中国での上野千鶴子ブームが続いています。
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中国における上野千鶴子ブームの今とこれから
中国で「上野ブーム」のワケ
『ELLE CHINA』インタビュー
各メディアからの取材について、先方の許可をいただきましたので、今日から4回にわたりお届けします。
第一回:上海明室
上海明室は田房永子さんとの共著『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』の中国語訳を刊行した版元。
若い女性が起業した活きのいい出版社です。
最近エッセイ集『ひとりの午後に』簡体字版を刊行しました。
新刊キャンペーンのために書面インタビューを受けました。
中国のインタビューアーはおもしろいところを衝いてきます。
随机波動公式アカウント記事はこちらです。
https://mp.weixin.qq.com/s/uoT7nVW1SjrFqIX3V3YM6Q
【美について】ーーーーーーーーーー
Q: 最近、先生のエッセイ集『ひとりの午後に』簡体字版が出されました。その中で、日本には「美容福祉士」という資格試験があり、つまり、「美容師」の資格を持っている人が「介護福祉士」の資格を取得し、高齢者施設に行って、お年寄りのために髪を切ったり、顔を化粧したりすることができるようになったということが興味深いです。「装いの結果ではなく、その過程、他人が自分の外見に関心を持ってくれるということ自体が、お年寄りにはうれしいのだろう」とおっしゃっていましたね、この一節を読んで、私たちはあまりにも狭い枠の中で「美」を語っているのではないかと考えさせられました。日本ではどうかわからないが、中国社会でも、ここ数年フェミニズムが大衆の視線に入ることによって、美についての議論は「男性の視線」、さらに言えば、ヘテロ規範の下の性中心的な社会関係という単一な面に焦点が当てられ、男性のために美しくなるのかが問題の中心になりつつあります。しかし、美の問題はそれに限ることなのでしょうか?
エッセイ集の中で、美容院に通う経験について、「少しでもノイズの発生を巧妙に避けるクールな人間関係が進行する」の中で生じた「他者からの関心への欲望が熱を帯びて充満している」感じであり、世話を焼かれたい、「かまってもらいたい、いじってもらいたい」からだと語っています。それはあくまで男性美容師と女性客の関係について話していたが、自分たちがよく経験するのは、女性と女性の間の気遣いや心配りのようなものです。中国では、美容師、ネイリスト、化粧品販売員からインフルエンサーやアフィリエイターまで、「美しくなる」という業界で働く人の大半は女性であり、そして彼女たちが接する消費者の大半もまた女性となります。それで、よく思うのだが、女性によって作られた「美しくなる」という巨大なシステムで、生産-販売-アフターセールスといった商品あるいはサービスの連鎖以外、売り手と買い手の関係以外に何かがあるのではありませんか。もしかするとその中には、女同士のコミュニティ、女同士の気遣いや感情や知識の共有、そして先生がおっしゃったような着飾る結果よりも大事な過程などがあるのかと気になっております。
誰のために、何のために美しさを求めるか、そしてその美しさとはどんな美しさかが問題です。男が女に求める美と女が自分のために求める美とは違います。男が女に求める美は第三者に見せてわかりやすい美、つまり凡庸な美であって、個性的な美ではありません。美容整形する女性は、標準的な美に合わせて自分を規格化しようとしているのだと思います。ファッションも同じです。男に受けるファッションと自分が着たいファッションとは同じではありません。男受けするために、自分が着たいものを着るのをあきらめる必要はありません。美と装いは人間にとって文化です。コスメやファッションにっいては女性の方が男性よりはるかにリテラシーがありますから、同性同士の方が厳しい判定を下します。その同性のコミュニティのなかで評価を受けるのは女性にとっての喜びのひとつでしょう。
Q:もうひとつ不思議に思うのは、ソーシャル・ネットワークや「アフリエイト経済」のおかげで、美の換金力が以前のいつ頃よりも強くなっているように見えます。インターネットのない時代には、美女を見かけることすら少なく、いわゆる美女は所詮テレビから見えるスターであり、知人社会の伝説でしかないのでした。昔は、美を直接金に換えるルートが非常に限られ、結婚やセックスがほとんどでした(女優も金持ちの男と結婚したいわけだ)が、今は違うようだ。ソーシャル・ネットワークを通じて、美や美のイメージは絶えず別のものに変えることができます(それに比べれば、逆に結婚がリスクの高い一発勝負になるのでは?)。(面白い例を挙げれば、中国でとある有名なお金持ち二世の男性がいて、その男性は以前、とてもきれいなインフルエンサーや女優と付き合っていたのですが、ある日、当時アプローチする女性に「しつこく嫌がらせをされ、耐えられなかった」とネットで言われて一気に炎上したことがあり、その後、ネット世論の大半はその女性を支持してしたということがありました。metooがもたらした観念の変革とは別に、もう一つ重要なのは、その女性が一晩中ライブ配信で稼いだ大金さえあれば、お金持ち二世など気を遣う必要がないとみんなが知っているからです。) そのようなプロセスで女性たちは何を得て、また何を失ったのでしょうか。彼女たちのありさまは果たしてよくなったのだろうか。それに、先生はアフリエイト経済についてどう思うのでしょうか。
