シリーズII 第2回は、ロシア人のタチアナ・ニコラエーワ(Tatiana Nikolayeva)をご紹介します。1924年、ソビエト連邦時代のベージツァ(Bezhitsa )に生まれ、1993年コンサート先のアメリカ・サンフランシスコで病に倒れ、かの地で亡くなりました。1951年にスターリン賞を、1983年には ソビエト人民芸術家の栄誉称号を授与されています。

 母親はプロのピアニスト、父親の職業は薬剤師、音楽を好み自身も趣味でバイオリンを弾きました。母親は位は低いとは言え貴族の出身で、名門・モスクワ音楽院ピアノ科出身、名教師のゴールデンワイザー門下でした。両親が家庭を築いたベージツァの郷土史家によれば、両親の暮らしぶりは、この地方の一般的な水準よりずっと豊かでインテリ層だったそうです。

 ニコラエーワは5歳でピアノを(3歳説もある)、作曲は12歳頃に始めました。後年、モスクワ音楽院で、母親と同じくゴールデンワイザー門下となりました。ピアノ課程卒業後、作曲はゴルベフに師事しました。ちなみに、ゴールデンワイザーは門下生として世界的に名高いピアニスト、ラザール・ベルマンや、現在も名高いドミトリフ・バシキロフも輩出し、友人には作曲家スクリャービンやラフマニノフがおり、華麗なロシアピアニズムに連なる人物でした。

 スターリン政権下、ニコラエーワはピアニストとして1945年オフィシャルデビューを果たします。冷戦下のソビエトにおいて、当時世界の舞台で活躍していたロシア人ピアニストは、ギレリス、リヒテルでした。国内にとどまるニコラエーワは、1956 年にソビエト共産党の党員になります。そして1959年からモスクワ音楽院で教職に就き、1965年に教授就任します。それとともに、内外のコンクール審査で西側ヨーロッパに出るようになりました。そして、まずはイギリスの音楽事務所とコンサート契約が交わされました。

     ショスタコービッチとニコラエーワ

 ロシアの作曲家ショスタコービッチ(1906-1975)は、1950年に当時の東ドイツ・ライプツィッヒで第1回国際J.S.バッハ・コンクールの審査員として、同国人のニコラエーワの演奏を初めて聞きました。このコンクールは、J.S.バッハの没後200年を記念して始まりました。ニコラエーワはJ.S.バッハ「プレリュードとフーガ」24曲、1巻と2巻計48曲をすべて準備し、どの曲でも弾けますので選んでくださいと審査員を驚かせました。指定された曲は、第2巻のC#マイナー(嬰ヘ短調)でした。そして、ニコラエーワが優勝します。同国人のニコラエーワの偉業と卓越した演奏に、ショスタコービッチも文句なく彼女に1位をつけました。

 その後、これに大いに触発されたショスタコービッチは、自身もさっそく「24のプレリュードとフーガ」の作曲を始め、1951年に完成させました。そしてニコラエーワに献呈しました。このきっかけから二人に深い友情が芽生え、それはショスタコービッチが亡くなるまで、常に続きました。全曲初演は1952年、ロシア国内でニコラエーワによってなされました。ニコラエーワは述懐しています、「ショスタコービッチとの出会いは、コンクールで1位に輝くのと同じだけ、二つ目の1位をもらったような気持ちでした」。

 ソビエトでは、ピアニストのエミール・ギレリスが亡くなった後、リヒテルが西側で人気を博していました。ニコラエーワもロンドンで開催される恒例の音楽祭プロムスに出演を果たし、熱狂的に迎えられます。

 その後、ソビエトは長く続いた一党独裁に終止符を打ち、1985年にはペレストロイカやグラスノスチが始まり、ニコラエーワも広い世界への扉が開きました。アメリカを含めた世界各地に招聘を受け、とりわけ、フランス、ドイツ、そして日本で好評を得ました。録音は50以上に及び、1991年はショスタコービッチの「24のプレリュードとフーガ」がドイツグラモフォンの栄誉ある賞に選ばれました。

 1993年サンフランシスコで、体調がすぐれなく感じながらも、なんとか最後までコンサートを終え、その後脳溢血を起こしました。間もなく再び出血があり、意識を取り戻すことなく入院先の病院で亡くなりました。この演奏会プログラムには、ショスタコービッチの「24のプレリュードとフーガ」があったそうです。

