子どもの経験とは何か――視点、リアリティ、規範
ここ数年、私は児童養護施設の職員として、施設で暮らす子ども、特に小学生男子と多く接してきた。かれらと接していると、ふと、自分が子どもだったころの情景を思い出す。友達の家に遊びに行き、反対に自分の家に友達が遊びにくる。取るに足りないながら、そういった経験は今でも覚えている。
児童養護施設で育つ子どもにも、学校で友達ができる。かれらは学校の同級生の家に遊びに行きたかったりはしないだろうか?かれらにとっては「自分の家」でもある施設に、友達を連れてきたいと思ったことはないのだろうか?あるいは、そもそも施設の子どもは誰を「友達」だと思っているのか?学校でよくつきあう子どもは「友達」だが、施設でともに暮らす子どもは「友達」なのか?
誰しもが幼少期、子ども時代を経て、現在の生活を送っている。そういう意味では、多くの人にもっとも共通した経験が「子ども」という経験だ。ただし、社会背景が異なることによって、「子ども」の経験には多様性がある。例えば、ジェンダーによって経験が異なっていることもある(早期の子どもに関するエスノグラフィを読むと、いかに子どもがジェンダー化されているかがうかがえる)。もちろん、同一のジェンダーの子どもの中でも個別性による差異がある。
本書はそういった多様な子どもの経験およびそのリアリティを可視化し、検討するための書である。記述の前提として理論的検討(第1章:元森絵里子)があり、私(三品拓人)が担当した第4章以外にも、両親の離婚を経験した子ども(第2章:野田潤)、生殖補助医療によって誕生した子ども(第3章:日比野由利)、虐待を受けた子ども(第5章:根岸弓)などが、具体例として登場する。
本書を読んで、「これが子どものリアリティか」と問われると、「そうだ」と正面から答えることは難しいところがある。本書の事例は断片的であるし、代表的ではないかもしれないからだ。ただし、本書で取り上げられている子どもは、様々な経験をしているが(あるいは、そうせざるを得ないが)、その経験は「自分で」選べたわけではないという点で共通している。そうした様々な経験を自分の選択ではなく経験する子ども側の語りが聞かれることは、今まで少なかったのではないか。本書にあるような一次データを集めて見ると、「子ども」という他者性を想像する困難にぶつかったり、これまで「存在しなかった(とされていた)もの」がよりはっきりと見えるようになったりすることもあるだろう。
本書は、個人化が進む社会において、家族の多様化と子どもの福祉について、どう折り合いをつけるのか、という問題意識が発端である。その検討からは、親の個人化と子どもの葛藤、制度化された主体の準主体化、子どもの保護とケアの社会化、に関する知見や論点が浮かび上がっている(終章:野辺陽子)。
また、位置性(ポジショナリティ)による家族規範の影響の違いや、規範を相対化する難しさなど、今後取り組んでいくべき問題も記述されており、子どもに関連する職業の方や研究者のみならず、広くジェンダー・フェミニズムに関心がある方と一緒に、ここで提起された論点を考えてみたい。
◆書誌データ
書名 :野辺陽子・元森絵里子・野田潤・日比野由利・三品拓人・根岸弓
著者 :家族変動と子どもの社会学――子どものリアリティ/子どもをめぐるポリティクス
頁数 :247頁
刊行日:2022/12/20
出版社:新曜社
定価 :2530円(税込)