
すごい本を読んだ。大森淳郎著『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』(NHK出版、2023年6月25日)。9月末、もう3刷だ。「『仕方がなかった史観』に与しない」と評する加藤陽子さんの書評(毎日新聞2023年8月26日)を読み、「この本は、ぜひ読まなくちゃ」と思って、600頁の分厚い本を、ようやく秋になり、涼しくなって一気に読み終えた。うーん、過去のラジオ放送の現場で起こったことが、今まさに再現されつつあるような気がして肌寒さを感じながらも途中でやめられず、ぐいぐいと読み進んでゆく。
NHKディレクターだった大森は、ETV特集で「ラジオと戦争」を問う番組を数多く制作し、NHK放送文化研究所へ異動後は、この問題の調査研究に没頭、同研究所や放送博物館所蔵の資料を読み込み検証したという。その分析の確かさにもまして、2010年頃、全国各地へ訪ねた、当時、90代の元NHKの「放送人」たちへのインタビューが圧巻。それに応答する大森自身の思いや言葉が、実に、いい文章で書かれている。まさにドュメンタリーの醍醐味だ。
日本の放送事業は1925年、社団法人東京放送局、同大阪放送局、同名古屋放送局の三局で始まったが、無線電信法により、当時から「政府之ヲ管掌ス」とされ、担当官庁である逓信省の指導・検閲下にあった。1926年、三局が日本放送協会に統合後、協会の上層部は逓信省出身者で占められるようになったと、「序」に書かれている。
1931年「満洲事変」の翌年、1932年5月、「全国ラジオ調査」が全ラジオ受信契約者へ送られてきた。アンケートを主導したのは逓信省電務局・田村謙治郎。123万枚のうち約3割の35万枚が返ってきた。自由記述欄には「検閲緩」「官僚化反対」「ラジオは本来、そんなものであってはならない」という聴取者からの声が寄せられた。それを受けて田村は、「ラジオは政府が国民を指導するための重要機関であり、日本放送協会は「戦時ラジオ放送」の役割を果たすべきだ」との考えから、1934年5月、放送局の機構改革を実施。その直後の定期総会の挨拶で「ラジオは最早、世情の流れに引き摺られてプログラムを編成する時代ではなく、民衆をして追随せしむるに足る、権威あるプログラムを編成しなければならぬと考える次第であります。そのために先ず第一にジャーナリストの思想を一掃しなければならぬ」と語ったのだ。世論調査やアンケートが、国家によって利用される実例でもある。現代の私たちも心して警戒しなければならない。
そんな中、ラジオの教養番組を牽引する二人、多田不二と西本三十二がいた。多田不二は金沢第四高校時代、室生犀星に憧れ、詩作に耽るようになる。インドのタゴールの詩を翻訳して深い影響を受け、「世界の一点に立って」という非戦の詩も書いている。多田不二は時事通信社を退職後の1926年、東京放送局に入局、講演・講座番組担当となる。1929年、再来日したタゴールのラジオ出演にも立ち会う。番組予告には講演「日本に対する詩人としての御挨拶」(並にベンガールの詩朗読)とあったが、当日の放送はタゴールの詩の朗読のみ、講演はなかったという。著者は「当初の放送予定が直前に大幅に変更されたのではないか」と、当時の新聞記事を調べて推測する。
そして多田不二は、その頃から詩を書かなくなっていく。軍内部による「大陸進出論」の高まりにつれ、時流に乗る詩を書くことをヨシとしなかったが故に。と同時に講演係主任として「国策宣伝」の道を選んでいくことにもなる。
もう一人、「学校放送の父」といわれた西本三十二は、師範学校卒業後、小学校教員となるが、23歳でアメリカに留学。1923年、コロンビア大学教育学部でプラグマティズムの思想家ジョン・デューイとキルパトリックに学ぶ。デューイのめざす教育は、「学校は、子どもたちが自発的に生き生きと社会生活を営む場所、小社会でなければならない。そこで子どもたちは民主主義を学ぶ」という実践だった。
