※次回、4月は一回お休みさせていただきます。
わたしのフェミニズムの原点みたいな話はいろいろしておりますが、そのうちのひとつは、10代の頃に目にした、エロビデオ屋の「女性禁止」って貼り紙だったような気がします。単に男だけ入れてずるい!、てだけじゃなく、女はエロの対象とされるのにそれに触れるのは禁止されるん?とモヤモヤした気持ちになった記憶があります。
立ち入り禁止はある種の排除であり、そもそも多くの排除は差別を伴います。女人禁制は、女性を、入ることを許された「社会の正式なメンバー」ではない二流の人、と位置付けると同時に、女性を穢れた存在、または(時には守るべき)消費物として扱う延長線上にあると思います。そりゃ冷やかしで女性がいたら選びにくいだろうとか今となってはお店の事情も理解できますが、その貼り紙は、もはや男女は人として同じ権利を得て社会に出るのだ、と思っていた若い私に、運命や呪いとしての「女」を思い知らせ、それらに閉じ込められる気分をもたらすのに十分なものでした。
たびたび言ってるかもですが、フェミを自覚してからは、女性が「正しい」母や主婦と、「間違った」娼婦、とに分断ともに消費される「性の二重基準」の規範というものを知ることとなります。そしてそこから派生する女は性的快楽の消費の主体になれない構造に気づくこととなりました。なので、フェミを知ってからは、「エロの女人禁制」のモヤモヤとは、それらが具現化したものだからだったのか、だから怒りを向けるべきはエロそのものではなくそういった構造だ、という考えを持つことができるようになりました。

しかし他方、私が、エロを差別と捉えることに重点が置かれるようなフェミニズムの主張が苦手、というところもあります。性の二重基準のような、エロが含む差別性に声を上げるルートができた意味では共感するところはあるけれど、エロの持つ前述のような排除を伴う根本的な差別に切り込むことができないばかりか、ふたたび私に境界を与え、排除される側に閉じこめることになるからです。性欲や性衝動のあり方の男女差は生物学的に変えようがないもの、それに伴う文化も同じ。そんな牢獄を打ち破るフェミニズムこそが私にとってのフェミニズムでした(具体的な話はたぶん第三波に関しての話を参照)。売春否定論のフェミニズムよりもセックスワーク論のほうに、性表現規制派よりも女性が性表現を楽しむ主張に共感するのも、その流れのなかにあります。セックスワークも性表現は、個人的でもあり政治的でもある問題として向き合いたいと思っています。
そんなことでセックスワークについてですが、少し前ですが、話題になっていたことに触発され、小説家の女性がセックスワーカーとなる物語の映画『ラ・メゾン 小説家と娼婦』を観てきました。
映画というものに不慣れで解釈とかズレてるかもしれないですが、まず、色のついていない(モノクロっていう意味じゃないですよ)セックスやセックスワークの描写が、妙にストンと入ってきて、性について考える自分のチャンネルが持てるような作品のような印象を受けました。
前述の「立ち入り禁止」のもとに女性が置かれていることの先には、性というものは、自分を主語に向き合おうとしても、ジェンダー規範に塗れた似非本能論が生み出す「呪い」が女として生きる上でつきまとってくるという現実があります。自身の欲望なのに、それ自体も消費物のように扱われ、犠牲者のレッテルを貼られ続ける鬱陶しさや虚しさ。性の二重基準とかセックスワーク論の枠組みとかある程度は頭でわかってても自由になれないこの感覚。結局、それを解く言説や物語、経験に触れる機会があまりに少ないんだろうなあということは常々あります。
そんな「呪い」について考えると、昔に観た『私は好奇心の強い女』という1960年代映画(もちろん観たのはリバイバル)が好きだったなぁてことを思い出しました。女の性欲が、男の消費物に回収されない「性への好奇心」として女を主語に語られることに心強さを感じました。そういう意味でわたし的には『私は好奇心の強い女』は呪いを解く映画でした。
『ラ・メゾン』に戻り、少しネタバレも含みますが、作家の女性が自身の作品のためにセックスワークを体験するというこの映画には、主体的な好奇心や自身の欲望と向き合う様子にまず共感しました。娼館「ラ・メゾン」で起こるさまざまなことからは、ジェンダー規範の手垢のつかない貪欲でポジティブで具体的な豊かな性のあり方を伺い知れ、セックスワークという職業への敬意とともに呪いを解く力を得た気持ちになれました。また、ワーカーどうしの交流にはシスターフッドも感じらました。その一方でやはり簡単にははがせないレッテルや現実的な暴力、身体や精神へのリスクの描写は、まだまだそれらを改善する、変えていく努力が私たちには必要だということをあらためて考えさせるものでした。
簡単に答えは出ないけど、レッテルを貼って終わりにしてはいけないテーマであり、考え続ける手段があるという希望を個人的には持てました。
思えば昔、(詳しくは別のどこかで書いたので省略するとして)私自身にも、些細なことではあるけれどいくつかの形でセックスワークと接点を持った経験があり、それらはたいした経験ではなかったけれど、それらをしなければ知ることのなかったことや社会の見え方の変化があったなあと今になって思います。それとは別に、愛情を伴わない性関係のなかには、どこか金で「買われて」いる感覚が拭い去れなかったものもあったことなども。
『ラ・メゾン』観た少しあとに、同志社大学で「セックスワーク、暴力、エンパワメント」にて、セックスワークに関する映画やトークを観に聴きに行きました。大変充実した会でした。そこでも、差別の問題もエンパワメントの問題も、単純化せず捉える必要があること、何に抵抗すべきかを異なる他者がともに考え続けることの重要性、映画からもパネルディスカッションからも、さまざまな気づきとともに、図式化してしか理解できていなかったことへの反省や、自分のもともとの関心である「つながり」への視点もアップデートを求められるなど得られるものが多かったです。セックスワークのなかにある差別や権力も、捉え方は人によっても異なる。だからこそ、タブーではなく言葉にし、さまざまな意見をぶつけ調整し、議論を続けて、差別や抑圧を伴うものでないように変えていかなければならない、と思います。
ところで、最近の性表現やその他性の文化に関する議論で、「不適切」かどうか、「自由」かどうかという二項対立に無理やり押し込められるような風潮は、ふたたび「立ち入り禁止」の領域が作られるようで心底気持ち悪いです。前からちょいちょい言ってますが、ここは好きだけどここは嫌い、この表現や現象自体にはこう思うけど、背景にあるこの問題もそれなら同時に考えないといけない、など、さまざまな立場でそこに踏み込み、声を上げられる状況こそが人が尊重される社会だと思います。〇〇の世界を犯すな、で持続する文化なんてしょうもないし、薄っぺらいし、文句言われてぐらいで委縮する文化なんて所詮その程度のもん、でよいのではと思います。「何も言えない面倒くさい社会」はある立場の人たちがこれまでの特権を奪われたことを意味するに過ぎないし、むしろ、その言葉が自由な声を封じ込めてる。「なんでもかんでもハラスメント」なんて、そんな言葉でわかった気にならず、ほんとに言いたいこと言える社会、話はそっから始まると思います。
入ってこれないなら、おかしいことをおかしいとも言えない、だから、ぐいぐい入って、社会への視点を持ったうえで言葉や作品という形にするなりして、性という見えない存在を暴き残す、だからこそ、知る機会が持て、そこから考えたり議論したりできるものとして、意義深いものだとあらためて感じました。
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