第2期WANフェミニズム入門塾の第5回講座が2023年11月16日(木)に開催されました。
今回のテーマは「母性」。講座生3名が自身の言葉で書き上げたレポートで、
当日の講座の様子が少しでもみなさんに伝わればと思います。


第5回 母性 受講レポート   mamie

第5回目は「母性」という議題。印象的だったのは、塾生の発表や意見交換の切り口の色が
たくさんあり、とても面白かった事。
女性の生き方の選択肢が増え、出産・結婚・パートナー・キャリア・・・
時代も女の状況も変わる。選択肢が増えてきたこの時代に生きる女性の重荷ではなく、
「自分を解放する考え方」をこの塾で学んでいるんだな・・と実感していました。

「母性」は、女性が持っている性質を言うこともあり、出産を経て母となった方の事を
言うこともあり、多用な使われ方と価値観を示す。子あり子なし。既婚未婚。
価値観も選択肢も増える時代変化の中では、だからこそ「母性」の議論は、
女性同志でも共感を生み、分断が生まれやすいのかもしれない。

「母性」というのは、近代的な自我の否定と無我である。献身を要求する女の存在そのもの。
母性というものが制度として社会的に構築され、国にとって家庭にとって男性にとって?
便利に扱われている事を改めて思い知らされました。

「母になるということは、すべてを捧げるということ。奪われるものも多い。
けどその選択があたりまえだった」という話をきいて、自分の母親を思い出していました。
母は、「母親責任論」からくる規範や当たり前に縛られ、閉ざされてている中で、
きっと苦しんでいたんだな・・と(今もかもしれませんね)

入門塾1回目に「母にとって娘は作品。子育ての成功失敗を娘をみて母や思う」
という話をされていたのをふと思い出しました。母親責任論?母性神話??
いや違うのよ、「娘の人生は娘のものなのよ、と心でつぶやきながら、レポート作っていましたw

タイミングよく、朝日新聞デジタルで公開されていた金原ひとみさんの
「母の仮面が苦しいあなたへ」の記事が公開されていて、議論と対話が深まった気がします。

「母」「妻」「子供」「嫁」・・・女は様々なペルソナを自分でまとって、
「いい母」「親にとっていい子供」であろうという内圧を抱え続けているのかもしれません。
でも、「自分らしく解放してやる!!」と、自分を持ち続けて行きたいなと思いました。


第5回 母性 受講レポート   Sougue  

母親が自分の子を特別な目で見たり、良くも悪くも強いひいき目で見ることは、確かにあります。
子どもについての悩みを人と話すとき、友人や他人の子のはみ出しぶりに対しては
フラットな気持ちで寛大でいられるのに、自分の子のことだとそうできないことがあります。
自分の子が責められたら、自分自身が責められるよりも悲痛な気分で、
理性がグラグラしてきて、感情と自尊心の振れ幅が大きいという実感しながら
修正できないことがあります。そういうのが母性というものならわかります。
(でも、その場合は「ははせい」と読んでほしいです)

その親バカ性、いや「母性」由来のさまざまな心の現象が、「母性」の概念を
裏付けしてきたのでしょうか。医学上の分類、接頭辞はありますが、
国語辞典では具体的な内容には触れないし、ネットの説明では恋愛アドバイスが出てきます。
「母性本能」については、「くすぐる」とセットになって、完全に広告コピーと化しています。

そんなものを、たとえば「植物は二酸化炭素を吸収して酸素を排出する」のような
事実であるかのように扱われることがあったのでしょうか。
公の場で語り・書き、世間では感動的なドラマがお茶の間で試聴され、
信憑性を高めていったのでしょうか。
社会の法制を整えるときに利用されてきたのでしょうか。

目の前に無防備な弱そうな生き物がいて、それを放っとけない!と思うのは、
母親特有の性質ではありません。父親も、親でない人も、誰にでもあり得ることと思います。
一方子どもの方は、新生児は「自分を世話してくれる同一の人物を認識する」のであって、
母親に限定しない、という研究があります。これにも驚きました。