帰国後、西本は奈良女子高等師範学校で教え、1930年、BK(大阪放送局)から「婦人講座」の講演「婦人と世界平和」の依頼を受ける。「女性は本源的に非戦を体現する存在であり、だからこそ世界平和のために女性が果たすべき役割は大きい」との要旨だったが、放送前日、大阪逓信局の検閲で突然、講演中止となる。だがBKは、これに反発し、広島逓信局経由の放送を大阪で中継する奇策を講じて無事、放送は実現した。
1933年、西本は「BKで第二放送を開設するから」と請われて日本放送協会に入局。関西支部社会教育課長に就任。「放送という未知の未来に挑戦しよう」との冒険心に背中を押されたという。
1935年、「全国学校放送」がスタート。西本はシカゴ学派のデューイやキルパトリックから学んだ「進歩主義教育」の実践を試みる。1937年、「中学生・女学生の時間」のラインアップから、本物の科学、美術、文学、音楽を子どもたちに伝えたいという西本の思いが伝わってくる。
だが、この番組も開設当初から戦争と無縁ではなく、「朝礼」で陸軍大将・荒木貞夫が「我が大日本帝国を世界の日本、世界の手本とするには現在の少国民は何をすればよいか」と問いかけ、「教育勅語」の大切さを説いていた。
また西本の言う、ラジオは聴覚に訴えるメディアであることから「音響的効果をできるだけ多く採り入れ、リズム化し、劇化し、綜合化する」「為すことによって学ぶ」という教育原理のテクニックが、やがて「戦時教育」に利用されていったことは、皮肉というか無念というか、今も同じ手法で、メディアは国にからめ捕られてしまっているのではないかと思ってしまうのだが。
1941年12月8日午前7時、館野守男アナウンサーによる大本営発表「太平洋戦争開戦」の臨時ニュースを聴き、西本は「来るものが来た」と思った。1943年、札幌中央放送局長に異動していた西本は、1945年8月12日(敗戦3日前)、主調整室に「アメリカの短波放送を聴かせてほしい」とやってきた。そして「日本がポツダム宣言を受諾した」ことを知る。当時、札幌局の技術職員だった安田春彦(2016年取材時、86歳)が、その時の様子をインタビューで大森に語っている。
1945年の敗戦後、多田も西本も日本放送協会を去った。多田は再び詩を書き始める。西本は学究の道に戻り、戦後の教育学、放送教育に大きな足跡を残した。
さらにもう一人の「放送人」奥屋熊郎。1926年、大阪放送局へ31歳で入局。計画部から編成局に移り、番組制作に携わる。日本放送協会統合後、「BKがAK(東京放送局)と闘うための武器は、ただ一つ、企画力だ」と考えた奥屋は、「国民歌謡」「詩の朗読」「慰安放送」(娯楽番組)等を開発する。たとえば岡田嘉子の独演「椿姫物語」を制作。岡田嘉子は後に杉本良吉とソ連亡命を果たした女優だ。
奥屋にとって大衆を「指導」することは大衆の文化・芸術の水準を高めることであったが、国が目論む聴取者への「指導」は、戦時、国策へと導くものに他ならなかった。「ファシズムとは元来、文化政策を内包する政治システムでもあるのだ」と大森は看破する。
後年、テレビのETV特集「戦争とラジオ」の取材で大森は高橋映一(2009年取材時、82歳)を訪ねる。戦中、「ラジオ少年」だった高橋は当時のニュースを自ら録音して手元に残していた。ラジオ放送の記録は敗戦後、連合軍の進駐前に処分しなければならなかったため、録音盤、ニュース原稿や局内文書も大量に廃棄されていたのだ。高橋少年が遺した1944年当時の貴重なニュース録音の書き起こしが本書に採録されている。これもすごい。サイパン島陥落、レイテ島の死闘、硫黄島玉砕、沖縄地上戦等の大本営発表が、「雄叫び調」ではない「宣伝者」としてのアナウンサーの言葉で紙面に蘇ってくる。