女性も稼得力さえあれば、男性に気に入られようと媚びを売らなくてもすみます。女性の稼得力は美貌や性的魅力のような資源だけによるわけではありません。学歴や能力の高い女性もいますし、才覚を発揮して起業して成功する女性もいます。自由市場では需要があれば市場価値が高まります。アフリエイト経済はこれからも続くでしょうが、供給側にとっての資源は「人気」という、自分ではコントロールすることも蓄積することもできない浮動的なものです。そんな不安定なものに頼るよりも、経験やスキルなど、誰からも奪われない業績を身につけて自立した方がよいでしょう。
Q: 中国では近年、メディカルエステが日常化、若年化している傾向があります。それに伴って価格も低くなりつつあるが、まだまだ一部の人しか手が出せない消費です。人々は技術的手段によってますます美しく、若々しく、健康的になっていく一方で、この「自己管理」も一種の階級アイデンティティや「超越」にもなっており、つまり、私たちは強化された人間、ある種の「スーパーマン」になりたいという意欲があると思います。そうした点で、日本は中国よりもさらに進んでいるように見えますが、先生は何かお気づきの点がありますか?
日本ではプチ整形や脱毛は盛んですが、高額のメディカルエステはそれほど普及しているようには思えません。アメリカでは肥満が差別につながり、所得格差を生むという調査結果があります。若さと健康は「資源」になっていますが、それはますます個人を規格化・標準化するだけです。人間はロボットでもサイボーグでもありません。疲れますし、病気になりますし、老いていきます。人間の自然を否定するそのような志向は、非人間的であるだけでなく、人権を無視していると思います。
【痛みと死について】ーーーーーーーーーー
Q: 先生には介護関連の著書も多く、文春砲への反論寄稿『15時間の花嫁』でも、歴史家・色川大吉氏の介護過程について詳述があります。先生の言説の多くは、システムとしての介護、そして、介護者がさまざまなシステム(法制度、制度システムなど)との斡旋や、介護者の権力などについての議論が見えます。そうした考え方の影響を受け、私たち自身が日常的な人間関係を考える際、常に権力と構造の視点を思い出されます。ただし、ここではもっとミクロ的な、言葉にしにくい部分についても、先生と議論してみたいのです。例えば感情について、痛みについて。
先生は、滅多にご自分の個人的な感情や思いを文章にされることはないのですが、『15時間の花嫁』で、色川さんが亡くなられる前のとある深夜、そのうめき声で目が覚め、一晩中そばにいて、どうすることもできず無力感にさいなまれ、顔を覆ってしくしく泣いたことを書かれている箇所があります。それを読んで、ああ、先生は弱音を吐くんだなと思わずにはいられませんでした(なぜかずっと先生にファイターのイメージがあります。もちろんファイターだから弱音を吐けないわけではないが、その瞬間が印象的でした)。そこで、先生に聞きたいことは、どのように弱さを受け止めていけばいいのでしょうか、そして、介護の過程で不意に出てしまう感情にどう対処すればいいのでしょうか?例えば、人の苦しみから生まれた共感――それはきっと何もできない絶望と、自分の身にも必ず来たる未来を目にする残酷さが混じっているのでしょう。そうした今現在の介護者としての気持ちと、未来の被介護者としての気持ちが混雑する複雑な感性をどう考えられているのかを先生にお聞きたいです。
いろんな文章を読んでおられるのですね。苦しみやつらさは誰もが経験します。介護期間中に、わたしは弱音を吐いて、助けを求めました。いつでもそうしてよいと言ってくださる方が近くにいてくださったからです。特に何かをしてもらうわけではありませんが、側にいてくださるだけで本当に助かりました。わたしも誰かにとってそういう存在であればよいと思います。あなたにも「助けて」と言える関係、「助けて」と言えば応えてもらえる関係があるといいですね。
