2024年6月12日、西川祐子さんが亡くなられた。86歳。この数ヶ月、少しずつ覚悟はしてきていたものの、「ああ、もう会えなくなってしまったのか」と思うと寂しい。

 西川さんは、『森の家の巫女 高群逸枝』『借家と持ち家の文学史』『古都の占領』他、数々の名著を書かれ、日本の女性史・近現代史の研究者として知られているが、もともとの専門はバルザックをはじめとするフランス文学で、私が初めて彼女を知ったのも、イヴリーヌ・シュルロの『女性とは何か』(人文書院、1983年)の翻訳者の1人としてだった。その頃から、自分がこれと思い定めた研究対象にこだわりぬく強い意志と徹底した探究心、良い意味での研究者としての「しつこさ」は、生涯変わらなかったのではないかと思う。仕事が好きで、妥協ということを良しとしない人だった。

 でも、一方では方向音痴で、ちょっとドジなところもあり、おしゃれやおいしいものも大好き、会うといつも何かちょっとした素敵なプレゼントをくれる、可愛い人でもあった。

 西川さんとは、1996年に新設された京都文教大学で、私が大阪大学に移るまでの4年間、同僚だった。彼女に「今度、新しくできる大学で一緒にジェンダー論を教えない?」と誘われて、その前の大学では留学生相手に日本語・日本事情を教える職についていた私は、「これで自分の専門が教えられる!」と喜びいさんでその誘いに乗ったのだった。

 設立当初の京都文教大学にはいろんな分野の若くて意欲的な研究者が集まっていて、共同研究会をするのが楽しかった。その中から生まれたのが、『共同研究 男性論』(人文書院、1999年)だ。皆の中では少し年かさの祐子さんは、研究会でも教授会でもぴりっと鋭い発言をするので威厳があり、少し怖かったが、学生相手にはとても親切で、アイデア豊かな指導ぶりが際立っていて、おおげさでなく「教師の鑑だな」と思っていた。

 1997年にシカゴで開かれたアジア学会で発表するために一緒に渡米した時は、住居というテーマにずっとこだわっていた西川さんに誘われて、フランク・ロイド・ライトの設計した住宅群を見学しに行ったり、かつての魔女狩りで有名なセーラムでは、大森貝塚の発見者モースの住んでいた家を探ねたりしたこともある。

 その他、思い出はいろいろあるが、一緒にやっておいて良かったなと思うのは、西川さんと上野千鶴子さんに私が質問する形であれこれ「秘話」や「本音」を聞き出した『フェミニズムの時代を生きて』(岩波現代文庫、2011年)という本を作ったこと。編集者の大橋久美さんには膨大な量のテープ起こしや編集で大変な苦労をかけたけれど、熱海の保養施設に2泊3日で泊まり込んで寝食を共にしながら3人で朝から晩まで喋り続けたのは得がたい経験だったし、今となっては後の世代のための置き土産にもなったのではないかと思う。

 10年くらい前からは西川さんに誘われて、京都在住・木琴奏者の通崎睦美さんのコンサートに年2回ずつご一緒するようになった。通崎さんは才気煥発を絵に描いたような人で、コンサートはいつもとても素敵だった。その前後に2人でお昼を食べたりお茶を飲んだりしながら、あれこれお喋りするのがきまりだったが、3年ほど前から西川さんは体調を崩されることが多くなり、私の1人参加になってしまった。

 昨年秋、『借家と持ち家の文学史』の新しい増補版が送られてきて、その「増補版のはじめに」の最後には、「これからどうする、どうする・・・楽しみではないか」と、「まだまだこれからも、たくさん読んで書くぞ!」と受け取れる言葉が記されており、ああ、お元気なんだと安心した。でも、実はその頃に倒れられたことを、後になって知った。この本以外にもまだ進行中のお仕事をかかえておられたようだし、先に亡くなられた長夫さんの膨大な蔵書の行き先探しなど、やっぱりいろいろ疲れがたまっておられたのではないかと想像している。

 最後に直接お会いしたのは2022年4月、西川さんのお住まいに近い「ノアノア」でランチを食べ、白沙村荘の庭をゆっくりと散策した日だ。楽しかった。これが最後になるかもしれないとわかっていたら、「あんまり仕事に根を詰めすぎては駄目よ」とお説教の一つもしたかもしれない。でも、そんなことをしても頑固な西川さんには効き目はなかっただろうし、最後まで好きな仕事のことを考えながら倒れられたのは、もしかしたらご本人にとっては幸せなことだったのかもしれないなとも思う。

 祐子さん、さようなら。あなたとお友達でいられて楽しかったです。