたのです。私は受け入れなくてはならないという苦しみと同時に、これまで嫌だと我慢していた実家から離れ、これからは自由に生きることが出来るのだという楽しみもありました。
万が一、親が来た時のことも考慮し、裏にあるシェアハウスを利用する女性に長田さんが説明してくれました。「大丈夫。もし来たら、裏からこっちに来て隠れていたらいいよ。私は警察が来たとしても、知りませんって言うから」と女性。長田さんの周りにはいつも明るくて心ある人がいました。
キラキラした社会を見たくない…私は深海魚
性的虐待に遭っているという事実を知った長田さんは、とりあえず自分の家に呼んで、それから先のことは後で考えればいいということで私を一時的に保護してくれたのです。
「今日、〇〇の取材あるから一緒に行く?」〇〇というのは、私が好きな雑誌に出ている大好きなモデルさんの取材でした。その雑誌の撮影現場に行ける。「行きたい」と思ったのに、私は直ぐに「行かない」と口にしました。
私は外の社会を見ることに恐れを感じていました。自分の家で行われていたことは普通ではないことを知った私にとって、外の社会を見るということは針山の上を歩くのと同じくらい心が痛かったのです。それは、令和4年の今でも同じです。
第2回目のエッセイで紹介した「なぜ私は凍りついたのか」の190ページにある「深海魚である☆さん」というタイトルがあります。NPO法人レジリエンスの中島幸子さんの講演に足を運び、「深海魚」「浮き輪魚」「キラキラ魚」「スーパーフィッシュ」の存在と、その魚たちの特性を知りました。
私は間違いなく深海魚。18歳の頃の私はキラキラしている世界に憧れながらも、実際には見たくない、知りたくない…。知ってしまうと、あまりにもギャップがあり過ぎて、心がしんどくなってしまう。
15年経過し大人になった私は、様々な魚にも背景があること。キラキラ魚と深海魚である私を比較せず生きていくということをしりました。しかし、やはり「子どもを愛してくれる家族の元に生まれたかった」という気持ちはあります。
「もし虐待親が来たら裏口から逃げてもらうことになる」
長田さんと一緒に精神科に行きました。ジャーナリストとして取材を行うなかで、長田さんの知り合いの精神科医がいました。生活保護を申請するにも精神科医の診断書が必要でした。「解離性同一性障害」と診断されたのですが、今まで聞いたこともない診断名に疑問を抱きました。人格が複数存在する?その意味が分かりませんでした。
しかし、ある日。性的虐待サバイバーの方と一緒に長田さんの家で食事をすることがあったのですが、その時に私の中に存在する幼い人格が出てきたようです。しかし、私は記憶にないので後から長田さんに教えてもらいました。とても幼く、話す内容もとても幼い。サバイバーの方が長田さんに「幼い人格が出てきた時に近くにいないと対処できないから、寝るのは同じ階の方がいい」と助言をし、それまで2階で寝ていたのですが、長田さんのベッドがある1階で寝ることになりました。中学生くらいの人格は、台所に包丁を取りに行き、何かをするわけではないが包丁を持って遊ぶことがあったようです。その都度、警察を呼ぼうかと長田さんも考えたようですが、呼べば実家に帰されるので「我慢した」とも言っていました。
当時の私は希死念慮も強く、入院も考えられたのですが「未成年だと親権というものがあり入院は出来ない。例え入院したとしても、病院まで親が来たら、病院側としては裏口から逃げてもらわないといけない」と言われ、入院は出来ませんでした。
一緒に2週間生活をした長田さんが驚いたのは「虐待のある家庭から引き離すと元気になると思って呼んだけど、こんなにも苦しそうな姿を見ることになるとは思わなかった」ということでした。私はどんどん疲弊していきました。フラッシュバックによって呼吸困難にもなり、呼吸が止まったこともあります。「この状態が続くと救急車呼ばないといけない」と看護師でもあるサバイバーの方が長田さんに言い「でも、救急車を呼んだら親にわかるよね?」という会話があったこと、呼吸が2分以上停止していたこと。自分のことなのに、長田さんに聞かないと自分に起きた出来事が分かりませんでした。
東京都のある区役所に生活保護の申請をしに行ったのですが、「こういう相談ははじめてなので、どうしたらいいのか分かりませんが、緊急性があるので何とかできるようにしてみます」と行政の相談窓口の方は対応してくれました。申請書と共に医師の診断書も提出し、暫くして生活保護が開始されました。
「18歳(児童ではない)は超えているけれど、20歳まで入ることのできる施設があって、そこに話をしたら一時的に利用してもらうことは出来る」ということで、行政の方と一緒に施設に行きました。長田さんの家で過ごした約2週間の間には、ここで書ききれないことが山ほどあります。
その2週間の間、親が誘拐だといって長田さんを訴えるのではないか…それが心配で、「連絡がきても絶対に連絡とったらだめ」と長田さんに言われていたのですが、「家に戻ってきなさい」「何処にいる?」というメールに対し、私は「生きているからそれでいいでしょ?」と返していました。それに対して親は「何処にいるか言いなさい」と返してくる。長田さん自身も私を保護した後に「誘拐だと言われたらどうしよう」と悩んでいると聞きました。
親は捜索願を、私は親権剥奪を希望
私が一時保護施設を利用している最中も親や警察から電話が鳴りやみませんでした。
あまりにも耐えられず、ある警察官からの電話に出てしまいました。「何処にいるの?お父さんもお母さんも心配しているよ」と。「親はそう言うと思います。私は実家に帰ろうと少しも思っていませんし、絶縁する気でいる」ということを伝えました。最後に「携帯電話料金が10万超えていることにお父さんは困っている。誰かに相談しているのでしょ?やめなさい」結局は親は私の安全ではなく、携帯料金を心配している。
