
実の母娘が親子役を演じて話題の二人芝居「おやすみ、お母さん」(東京・シアター風姿花伝、翻訳・演出小川絵梨子)を見た。母と娘の、壮絶な闘いを描いた作品だ。死にたい娘と死なせたくない母。自殺を予告した娘を、母はなんとか翻意させようとする。どちらが優位か、主導権が一瞬で入れ替わる緊張感が約100分間続く。台本(マーシャ・ノーマン)の指示通り、舞台上で実際に進む時計が、作中人物とともに観客にも、残り時間をひりひりと意識させる。俳優二人の演技は、魂の流す血が見えるような、すさまじい迫力。約二十年前に書かれた本だが、普遍的な、母という生き物の哀しさを感じさせた(一月二十四日観劇)。
支配し続けたい母と、従属を逃れ自立したい娘の物語である。ふつう、母娘の「庇護する/される」関係は、子の成長で対等になっていき、やがて老いた母が庇護され、子が「庇護する」側にと逆転するものだ。けれど、本作の老母セルマ(那須佐代子)は、娘ジェシー(那須凜)が小さかった時の全能感――母が全て面倒をみて決めてやり、娘は母の言う通りに動く関係性――を忘れられないのか、今なお、娘の自立を認めたがらない。「毒親」と言えるだろう。生活面では実際には娘に庇護されていながら、いまだ精神的には娘より優位に立とうとする。娘の病気を理由に、自己主張をやんわり封じ、娘の人生全てを決め、指図し、従わせる。そんな上下関係しか築けなかった母は、娘に自殺を思い留まらせることができるのか……という興味で、観客を最後まで引っ張る。
自殺を予告する娘に
驚きの事実を初めて明かす母
一幕一場のシンプルな舞台だ。下手に台所と食卓、上手にソファ。開演時、壁にある時計は八時十分過ぎ。冒頭から娘ジェシーはきりきりと苛立っていて、老母セルマにいちいち突っかかる。細々とした家事をしては、手にしたメモ帳に線を引いて消していく。何らかの精神疾患を抱えているらしい。ジェシーは離婚で実家に戻ったシングルマザーで、息子はグレて家出。父は最近亡くなり、兄夫婦は近くに住んでいる。
一方、セルマは、マニキュアを塗ってくれ、編み物の毛糸を十五センチ測ってくれ、などと、娘に頼む。甘えているといっていい。食材の注文や家事全般も、娘が担っているらしい。つまりジェシーとセルマの関係は「庇護する側・される側」がすでに逆転している。娘が世話してくれるからこそ成り立つ生活だろうが、母は自らの依存性には無自覚なようだ。
とげとげしい日常会話は、ジェシーが父の拳銃を見つけたことで変化する。食卓で銃の手入れをする娘は、今晩、自殺すると計画を明かす。引き留めるため、母は、娘をなだめすかす。子供の頃に好物だったホットココアとパイを作ってやると言い、思い出話をする。その過程で母は、娘に黙っていたこと――娘の病気は実はてんかんで、物心つく前から発作が始まっていたこと――を明らかする。
子供の疾患を巡る母親の葛藤はおそらく万国共通だろう。我が子の病を知った母親は、かわいそう、代わってやりたいと思う一方で、自分にその原因があるのではないかと怯え、罪悪感にかられる。病気は遺伝か、それとも自分が妊娠中か出産時に、何か悪いことをしたからか。罪の意識と恐怖感が、セルマの場合、ジェシーの病気を直視することを避けさせた。娘にきちんと病名を告げぬまま、当人にも周囲にも病気を隠してきた。
一方、ジェシーは自分が他の人と違うことにずっと傷つき、苦しんできた。発作に怯え、家から出られなかった。母の勧めで元夫と結婚したが、うまくいかなかった。もっと早くに母娘で病気のことを話し合えていたら、ジェシーの人生は違ったかもしれない。自殺を予告しなければ真実を教えてもらえなかったとは、娘の失望は大きかっただろう。
娘をなだめすかす母の言葉に
透けて見える支配欲と打算
途中、凪のような時間が訪れる。時計が九時二十分を過ぎたあたりか。ジェシーが、兄や元夫、息子、母への形見や手紙を母に預ける。諦めたのか、大人しく話を聞いていた母だが、しばらくすると、やはり、このまま死なせられないと、いきり立つ。「あんたはあたしの娘なのよ!」穏やかさと激高を行き来する感情の起伏はリアルだ。ただし、純粋な愛情からだけではないだろう。支配欲と、依存、そしてきっと打算も、ある。娘は自分の思い通りに動くはずと高をくくりつつ、実生活では娘がいなくなれば不便だと計算もしているに違いない。
壁の時計が重みを増すのは、終盤、ジェシーが、兄に報せるのが十時過ぎでは遅すぎると示唆してからだ。兄夫婦がベッドに入る前に連絡が入るようにしたいという。逆に言えば、十時までジェシーを引き止めていられれば、今晩を乗り切れる。翌日には決意も鈍るかも知れない。翻意を促すチャンスも増えるだろう。だから母は娘に必死に話しかける。あとほんの二十分ほどだ。果たして母は、娘をこの世に留められるのか。
母の娘への本音を端的に表す、こんなセリフがある。「あたしが悪かった。許して。あんたはあたしのもんだって思ってた」。老いた親は、娘の本気の訴えを前に、ようやく彼女が自分の所有物ではないと認め、支配をやめることを誓う。共依存の母娘だが、実際のところ依存が深かったのは母のほうだろう。訪ねてくる友もほとんどおらず、娘が唯一の喧嘩相手で話し相手だった。娘は庇護者であり、たった一つの、生きるよすがでもあった。病気につけ込んでコントロールしようとしたり、愛情で縛りつけたりしなくても、娘は母を思いやり、愛してくれていたのに。この夜を迎える前に、娘を自由にさせてやることに思い至れなかったセルマの姿に、世の「毒親」が重なって見えた。
(~二月六日まで、当日券あり)
http://www.fuusikaden.com/mother/
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