ジェンダー・ギャップ指数の低い国、女の管理職や政治参加率が低い世の中では、
スタンダードを作るのも、優遇されるのも男です。それは「子育てを引き受けて
社会から身を引いている女の好意・謙虚さ」につけ込んで実現した、と言えると思います。
社会の男女差別がなくならず、同一労働同一賃金も守られないのに、
働かない妻を夫の扶養に入れることが温情のように見える。
家にいて家族漬けになったら、社会的判断力も批判力も鈍る、ということを
認めざるを得ませんでした。反省します。
それも計算づくなのでしょうか。

冴えた判断で、根気強く行動を起こし続けたリブとフェミニズムの先輩たちに心から感謝します。

男が女に対して勝手に思い描くイメージや、家庭でも社会でも割り当ててくる
イメージについては、かなりわかってきました。
私が男に対して勝手に思い描くイメージを書きます。

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男は妊娠・出産することができません。あの体験・痛みは、自分の身に起こることはないと
安心している。たとえ起こったとしても、と想像もできない。
それが男のコンプレックスです。
女は、どんなに身繕いしていても、見た目が華奢でもゆるふわでも、
性格がクールでも従順でも、あれをするように設計されている。
胎児は何か月かけて大きくなり、時期が来たらもう逃げられない。
途中で命を落とすこともある。そんな危険な行為を、女は本人の意思と関係なく
引き受けている。存在自体が勇敢であり強い。
だから男は、痛みに耐える強さと、すくみ上がっても逃げ出さない勇気が欲しい。
少なくともそう思われたくて、自分は強いと主張する。
「大丈夫あなたは強いのよ」と言ってもらえても、確信が持てない。
どんな振る舞いをしても、真の勇者・強者であることを証明することはできないことを知っています。
暴力的になったり怒鳴ったりキレたりすればするほど、その男の中の「チキン像」が
浮き上がって見えてきます。
賢い男は暴力を振るわない。自分のチキン性をできれば隠しておきたいからです。
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昔、会社の健康診断で血を抜かれて失神した男の先輩や、商店街に落ちている血を見て
飛び上がってよけた若者たちを見て、なんとなくそんなふうに思っていたのですが、
今回の勉強でイメージがバージョンアップしました。


第5回 母性 受講レポート  北川茶美

今回のテーマは「母性」。私は女という身体をもって生まれてこの言葉に苦しんだ。
苦しさの頂点にいる時にフェミニズムを学ぶことによって救われた。私を苦しめたこの言葉を
WANのフェミニズム入門塾で改めて考え、私と同じく女という身体を持った人たちと語り合い、
今レポートを書いている。

私を産んだ母は、子どもを産みはしたが、育てられる娘からしたら母性を欠いている
人のように思えた。なぜ母は他の母親とは違うのか。自分の母親の母性への疑問、
それが第1の苦しみだった。

そういう母の血を引く自分も、自然に備わっているはずの母性がない人間なのだろうと
思ってきた。私は子どもを育てるべきではないとも考えた。そんな私が子どもを
持つことになったら、子どものためには一刻も早く保育園に預け、プロフェッショナルに
育ててもらった方がいいのではないかと強く思った。
自分の母性への自信の無さ、これが第2の苦しみ。

世間一般の「こうあるべき」生き方に流され、母性を持たないであろう私が妊娠し、
出産することとなった。身体の変化とともに、生まれた後のことを考えると
子どもを産むのは恐ろしかった。48時間、5分おきの陣痛が来たが子どもは出てこなかった。
私は親になるべきではないから子どもが生まれてこられないのだと思った。
結局、帝王切開となった。麻酔から覚めた私に、実母、義母、ベテランの看護師、
その頃読んでいた育児書やメディアは口々に「女としての本当の痛みを知らない」
「帝王切開で産むと母性が育たず虐待になるケースが多い」「母乳が出にくい」
「母親と子どもの最初のコミュニケーションが産道を通る瞬間だ」と経腟分娩が
できなかった私を母親失格だと責めた。出産直後に子育ての先輩方から貼られた
レッテルは引き受けざるを得ず、つらく悲しいものだった。
出産形態による母性への疑問、これが第3の苦しみ。