施設の中にある一軒家の個室で私は生活をしていたのですが、その時には既に涙も出なくなっていましたが、記憶を回収できる人格の永遠ちゃんによると、幼い人格の子が出てくるとこれまでの経験がつらく、一人ぼっちでいることが寂しいと感じていたようです。
出来事と感情をバラバラにさせることによって、生き延びようとしていたわけですが、今でも出来事と感情をバラバラにさせるようコントロールしています。コントロールしないと自分が崩壊するのは目に見えているからです。自分の中に湧き上がる負の感情を「無いもの」とする。私のサバイバルスキルのひとつです。
孤独と一期一会
第3回目のエッセイにも書いた、非行少年少女の相談員の方からも電話は引き続きありました。
「あなたのご両親はあなたを虐待したことを否定するに決まっている。自分たちが逮捕されないようにしてくるのは目に見えている。警察からも電話がかかってきているでしょ?僕が次、電話するのは〇月〇日の〇時にするから、それまでは電話は切っておいて」と言ってくれていたのに私は孤独に耐えられなかったのだと思います。
決まった時間に食事をとりに行くのですが、その時に施設を利用していたのは私ともう一人の同年齢くらいの女性。すれ違う時に私は自分のメールアドレスを書いたメモをその子に渡しました。
メールでお互いに、自分たちのことを話したり、その子も「施設にいて一人だし、入所しているわけでないから職員に相談したりすることもできないから孤独を感じていた」と。施設では入所していないと職員に相談することもできず、また利用者同士自由に話してはいけないルールがありました。しかし、お互いにメールで励ましあい、支えあいました。
当時、あの子がいたから私は生きるという選択を選んだのだと思います。人生には様々な分岐点があることも知りました。
しかし、これから先、私はどうなるのか…。親元に返されるのか…。私はSNSに現状を書きました。すると、男性からメッセージが届き「3(万円渡すから)でどう?」とか未成年の少女を買おうとする大人が沢山いました。しかし、その中に「支援活動をしています。あなたを助けたい」という女性がいて、私はその人とメッセージをすることになりました。
その方から「親権剥奪をするのにも地元に戻る必要がある。あなたのことを支援する体制は整っている。精神科医もいるし、弁護士もいるし、食事を作るスタッフもいるから安心して頼っていい」と聴き、私は地元に帰る決断をしました。
「様々な魚たちがいる」
途中で、キラキラ魚・浮き輪魚・深海魚・スーパーフィッシュという言葉が出てきましたが、ここで少し説明させて頂きます。
今から話すのは海の中の話です。
キラキラ魚は、深海魚の存在すら知らなかったり、知っても「他人は他人」、もしくは見て見ぬふりをします。私はキラキラ魚に出会うことがとても多く、虐待を受けていた事実を伝えると「頑張ってね」と、それ以上は見て見ぬふりをされ、連絡が途絶えるということが次から次へと起こりました。
性暴力被害をカミングアウトした時は、「自分も実は被害を受けたことがある」「勇気だして話してくれた」と言ってくれていた人ですら、虐待・性的虐待をカミングアウトしたら音沙汰なしとなりました。一瞬で孤立します。性暴力と虐待は世間からするとこうも違うのか。今でもその違いは謎のままです。
浮き輪魚はキラキラ魚と深海魚の間を泳ぐ魚で本当は傷つきを抱えているのですが、「自分は大丈夫」「傷ついてなんかいない」」という否定の浮き輪を使い、深海から距離をおこうとします。支援者の中に多いといわれています。深海魚酸素が少なく光も届きにくい深海で、生きづらいところで一生懸命に生きています。スーパーフィッシュは、普段は酸素の多いところにいるのですが、深海魚がいる深海まで行き、話しを聴いて共感することもできる魚です。スーパーフィッシュはほんの一握りしかいないと言われています。
これはNPO法人レジリエンスの中島幸子さんが考えた話です。
今回、ご紹介させて頂く本は解離性同一性障害の当事者でもあり、長期にわたって支援活動をされている中島幸子さんの「マイ・レジリエンス」です。
私はまだ今年の1月から一人暮らしをしだした身ですが、危険な実家から抜けて、「私はこれからどうしたらいいのだろうか」と考えていた時に出会った本です。
今も支援してくださっているカウンセラーの方から言われた言葉があります。
「あやみさんは、中島幸子さんのように講演するのが向いているのではないか」と。最初は「そうなんだ…本当にできるのかな?」と思っていたのですが、自分のこれからの人生、自分の心のケアをしながら一人の当事者として「性的虐待・継続的な虐待・性暴力被害、二次被害について、こういう支援があればよかった」など、そしてDIDの当事者としても伝えていきたいと思うようになりました。
月に1,2回程ですが研修を行っています。私の中にいる人格の人たちも協力してくれて伝えることができています。そして何より嬉しいのは、家族も友人も何もなくなった私が孤立しないように人と繋げてくださる支援員さんや仲間がいること。
新しい出会いによって、これからの人生を私は私らしく人格たちと前に進んで行こうと思います。
来月9月3日4日に開催される、性暴力被害者支援のスキルアップのための研修プログラムSAFERにて、当事者としてお話をさせて頂く機会を頂きました。お申込みはまだ可能とのことです。会場は大阪ですが、Zoomによるオンラインでの参加も可能です。一部、録画なしではございますが私が語るところは録画ありで、見直しも可能とのことです。
お時間に空きがございましたら、是非ご参加ください。お会いできることを楽しみにしております。
SAFERのリンク先はこちら →第33回 SAFER研修プログラム 2022年9/3-4 大阪+オンライン 受付開始! | SAFER (safer-jp.org) お待ちしております。
次のエッセイで、またお会いしましょう!
熱中症対策にはお気をつけて。