その中に出撃する特攻隊員の別れの声があった。1944年12月7日、レイテ島西岸の米艦隊に体当たりした特攻隊員の言葉が事前に収録され、大本営発表は12月9日になされたが、実際に放送されたのは12月17日だった。なぜ遅れたのか。国民の先頭に立ち、立派に死ぬ覚悟の声以外の「父や母への未練の声」を削ぎ落とすために編集に時間を要したからだと、大森は推測する。今のメディアだって都合が悪い箇所は、どんどん「編集(削除)」されているのではないだろうか。
私が大学生の頃、教育実習でいった中学の社会科の担当教員が、行きつけの喫茶店に誘ってくれた。先生はカウンターで、コーヒーカップを片手に「俺は特攻崩れなんだ。生き残ってしまった。その後はヤケクソな人生しか生きてこなかったと思うな」とボソッと話され、私は、ただボーッと聞くしかなかったことを思い出す。
1945年8月15日、敗戦当日、局内課長会議で「機密文書焼却」の指示が出た。その議事録に「情報局ノ與論指導方針――国民全部ノ罪ト指導シヨウトイフコト」とある。大森は「開いた口が塞がらない。その後、抑えがたい怒りが湧き起こってきた」と書く。戦争に負けたのは軍や政府の指導層が始めた戦争が無謀だったからではない。「国民全部の罪」とは、国民の努力、忍耐が足りなかったからだ。指導層に責任を追及するのではなく、みなが「罪」を自覚して天皇に謝らなければならない、と。「そんな、バカな」と思うけれど。
1945年9月22日、CIE(民間情報教育局)は「日本ニ与フル放送準則」、ラジオ・コードを指令した。「真実を報道せよ、しかし占領軍への批判は禁じる」というものだった。「検閲」ではなく「チェック」を行う「アメリカのラジオ」だ。ただ「放送討論会」や「街頭録音」で、マイクが街へ出ていく試みも始まる。「婦人の時間」で、女たちがしゃべり始めた。2010年、河上洋子(取材当時、85歳)はインタビューで「日本人が話すようになったのはラジオの力が大きかったなあって思うんですよ」と語る。
しかし1950年、朝鮮戦争が勃発し、「逆コース」とレッドパージが始まっていく。
「公共放送」とは「政府と一体となる」という意味では、戦前・戦中、戦後も変わってはいない。大森は「あとがき」で、慰安婦問題を採り上げた『ETV2001 問われる戦時性暴力』の改変に触れている。編集作業の最終段階で、上層部の幹部が安部晋三内閣官房長官(当時)に会った後、制作現場に編集の変更を命令し、被害女性の証言や昭和天皇、日本政府の責任を言及した部分が削除されたという。局内の反対運動も潰され、制作者二人はNHKを去った。その痛みの中で大森が考えた企画が、ETV特集「戦争とラジオ」(2009年)、「敗戦とラジオ」(2010年)だった。「歯を食いしばるようにしてニュース取材や番組制作を続けている後輩たちへのエールになれば」との思いを込めて大森は、この本を結ぶ。
私の戦後の記憶は、物心がついた頃、1947年~1950年のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が最初だ。戦災孤児たちが暮らす丘の上の施設。今でもちゃんと歌える「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台。鐘が鳴りますキンコンカン、メエメエ子山羊も啼いてーます」の「とんがり帽子」の歌が流れてくると、ラジオの前に急いで座った。3番の歌詞「父さん、母さん、いないけど」を聴いて、子どもたちが戦災孤児だったことを初めて知る。
また京阪電車「天満橋」駅構内で靴磨きをしていた少年や、淀川の橋の下に母子で暮らしていた男の子が、橋のたもとの公衆便所へ水を汲みにきていたのを、小学生の私が見かけたのは、1950年代前半のことだった。
時を経てラジオからテレビの時代へ。戦前から戦中、戦後、現代に至るまで国策は、ずーっと連続していているのでは、との思い、デジャブ(既視感)がある。大森淳郎さんには、ぜひ『ラジオと戦争』の続編「戦後から現代まで」を書いてほしいと切に願う。決して新しい戦前にさせないためにも。
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