 一方で、ニコラエーワはイギリス系のメディアのインタビューで、演奏に忙しい生活でも、作曲は楽しい、また、家庭を切り盛りすることも自分の役目、学生を教えることは疲れていても元気をもらうので貴重な時間だと答えています。

 筆者にとってニコラエーワは、ピアニストとしての名声が充分に大きく、とりわけ、バッハ作曲、ブゾーニ編曲の「シャコンヌ」を好んで弾いていた時代、スケールの大きい演奏が心を打ち、音楽的な影響を受けました。

 加えて、初めてニコラエーワ作品の楽譜を目にしたのは、「プロコフィエフ/ニコラエーワ編 ピーターと狼」「12のピアノ小品集子供のアルバム」「動物絵画集」です。作品はピアノ学習に熱心な日本で、CD録音と楽譜出版がなされました。

 他の作品は、1947年より、おおよそ1・2年に1度のペースで作曲をしており、ピアノ4重奏曲(1947)、ピアノ協奏曲第1番作品10(1950)、 24のコンサート用練習曲(1953) 、バイオリンとピアノのためのソナタ、交響曲(1955)、ピアノ協奏曲第2番 作品32(1966) 、映画音楽“Women in Art” (1970) があります。

 ソビエト共産党時代、いわゆる西側の男女平等やフェミニズムの概念はありませんでしたので、ソビエトの女性たちは伝統的な女性としての役割をこなしました。男性は外で働き、そして一様にお酒が好き。素晴らしい才能のニコラエーワも例外なく、とりわけ彼女は年の離れた夫を早くに亡くし、残された一人息子を一人で育て上げ、身体に障害のある弟も一緒に住み、自ら世話を買って出ました。

   ニコラエーワと同居の弟子

 コンクール前に、ニコラエーワ宅に寄宿してレッスンを受けていた弟子の一人が、その生活を語っています。
 「家庭内の仕事をくまなくこなした上に、練習も怠りなく、海外へのツアーにも出かけていく先生は、超人的な人でした」。

 このお弟子さんは、息子さん(1962年生まれ)の兄的存在で、宿題を見たり、何かと手伝いも買って出ました。ニコラエーワはレッスン中に、ツアー先へのフライトが乱気流で揺れた時のスリリングな話を笑いながらしてくれたこともあったそうです。

 多忙な生活をたった一人でこなす彼女の周りには、手を差し伸べる温かな人たちもいました。とりわけ、親友のタチアナ・ケストナーの存在は大きかったそうです。モスクワ音楽院でゴールデンワイザー門下として一緒に学んだ女性で、モスクワ音楽院傘下の中央児童音楽院で教鞭をとっていました。彼女は、どんな時にもニコラエーワに寄り添い支えました。

 共産党員で国の恩恵があったニコラエーワは、国家の提供する住宅に終生暮らしました。これはスターリン様式の「セブンシスターズ」と言われる建築群の一つで、モスクワ市内にそびえ建つ芸術家用住宅でした。

 一人息子は母の勤めたモスクワ音楽院ピアノ科で学び、その後音楽産業に従事し活躍しました。そのお子さんで、現在8歳のニコラエーワのお孫さんは、モスクワ中央児童音楽院で学んでいるそうです。このようにニコラエーワの偉大さは、血族に途切れることなく続いています。



 この度は、ブダペスト在住のロシア人ピアニスト、ヴィタリー・マトヴェーヴ(Vitary Metveev)氏に、文献リサーチの協力を頂きました。深く御礼申し上げます。

出典: Tatiana Nikolayeva's own interview, given in 1992 in Russian in New York, under the 92nd Y which is the concert venue, located in upper East side of Manhattan.
Форум Классик (Forum Classic blog), Mихаил Петухов (Mikhail Petukhov), Николай Луганский (Nikolai Lugansky), Валентин Предлогов (Valentine Predlogov).
Брянская Тема (local newspaper Bryanskaya Tema)
Юрий Соловев (Yuri Solovyov)


 この度の作品演奏は、12のピアノ小曲集「子供のアルバム」より小品4曲をお送りします。