エッセイシリーズIV–第5回はザーラ・レ-ヴィナ(Zara・Levina) をお送りします。1906年ソヴィエト連邦時代のシンフェローポリ(Simferopol)で生まれ、1976年モスクワで亡くなりました。生誕地はクリミア半島南部、現在はウクライナに位置するクリミア第2の都市です。シリーズIIー2のタチアナ・ニコラエ-ワは、やはりソビエト連邦時代の、彼女の20年ほど後の生まれです。
ユダヤ系の両親は、父親が小さな商店を営み、趣味でバイオリンを楽しんでいました。母親は、ろうあ学校の先生としてロシア語手話を教えていました。早くから神童と評判を呼び、8歳で最初のピアノリサイタルを開きます。小学校を終えると名門・オデッサ音楽院ピアノ科へ進み、最高位を得て卒業しました。近くには作曲家Shekhter Boris が住んでおり、作曲家のOleksandr Davydenkoにも出会い、切磋琢磨をし合いながら友情をはぐくみました。ふたりとも後年活躍した人物です。彼女は同郷の作曲家ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ、そしてベートヴェンやシューマンを好み、生涯に渡って彼らの作風の影響を受け
ました。
更なる学びのため1925年に名門モスクワ音楽院の作曲科とピアノ科に入学します。すでに数々の作品を書いていましたので、入学試験は「ソナタ第4番」を提出し問題なく合格し、レインゴルト・グリエール(Reinhold Gliter )に師事します。また同年に、スクリャービン音楽学院のピアノ講師として職を得ました。日本でもお馴染みの作曲家カバレフスキーも同僚となりました。
モスクワ音楽院では学生たちが集まり、クリエイティブな作曲集団『Prokoll』を始めます。ザーラは他の集団にも所属していましたが、いじめや不当な扱いにさらされました。数少ない女性の作曲家ゆえだったのか、才能に対する嫉妬なのか、あいにく詳細は出てきませんでした。1932年の卒業試験では《Poem about Lenin for the orchestra, choir, soloists》を発表しました。
音楽院を卒業後も、同世代のソヴィエト連邦時代の作曲家たち、プロコフィエフ(1891-1953)、ショスタコーヴィッチ(1906-1975)、ハチャトリアン(1903-1978)等、後年世界的に知られた作曲家たちと親しく付き合いを続けました。
1930年代初めに、同じく作曲家のNikolai Chemberdzhi(1903–1948)と結婚しました。翌年には娘が生まれます。娘は音楽の道を選ばず、モスクワ大学で言語学を修め、ラテン語、古代ギリシャ語の専門家となり、ロシア語言語学も教えました。両親がエリート音楽家だったことからモスクワの芸術家用アパートで育ちました。ハチャトリアン、ショスタコーヴィッチ、プロコフィエフ等、そうそうたる顔ぶれが近所に住んでおり、音楽にあふれた環境でした。その影響から、専門の言語学の傍ら様々な音楽家へのインタビューや著作があり、世界的ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルに関する著作は2冊出版されています。
ザーラ に話を戻しますと、多くの合唱曲を残し、その後は子供向けの歌曲を書き、2つのピアノ協奏曲も書きました。2つの協奏曲には30年の年代差があり、第1番は第二次大戦真っただ中の1942年作で、3年後に晴れて初演がなされました。前向きで自信にあふれた音楽性をいかんなく発揮しています。第2番は1975年作、心臓病がかなり悪化しており、死期を悟りながら書いた作品です。2つのピアノソナタのうち、第2番は夫に献呈しています。ピアノのための3つの小曲集
も書きました。ヴァイオリン協奏曲は、ロシアの名奏者デビッド・オイストラフにより初演されました。
ニコラエーワのエッセイでも触れましたとおり、人民芸術家として国の厚遇を受けた女性芸術家は存在しましたが、海外公演が可能だったのは長いこと男性音楽家に限られていました。その男性演奏家たちは普通に男性作曲家の作品を弾きますので、彼女の名前が私たちの目に触れるまでには長い時間がかかりました。
