西川祐子さんが倒れたという知らせは去年の十月だった。そのときから今日の日が来ることは予測していたはずだが、ほんとうにいなくなったということにやはり愕然とするものがある。
祐子さんと出合ったのは二〇歳のときだからもう六五年である。「日本小説を読む会」(山田稔主宰)に長夫さんと来たのがきっかけだった。
「わたしはあなたが長夫さんと手をつないで前を歩いているのを見たのよ、東山通りを南に向かって、楽友会館で小部屋に入ると二人が座っていたのでびっくりした」
「あなたはあの日、わたしたちを追い越して行ったの、なんて腰が細い人なのと二人で驚いていたの」
祐子さんはほんとに小説が好きだった。また、読むのがすごくうまかった。思いがけない方向から光を当ててその小説の新しさや意味を気付かせてくれた。だから、「読む会」にきてほしかったがときどき姿を見せることで済ませていた。長夫さんは熱心な会員だったから、その自由を奪うことになるとでも思っただろうか。夫婦で参加という人も中にはいたし、そして誰もそういうことに遠慮をしなかったと思うけれど、何度か水を向けたが頑固に拒んだ。
その償いのように二人の付き合いを大事にしてくれた。同人誌をつくろうということも、その命名も祐子さんの提案であった。同人誌「a-ya」は4号までだったが、わたしたちの文学的出発にとっては記念碑的なものである。そのことだけ書いて、祐子さんの追悼にしたいと思う。
「a-yaをはじめるにあたって」(1号編集後記)に次のようにある。
「a-yaは「阿夜は驚きて嘆く声なり」(古事記伝)からとった。宣長の説明はこの語は感動詞である、というにつきている。アヤはヤアであり、またアイゴーにつうじる語であったかもしれない。あらあらしくてそしておかしげな耳ざわりが気にいっている。喜びと悲しみ、泣きと笑いさえ未分化な叫びから出発してやがてことばを得たいという願いをこめて、わたしたちの雑誌の題とした」
その1号にわたしが「嘆く声」という詩の連作を出し、祐子さんは「阿夜」という小説を載せた。宣長の説明を二人で分けて題にしたわけだ。ちょっと笑える。表紙にはすべて祐子さんの繊細な美しい絵を使った。友人の一人に「金をかけ過ぎや」とあきれられたが、半世紀を経て手にするとしみじみ愛おしい。わたしたちは貧しかったが、どこかで贅沢をしたがっていた。そのどこかが共通していたのであったようだ。
1号は1981年、2号は83年、3号84年、4号86年、という発行で、祐子さんの「阿夜」につづくのは「大連から来た女」「愛しい人質たち」「女たちの夜の学校」である。それぞれに「阿夜」という名の人物でつながる小説で、この連続ドラマを解説したい気持もやみがたいが、いまはそのエネルギーがない。1号の「阿夜」についてだけ書いておきたい。
「私は約束があるから、あの家へ帰る。私は、繁りすぎた樹木の暗いかげに埋もれているあの家を、いつでも、どこにいても、想い描くことができる」とはじまる小説は、この家の主である「私の祖父」の看取り日記でもある。「私」は三〇歳、祖父は八五歳。四歳の「私」は「オジイサン、アタシハセカイジュウデ、オジイサンガイチバンスキ」といった。そしてその人との生活を完結させた。愛の最期を見とどける日記なのだ。
西川祐子の愛読者ならこの祖父がさまざまの著書の中に顔を出していることをもうご存じであろう。最後の訳書となった『「人間喜劇」総序 金色の目の娘』の解説は文庫本の解説という常識をこえた大バルザック論であるが、そこにも「わたしは中学生のとき、祖父の本棚にあった『バルザック全集』(河出書房、1941-42年)を、遊びの続きのようにしてしばしば手に取った」とある。
その祖父を四歳のときからどんなに大好きだったかを祐子さんは書いておきたかったのである。それがどんなに大事なことだったかを書きたかった。そのために同人誌を提案したといってもいいくらい、とはいえ、他の作品にも深い執着は読みとれる。西川祐子の歴史学、文学の膨大な業績の序章ともいうべきものなのであったが、この祖父への鎮魂が「ことばの人」西川祐子の出発点にあったことが明らかである作品なのだ。
小説の末尾に「一九七二年四月六日、脱稿 一九八一年八月二十二日、第二稿」とあるから、十年近くかけてどう発表するかを祐子さんは考えに考えていたにちがいない。同人誌を思いついたのが先だったか、わたしを見つけてくれたのが先だったかは分からないけれども。思えばもの足りない相棒であった。
今度「阿夜」を読みかえしてその祖父の命日が九月一七日(日曜日)であることに気がついた。祐子さんの誕生日の九月一五日の二日後に亡くなったのだ。麦子さんに確かめてはいないが、祐子さんがバルザックの訳文とあとがきの原稿すべてを編集者に送って倒れたのもその日に近いいつかであったのではないだろうか。わたしに伝えられたのは一〇月になってからだったけれども、こうしてみると祖父と祐子さんのつながりはただごとではない。祐子さんの人間の大きさと聡明さを思うとき、わたしはこの祖父の存在を忘れることができない。
それにしても『借家と持ち家の文学史』(平凡社ライブラリー)と『「人間喜劇」総序 金色の目の女』(岩波文庫)のすべてを片づけて、しかもその最後の本を胸に抱いてホッと微笑んで永眠とは、何というみごとな死に方であろう。
最後の夏となった去年の八月、わたしたちはめずらしくよく電話で長話をした。祐子さんは家の配管がボロボロになっているのを直している、家具を一つ一つを動かして戻し、動かして戻し・・・と苦笑いしていた。「わたしたちの体と一緒だね」と嘆きあった。限界まで働いて逝ったのだ。命を全部使いきっていた。
今年水無月はどうにも寂しくてたまらない。
<西川祐子さん追悼特集>
西川さん追悼文 上野千鶴子
西川祐子さんのこと 荻野美穂
西川祐子さんのこと 中谷文美