Q: 痛みといえば、最近たまたまジョアンナ・バークの『The Story of Pain: From Prayer to Painkillers』を読んでいます。彼女は序文で、痛みとそれをどう表現するのかは言語的な問題であると指摘しています。痛みを表現するとき、常にそれを実体化する傾向があります。すなわち痛みが一つの確かな存在として、人体の内部において実体のある単独なものとして存在していると言います。したがって、イニシアチブを握るのは「痛み」自体で、痛みを感じる人ではないと見られます。そこで、ジョアンナは痛みを「出来事の一種」と称し、痛みという出来事は個人生活に属し、ライフストーリーの一部であると主張しています。また彼女は、人は自分の痛みを閉鎖的で孤立した個人的な身体体験に限定するのではなく、他の身体や社会環境との相互作用の中において理解していると指摘しています。痛みで泣き叫んで求めることは、単なるメッセージの伝達だけでなく、励まし、助けでもあります。「それは常に共同実践のようなものなのだ」と。彼女の痛みに関するの言説は、私に考えさせるものがありました。一方、痛みは言語を拒否しているように見え、どう訴えても、痛みという感覚を他人に伝わらないと気がしています。 一方、人間は常に痛みを通じて他人との繋がりやシンパシーの可能を求めるように見えます。また痛みはかなり強い主体性を持ち、人をコントロールし、変えてしまうことまでもできるようなものだが、痛みと付き合う過程で、人は創造性を爆発させ、新しい自分を生み出す可能性もあるようです。年齢を重ねることにつれ、体の痛みは避けられないことのように思えますが、上野先生は痛みをどのようにとらえ、理解されているのでしょうか?介護の研究と実践の中で、他者の痛みをどのように理解されていますか?
当事者研究のリーダーであり、脳性麻痺の車椅子障害者である熊谷晋一郎さんが「痛みの研究」をしています。それによると他者に説明できる痛み、他者と共有できる痛みは、軽減するのだそうです。たしかに個人の痛みはその人だけのものですが、痛みのつらさは孤立や孤独によって増幅します。たとえば「痛い」と口にできること、それを聞いてくれる誰かがいることが、痛みをなくすことはできないまでも、救いになるでしょう。わたしもそうやって救われました。ファイターとは痛みを感じないスーパーマンではありません。自分の痛みと闘っている者のことです。
Q: 言語についてお聞きしたいことがあります。上の2つの質問にも触れたように、感情も痛みも結局言語に頼らなければなりません。表現者として、先生も私たちと同様、思考を抵抗として、言語を武器として使うことが多いと思います。時折、言語や語ることの癒しの力を感じることがあり、語ることによって、何度も生き直すことができ、より多くの新しい可能性を生み出すことができ、失われた主体性の一部を取り戻せるかのように。しかし同時に、表現者である私は、言葉の信頼性について常に考えています。私が好きな作家、マギー・ネルソンが言ったように、「言葉は本当に十分なのだろうか?」また、今年のカンヌ国際映画祭のパルムドール作品『Anatomy of a Death by Falling』(上野先生はその映画をご覧になったことがありますか?)は、言語の機能と有効性とは一体何なのかという問いを探っていると思います。上野先生は、自分と言語との関係をどうとらえているかをお聞きしたいです。 言葉に裏切られた時はありますか?言語が自分のコントロールから外れた時がありますか?言語は武器でしょうか? それとも他の何かでしょうか?
言語はいつも過少か過剰かのどちらかです。自分の思いに対しては言語は過少ですし、他方、言語は思ってもいないことを表現してしまうこともあります。なぜなら言語はつねにすでに他者のものだからです。しかし言語は「ここにない現実」を創り出す力があります。ですから言語は弱者の武器になります。裏返せば富も権力も武力もない弱者には、言語しか武器がない、と言ってもよいかもしれません。言語の力で世の中の不正と闘うこともできますし、言語があるおかげで人は憎しみや悲嘆から解放されることもあります。ですから言語能力は資源です。それは沢山読み、沢山書くことで身に付けることができます。あなたも言語能力を磨いてください。
【希望は何処にあるのか】ーーーーーーーーーー
Q: 先生が所属する世代と次世代の希望の距離について、先生はどう思いますか。特に、次世代の希望が自分の生涯をかけて求めた希望と真逆な方向にあると気づいた時、どう受け止めればいいのでしょうか。『限界から始まる』は中国で多くの読者に愛読されています。先生と手紙を交わした鈴木涼美さんは中国メディアのインタビューを受けた際に、「日本では、70年代から80年代にかけて、男女の役割がまだ大きく異なる時代に、上野先生をはじめとした同世代の女性たちは女性の生き方の多様化を求めて戦ってきました。そのおかげで私は自由な時代に生きることができました。」と語っています。女一人が職場に入ると性差別と戦わなければならなかったあの時代を生き延びた先生の世代には「女は家にいるほうが楽」などととても言いにくいかもしれません。それに対して、より若い鈴木涼美さんの世代にとっては、「初デートで男性におごってもらうほうがおいしいし、これからも続けてくれればいい」「女性が男性と同じ機会を得られるのはいいことだけど、これまで男性が担ってきたことはやりたくない」などのような言葉は口にできます。先生はそのような女性自身の一歩引く姿勢を心配しますか?その状況が続くと、家父長制との長い戦いは永遠に終わらない可能性を心配しますか?
