突然舞い込んできた西川祐子さんの訃報を受けとめきれない。気持ちがざわついたまま落ち着かない。

大学院を出てから最初の就職先となった京都文教大学で、私は祐子さんに出会うことができた。京都に誰も知り合いがいないと心細がる私に、上野千鶴子さんは「あなたが行く大学には西川祐子さんと荻野美穂さんがいるじゃないの。それ以上何を望むの」と言ってのけた。そのときはわからなかったが、それはほんとうに本当だった。

とくに祐子さんには、新任教員たちを集めた懇親会の席で挨拶もそこそこに、地元の不動産屋さんを紹介してくださいと図々しく頼み込んだときから、公私ともにお世話になりっぱなしだった。絶品の鯖寿司がテイクアウトできるお寿司屋さんやら行きつけのフレンチ・ビストロやら、たくさんのお店を教えてもらった。京都生活が始まって間もない頃、寺町通りを南から北にずーっと歩き、ここが鳩居堂、ここがグランピエ、ここに三月書房とお気に入りのスポットを一緒に辿らせてもらった半日は、まさに宝物のような時間だった。もう30年近く前のことだが、そのときの幸せな気分を思い出すと今も泣きそうになる。

任期付助手だった私がたった半年で別の大学に移ることになった時は、処遇が大丈夫なのかと心配し、ご自身の身に起きた過去の事件とそれにまつわる裁判のことを詳細に話してくださった。あの時見たのが祐子さんの一番厳しい表情だったような気がする。

アカデミック・キャリアの一貫性ということでいえば、祐子さんはたしかに不遇だっただろう。だが、身を置いたその時々の場所で新しい仲間を引き寄せ、新しい手法で新しいテーマに挑み、必ず作品を残すところまでやり遂げるという祐子さんならではのスタイルは、特定の専門分野や学会の壁を軽々と超える。いくつもの共同研究は、それぞれに斬新な切り口で、その時そのテーマで集まったメンバーだからこその発見に満ちている。

単著は単著で、樋口一葉論も岸田俊子論も、そしてその後の住まい論も日記論も占領期研究も、祐子さんがなぜそれに目をつけたのかを聞いていると、こんなに面白いトピック、面白い論じ方があるのに、他の人が先んじて気がつかなかったことが不思議に思えてくるくらいだった。

京都を離れてからも、折に触れて荻野美穂さんと3人で食事に行ったり、ご自宅を訪ねてテイクアウトを囲んだりという機会を重ねることができたのは幸いだった。常に美味しいものは欠かせなかったが、話に熱中しすぎて、食べているものの美味しさにコメントする暇がいつもなかった。帰宅してからノートを取ろうとしたこともあるが、多岐にわたる話の中身を十分咀嚼しきれてないことに気づき、悄然とすることも多かった。録音しておけばよかったと何度も後悔した。

そんな中でも鮮明に覚えているのは、その時々に取り組むテーマごとにふさわしい文体にこだわり、またどんな装丁で作品を読者に届けるかということにとことん心を砕く祐子さんの姿勢である。祐子さんが遺したどの本にも、そのこだわりと心遣いの跡が見て取れるはずだ。

祐子さんに会えて本当によかった。歳を重ねることに迷いも畏れも抱かずに済んできたのは、祐子さんのような人生の先輩がいてくれたかららだと思っています。ありがとうございました。