エッセイ

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荻野美穂 竹村和子さんのこと  

2012.09.09 Sun

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.竹村和子さんの名前を初めて知ったのは、1999年に出たジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』の訳者としてだったと思います。

じつは私はその数年前に、この本の第1章だけを訳して雑誌『思想』にのせたことがあります。

そこでのセックスとジェンダーに関するバトラーの議論はとても刺激的で、まさに「目からウロコ」だったのですが、「悪文」とさえ評される難解な文章を読み進むのは、正直言ってかなり苦痛でした。

本を全訳しませんかと誘われたときにも、丁重にご辞退しました。

なので、竹村さんによる翻訳が出たときには、こんな作業をやり遂げられるなんてすごい!と、心から感嘆したものです。

その後間もなく、私がお茶の水女子大学に提出した博士論文の審査委員の一人を竹村さんが引き受けてくれました。

会って話しているなかで、バトラーの文章は読みにくいと言うと、彼女はなんと、自分にとってはバトラーの文章ほどわかりやすいものはない、自分がつねづね考えてきたことがそのまま言語化されているように感じる、と言うので、この世にはそういうアタマの構造の人もいるのだと、もう一度驚かされました。

竹村さんはその後も、自分自身の仕事に加えてバトラーの著作を次々と翻訳し、講演のためにお茶の水女子大に招いたり、バトラーのいるカリフォルニア大バークレー校に在外研究に行ったりと、密度の濃い関係が続いたようです。

研究者としても個人としても、あのように理解し共感しあえる相手に出会えたことは、竹村さんにとって大きな人生の幸福だったのだろうと思います。

でも、もしもそれが、ただでさえ多忙な彼女をよりいっそう「仕事の虫」的な生き方に駆り立て、生身のからだをいたわることを忘れがちにさせた一因だったとしたら、残された私たちにとっては少し残念な気もします。

3年前にWANが立ち上がったとき、竹村さんはちょうどバークレーに滞在中でしたが、メールでお願いすると、すぐに終身会員になってくれました。その後も、WANにも記事を書いてね、とか、京都におばさまがお住まいなので、京都に来られたときは遊びましょうね、とか、やりとりはしていたのですが、いつの頃からか、連絡が来なくなりました。

やがて人づてにご病気であることを聞き、お見舞いにうかがおうとして果たせず、そして・・・。

私が竹村さんと接することのできた時間は、トータルで見ればそれほど長いものではありません。

けれども、キラキラと輝くようなそれぞれの場面や言葉の記憶は、たぶんこれからも私の胸のなかで大切な場所を占め続けることでしょう。








カテゴリー:竹村和子さんへの想い / シリーズ

タグ:ジェンダー / 竹村和子 / 荻野美穂 / 追悼