そしてザーラをはじめ多くの芸術家たちは当時、『RAPM』と名づけられた「 ロシア・プロレタリア音楽家同盟」に絶えず監視されていました。ソヴィエト連邦は西洋的現代音楽を激しく批判しており、翼賛的、国家発揚的音楽こそが国民に広く知れ渡るべきという考えにありました。ザーラは絶えず不安と恐怖に晒されながら、何とか活動を続けましたが、実は心労も大きかったようです。
そうは言え、彼女に関する情報は現在もそれほど流布しておらず、リサーチは困難を極めました。そんな中、2つのピアノ協奏曲は、ベルリン放送管弦楽団とロシア人の秀逸なピアニストによって演奏が行われ、その録音風景の一部が残されています。録音に立ち会ったお孫さんのKatia Tchemberdji がインタビューに答え、ザーラ・レーヴィナの人となりを語っています。お孫さんは前述の言語学者だった娘のお子さんです。モスクワで生まれ、モスクワで教育を受けた後、現在はドイツ在住の作曲家です。お祖母さんと一緒の写真もご覧ください。
「作品が出来上がった時、祖母だったらこれでいいと言ってくれるか?と、いつも自問します。祖母はイタリアの作曲家ルイジ・ノーノ(Luigi Nono、1924-1990)を好んでおり、密かによく聞いていました。ソビエト時代は決して好まれることのない、いわば前衛の作曲家でした。祖母の作品は様々な作曲家の要素が聞こえると言われますが、そうかもしれませんが、あらゆる要素を自分のものに昇華した上で、オリジナリティに溢れた作品に出来上がっていると思います。」
ちなみにルイジ・ノーノはベニス出身の作曲家で、反体制の思想を作品に織り込みました。前期はとりわけ激しい攻撃性が作風に表れています。
また、このピアノ協奏曲の女性指揮者は、「 ザーラの作風は様々な作曲家の作風が聞こえます。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、ラフマニノフの練習曲集「音の絵」、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」も感じさせます。それでいて彼女独自の作品に仕上がっており、信じがたいほど素晴らしいです。この度演奏の機会に恵まれたことは、音楽家として楽しく面白い作業でした。2つの
協奏曲は、ピアニストにとってラフマニノフ協奏曲3番や、プロコフィエフの協奏曲に匹敵するほど難解なテクニックを要求されます」と語っています。
国家体制に対する長い時代の不安や苦しみこそが心臓病を患う要因だったという記述も散見しました。1976年に70歳で亡くなると、タス通信は「彼女は子ども向けの作品や歌曲、そして室内楽の作品を残しました」と、短い訃報記事を配信しました。お膝元のロシア通信社でさえ彼女の業績を正確には知らなかったのか、それとも矮小化なのか? 疑問は残ります。
その後、モスクワ市内の墓地に、写真のとおり夫の墓の横に彼女の墓が建てられました。
この度の作品は「3つのピアノ曲」より第2番ダンスをお送りします。冒頭はまるでメリーゴーラウンドが回っているような夢のある響き、いぶした金色の輝きのように感じました。厳しい政治体制下、内心の自由を豊かに持ち続けた、素晴らしい才能だったことが窺い知れ、更なる認知が広まることを願っています。協奏曲の録音風景とソナタ第2番は出典に置いています。
出典
ザラ・レヴィナ ホームページ(ロシア語)Bio | Zara Levina | Зара Александровна Ле́вина
孫の作曲家サイト Katia Tchemberdji – composer, pianist
ピアノ協奏曲の録音風景(51) Zara Levina: The Piano Concertos - YouTube
夫に献呈した作品(51) Zara Levina - Piano Sonata no. 2 (1953) - Evgeny Soloviev (2011)-YouTube
ご案内
7月に日本で石本さんのコンサートが開催予定です。右のちらしをご覧ください。