よいケアはどのように可能なのか

 日本を代表する社会学者であり女性学者の上野千鶴子の『ケアの社会学:当事者主権の福祉社会へ』(2011、趙スンミ・李へジン・孔ヨンジュ訳)が日本で刊行された年、私は東京で、父母を介護中の非婚者たちに関する現地調査をしていた。本を読んでいるとまれに著者に対する心の境界が解除され脳が連結されたような経験をする時があるが、この本の4章「ケアに根拠はあるか」を読んだ時がまさにそうだった。「なぜ高齢者をケアするのか? この問いは、実はおそろしい問いである。」で始まる最初の段落を読みながら、私は「こんなことを問うてもいいんだ」という安堵とともに、ふさがれている穴があいたような爽快さを感じた。それは父母の介護に巻き込まれ、長期間、介護にしばられている非婚者たちにインタビューしつつ、私が問いたかったがどうしても問えなかった問いかけだ。なぜ人間は高齢者を介護するのか? 家族の介護がベストなのか?
 上野はこの本で、平均寿命の延長と高齢者介護の長期化、高齢者の介護水準の上昇によって、高齢者介護という生涯周期の後半過程が新たに浮上したことを強調している。再生産労働は生命を産むことだけではなく、死をみとる労働を含めて人間の生命と関連するあらゆる労働として再定義される。このように高齢者介護を再生産労働として再定義すれば、再生産の費用分配に歴史的、理論的に接近することができ、家族の介護を個人の運命や不運ではなく社会的次元で議論できるようになるのである。今見れば「平易な」主張だが、当時、強烈に身にせまってきたのはやはり問いの力ではないかと思う。

 この本はこのように、質問と回答を提示する簡潔なQ&A形式をとっている。ケアと福祉社会、フェミニズムという分野に足を踏み入れた人であれば誰もがしたであろう問いかけに、著者が多様な論理と事例を動員して答えてくれている。中でも、この本の根幹をなす問いかけは二方向に集められる。一つは介護を提供する側に焦点をあてたものであり、もう一つは介護される側に焦点を合わせたものである。
 まず、介護の提供者の観点から提起した問いかけを見てみよう。このためには上野が1990年に刊行した『家父長制と資本主義』(緑豆1994)にまでさかのぼらなくてはならない。『家父長制と資本主義』の最後のところで、著者はケア労働、すなわち再生産労働が他のあらゆる労働よりも下位にあるものとして扱われている現実を指摘したが、『ケアの社会学』を通してこの往年の問いを再び提起している。この問題意識は「ケア労働はなぜ安いのか」というように単純化できるが、上野が生涯をかけて苦悩してきたこのテーマを再び本格的に提起するようになった背景には、2000年の老人介護のための日本の社会保険の出帆があった。介護保険ができて、それまでおもに女性たちが担う不払い労働だった老人介護が賃金労働に転換した。こうして老人介護は家事の一部ではなく、生産活動になったのである。著者は、このように介護保険制度のおかげで老人介護が金を稼げる労働になったが、依然として深刻な低賃金で維持されている理由を生協と福祉ウオーカーズコレクティブに対する現場研究を通して究明している。
 ここまではケアの提供者側に焦点をおいた議論であり、この問いに、ケアされる側の行為は介入する余地がない。そこで上野は、「よいケア」とは何なのかという問いを投じる。相互行為として規程されるケアにおいて「よいケア」とは、ケアを提供する側と受ける側の両者間の圧倒的な非対称性はあるが、当事者皆が満足する形態で運営されなければならないと定義する。そして、「よいケア」が達成されるための領域として官(国家)/民(市場)/協(市民社会)/私(家族)という四つの部門を検討し、介護される当事者の必要を最もよく充足させる先進的なケアモデルを創出してきた「協」セクターの優位を主張する。もちろん協セクターにも限界はあるが、家族における贈与、市場における交換、国家における再分配よりも、市民社会の互恵性を中心とした協セクターに優位を置いて、介護負担が最適に混合された福祉多元社会を作っていこうというのがこの本を貫通している論旨だ。
 こうした主張は日本の中で多様な反論を呼び起こしたが、大きく三つに整理することができる。第一は、協セクターの優位性の根拠が不充分だというものだ。上野は、協セクターで主導したいくつかの先進的なケアの事例を提示したのみ、官/民/協を同じ基準で比較しないために協セクターの優位性論は検証されなかった主張だというものだ。第二は、歴史的な事実として協セクターの優位性を認めるとしても、それは官/民よりも本質的に優位にあるとはみなしがたい、という指摘だ。1970年代以後、日本の市民社会が示した協セクターの優位性は、著者も認めているように戦後の経済成長の時期に高学歴中産層の既婚女性たちの「大挙の出資」を基盤にすることでのみ可能だった期間限定の優位性だというものである。第三は、訳者も言及したように、公共部門がなすべき仕事を市民社会に背負わせているのではないかという反問である。
 韓国で日本は先進的なケアシステムの事例として頻繁に論じられているが、「どのように」を問うことはまれである。たとえば、2000年を起点として日本の老人ホームが多床室から一人部屋にいっせいに変わったと、まるで当然のように言及するが、この本はその変化のために各地でどれほど熾烈な闘いが繰り広げられたかを追跡している。市民社会が模範的な事例を作りあげて官を強制してきた記録をなまなましく綴っているのがこの本の主要な成果だ。しかし福祉国家へ進む経路はおのおの異なるため、こうした日本の事例を、官が主導するケア労働の高コストと非効率を示す根拠とみなすことは難しい。たとえば北ヨーロッパの国家ではケアの供給不足を改善し、ケア労働が社会的に正当に評価されない状況を打開するうえで公共部門の介入が成果をあげた。韓国の場合、協セクターが未発達な状況で市場優位のケアシステムを構築してきた。しかしケアの死角地帯が大きくなって非効率性が拡大し、ケアの公共性を強化せよという社会的要求が噴出した。それに応じて始まったのが2019年の社会サービス院だった。公共部門で先進的なケアの事例を作っていく主体として期待を集めたが、現在、社会サービス院は民間の市場を活性化するという政府の基調の変化によって廃院の危機を迎えている。「よいケア」はどのように可能なのかという当事者たちの問いかけがいつにもまして切実に必要な瞬間だ。
 上野千鶴子の『ケアの社会学』が翻訳中だといううわさは長い間あった。しかし実物が出ないので刊行は結局、霧散したのかと思い忘れていた。ところがついに刊行されたという知らせを聞き注文して手に入れ、二度驚いた。まず944ページの本を作った大胆さに驚き、読了した後では、この翻訳プロジェクトに参加した人たちの熱意に驚いた。訳者たちは、なめらかで正確な翻訳に加えて、この分野の専門家でなければ知りえない親切な説明をところどころに入れている。最後に、日本と韓国の老人介護の現況に対する訳者の言葉と梁蘭周(ヤン・ナンジュ)教授の解題まで、何一つ不足するものがない一冊だった。分量が多く完読は「チャレンジ」になるだろうが、挑戦する価値は十分にある。
翻訳:李順愛
出典:『創作と批評』2024年秋号(2024年9月1日)

*以下から著者あとがき、訳者あとがき等が読めます。
https://wan.or.jp/article/show/11251