けれど生まれた子どもは想定外にとてもかわいく思えた。その感情に戸惑った。
ただ、母親失格の出産をした私が感じているこの気持ちは、皆の言う通り本当の母性、
愛情ではないのだろうと思った。また、子どもをかわいく思うことが、
母への疑問を再考することになりさらに苦しくなった。人間としてどこか欠けている私が
ちゃんと子どもを育てていけるのか。子どもを抱っこする前に薬用せっけんで
何度も手を洗わないと気が済まなくなった。子どもが泣き、一刻も早く抱きたいのに
手を洗い続ける。夫は転勤したばかりで終電で帰り、始発で出るような生活。
子どもについて相談することが迷惑をかけてしまうように感じた。
夫の転勤直後で周りに知り合いはいない。頼れるのは正しいことが書いてある育児書だけ。
だが、子どもは育児書通りにはいかない。それも全部自分の心がけ、覚悟、
そもそも女性が持つ母性に欠けているからなのだろうと自分を責め続けた。

その頃に学生時代の友達と交流を持つこともつらかった。その頃の友達の境遇はさまざま。
結婚をせずに仕事を続け海外旅行や趣味等人生を謳歌している人、
結婚したいが相手が見つからないと悩む人、結婚して子どもがいない人、
生まれた子どもに最良の子育て環境を整えることを何の苦も無くやってのけている人、
そして中途半端な私。誰かの生き方が誰かを傷つけ、それぞれが孤独を抱える、
その時はそんな風に感じていた。

その頃にフェミニズムと出会った。世界に光が差したように一変した。
私の苦しみや疑問に名前が付き、自分だけの問題ではないことが分かった。
世の中の問題はフェミニズムの視点を持てばすべて解決すると思えた。
ただ、フェミニズムを学んだからといって生活が一変するわけではない。その後も、
フェミニストとしての理想と現実、子育てグループ活動と子育てとの両立、
仕事と子育ての両立とその都度悩んできた。

子育てがほぼ終わった今、ここフェミニズム入門塾で母性についての文献に触れた。
それぞれの分野から、母性に苦しむ女性に対して温かく、女性に母性という名の
役割を課す社会に対してクールに論じられている。母性という言葉が、三歳児神話、
出産、中絶、育児不安、お産の方法、リプロ、国の政策、職業との両立、不妊など、
いろいろな問題に関係していることを改めて考えさせられた。時代や国、
技術の進歩が母性という言葉を利用し、女性がそれに翻弄されてきたことが分かる。
自分の経てきた苦しみだけでなく、それぞれの立場や過程で母性について悩む
女性たちに思いをはせた。社会から与えられた価値観を超えて、「自分らしくある」
「自分らしく選ぶ」ことのいかに難しいことか。

正直、いろいろな背景がある女性たちと母性について語り合うことは、
学生時代の友達との交流を思い起こさせた。私の生き方や環境が誰かを傷つけて
しまうのではないかというおこがましさと罪悪感、遠慮と恐怖の入り混じった感情があった。
その気持ちを今再び考えてみた。そういう環境や立場の違いで女性同士を分断するような
意識こそ、母性という言葉を利用して女性たちを翻弄する社会に作り上げられたものではないのか。
女性といっても千差万別の背景を持っている。生き方や価値観が違っていて当然だ。
ただ、女性として与えられ、押し付けられたものへの理解があれば、それぞれの立場に
思いをはせることができる。自分の立場を卑下するでも尊大になるでもなく、
お互いの生き方を認めることも。

上野先生がいつか言っていた。「私たちフェミニストは、必要な時は連帯する!」
それぞれがそれぞれでありながら、連帯する必要のある問題は何なのか、
きっちり社会を見定めていこう。


☆関連サイト☆
・【選考結果メールを送りました】 WANフェミニズム入門塾 第2期生を募集します!
  https://wan.or.jp/article/show/10511

・第2期WANフェミニズム入門塾【動画を見て話そう】 第1回「リブとフェミニズム」レポート
  https://wan.or.jp/article/show/10718

・第2期WANフェミニズム入門塾【動画を見て話そう】 第2回「フェミニズム理論」レポート
  https://wan.or.jp/article/show/10801

・第2期WANフェミニズム入門塾【動画を見て話そう】 第3回「性役割」レポート
  https://wan.or.jp/article/show/10865

・第2期WANフェミニズム入門塾【動画を見て話そう】 第4回「権力と労働」レポート
  https://wan.or.jp/article/show/10915