差別や抑圧から免れたいと思ったからといって、男の真似をする必要はありませんが、「家にいる」のは本当にラクでしょうか。「家にいる方がラク」とは新生児の母親は言わないでしょう、彼女たちは「職場の方がラクだった」と言います。「家にいる」男女はラクかもしれませんが、業績を通じての自己実現の機会を奪われます。男がやろうが女がやろうが「家にいる」のは一見ラクに見えても、その実、不利な選択です。
デートで相手におごってもらうことは誰であれうれしいものです。わたしの方がお金があるときにはわたしがご馳走することもあります。それが「女だから当然」になるのはヘンですが。おごってもらって当然になれば、女性に負債感が生じてお返しにセックスすることもあるでしょう。短期的なトクやラクは、長期的には決してトクにもラクにもなりません。
社会の変化はいつでも中途半端なものですから、その過程で自分の利益が最大化するような選択を、そのつど個々人が選ぶことを責める権利は誰にもありません。
Q: コロナの影響で不景気が続いて、長年の経験を持つクリエイターとして、話題が狭くなり、視聴者の関心が自分のからだ、生活、感情など、自分自身に集中していると、私たちは直感しました。以前、自然災害、貧富の格差、気候変動といった問題は、世界中で注目され、議論されていたが、いま、外部の世界へ関心を寄せる人は減っています。そうした自分以外の世界への無関心や冷感は日本では普遍的なことでしょうか?先生自身の経験から言えば、自分以外の世界中の出来事に関心を寄せるのは人としての本能や義務だと思いますか?自分の個人生活から漏らした波紋と遠くにある重大な出来事への関心の間で、どうやってバランスをとればいんのでしょうか。そもそもその関心は必要なものでしょうか?ひ弱い自分自身の経験から世界中の出来事に広い共感を得ることは可能なのでしょうか。
小状況への関心と大状況への関心は相反する二者択一のものでしょうか。自分の健康は社会と直結していますし、コロナに感染したときどんな治療が受けられるかも、医療体制や政治と直結しています。夫に殴られるのはわたしが悪いからではありませんし、セクハラに遭うのもわたしの責任ではありません。それを第二波フェミニズムの標語はPersonal is political.と言ってきました。自分の個人的な経験を深掘りすれば、どんな人でも必ず社会や構造への関心にたどり着くでしょう。
Q: 先生は著書『生き延びるための思想』の中で、「もし、DVをなくすことに、わたしたちが少しでも希望を持つことができるなら、国家の非暴力化に希望を持ってはいかないだろうか。」とおっしゃいます。しかし、いまだに家庭内暴力が繰り返されて、戦争が世界の多くの地域で再燃することが見られてます。希望が何度も阻まれたとき、どのようにして希望を持ち続けられますか?
ロシアのウクライナ侵攻とイスラエルのガザ侵攻にわたしはうちひしがれています。人間はどこまで愚かなのか、と。しかし日本より女性の状況がきびしいアジアのフェミニストが言った言葉が忘れられません。それは以下のような言葉です。
We are too busy to give up.
Q: 上野先生からのフェミニズム教育は私たちの世代の女性たちに、世界を見るある種の視点を提供してくれました。深い感銘を受けたと同時に、戦う力をいただいて少し前向きになれたことに、心から感謝しております。それでは、これからの世代の女性たちに、そして世界に対して、どのような希望や願いを抱いていますか。
社会は変化しますし、変化してきました。それは勝手に変わったわけではありません。あなたより前にいた誰かが変えてきたのです。どんな変化も人間がつくったものです。あなたより後から来る世代に、今より少しでもましな世界を手渡してください。