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トーク「今、なぜ、アーレントか?」に参加して 堀あきこ

2014.03.10 Mon

2014年2月28日(金)大阪ドーンセンターで開かれた、トーク「今、なぜ、アーレントか?-映画「ハンナ・アーレント」と蔓延する『悪の凡庸さ』」に参加しました。講師は志水紀代子さん(追手門学院大学名誉教授)。会場はほぼ満席、男性参加者が多いのが目立ちました。映画「ハンナ・アーレント」を観たと答えられた方は、会場の半数ほど。アーレントへの関心の高さを感じました。当日はIWJによる録画もあり、ダイジェスト版が無料で、完全版が会員公開されています( http://iwj.co.jp/wj/open/archives/127100 )。

志水さんのお話は、映画で中心的テーマとなっていた「アイヒマン裁判」の背景からはじまりました。アイヒマンはナチス親衛隊隊員で、ホロコーストへのユダヤ人移送の最高責任者です。1960年アルゼンチンで逮捕されたアイヒマンはイスラエル(1948年建国、初代首相ベングリオン)へ送られ、エルサレム地裁で裁判にかけられます。

当時、ホロコースト生存者の多くは何も語りたくないと沈黙し、イスラエル社会にも生存者から真剣に話を聞こうとする雰囲気はなかったそうです。このような状況のなか「アイヒマン裁判」は、イスラエルにおけるホロコースト認識に転換をもたらします。裁判の場で、深い沈黙を破って恐怖が語られ、イスラエル人が自分たちをホロコースト犠牲者や生存者と結びつける契機となったのです。

米誌『ニューヨーカー』の特派員として裁判を取材したアーレントは、「アイヒマン裁判」を厳しく批判します。裁判は「ベングリオン首相が演出した、イスラエルを正当化し世界に知らしめるためのショーであり、シオニズムのイデオロギーを語る舞台であった」という批判です。

また、アーレントは彼女が追求してきた「全体主義の悪の根源」=アイヒマンが、凡庸でありふれた男であったことにショックを受けます。「自分の昇進に日々一喜一憂する小心な官史」であるアイヒマンは、「自発的に行ったことはなにもない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ」と繰り返す、野獣にももとる大悪人には程遠い人物だったからです。

アーレントは「アイヒマン裁判」の報告で、ユダヤの同胞から激しい非難を受けます。アーレントが報告で明らかにしたことは、「組織化・管理化が徹底していた「強制収容所」の悪夢のような犯罪の裏に、ユダヤ人組織がナチに協力した事実、またその悲惨な現実を引き起こして責任を問われている当人(アイヒマン)に、自らが負うべき責任の自覚が皆無であるということ、裁判で一体誰が、何を裁くことができるのか、個々人に帰することの出来ない組織の犯罪は、いったいどのようにして、誰が食い止めるのか? ということ」でした(当日配布資料 1994/06/16毎日新聞 志水さんによる記事より)。

アイヒマンの死刑を求める声が多数を占め、人びとがホロコーストについて語りはじめ、ホロコーストに対する賠償金により「イスラエル経済のあらゆる分野が、ドイツからの物資流入で質的な変化を遂げた」(ハワード・サハール)時期であったことを考えれば、アーレントの報告がいかに反発を招くものであったかは想像に難くありません。

アーレントは「動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者」とアイヒマンを見て、「悪の凡庸さ」と名づけます。アイヒマンの罪とは、考えることの停止であったとアーレントは結論づけるのです。

また、アイヒマンの罪は「完全な無思想性」とも表されています。アイヒマンは愚かな人間ではありませんでしたが、自分のしていることが全然わかっていない、想像力の欠如した人間でした。このような平凡な悪人、陳腐な悪の出現は「われわれの時代の特徴的な現象」だとアーレントは述べます。

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この「悪の凡庸さ」を考えるため、志水さんは、リサ・J・ディッシュの「『暗い時代』の友愛について」(『ハンナ・アーレントとフェミニズム』収録)を取りあげられます。1990年代、たくさんのフェミニストによってアーレントの読み直しが行われました(★注1)。ディッシュの論考はそうしたものの一つで、アーレントがレッシング賞を受賞した際の演説を元にした論文「暗い時代の人間性-レッシング考」(『暗い時代の人々』収録)を再考したものです。

レッシング賞の授与とは、ドイツがアーレントを「ドイツのヒューマニズムの知的伝統の後継者」と認めたことを意味します。アーレントは「ヒューマニズム」という言葉が、全体主義の隠蔽の用語と解釈されかねない危険性=欺瞞性をはらんでいることを問題にし、彼女が「ただユダヤ人としてのみ承認されていた」ナチス時代を「カーペットの下」に押し込むものだと疑義を投げかけます。

「人は攻撃されているそのアイデンティティによってのみ、抵抗することができる」というアーレントのスピーチは、レッシング賞を与えるドイツ側と、ユダヤ人である自分との間に一線を引くパフォーマンスでした。

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ナチスという「暗い時代の人間性」の課題とは、「用心深い加担 vigilant partisanship」の実践によって「或る関心 Inter-est」を構築することだとアーレントはいいます。ディッシュはアーレントが受賞した場こそが「用心深い加担」の実践であったと論じます。「授与側がアーレントを祖国に呼び戻し、レッシングの後継者と位置づけることで、ドイツ啓蒙的ヒューマニズムと同一視することを望んだ」のに対し、アーレントは自らに与えられたアイデンティティにおいて抵抗することによって、受賞を拒否することなく、聴衆を困惑させ、アーレントと彼らが決して同じ立場にないことへの「関心」を授与側・聴衆と共有しようとしたのです。

メルロ=ポンティは「真の自由は、他者をあるがままに捉え、自由を否定する教説さえも理解しようと努める。そしてそれは理解する前に判定するようなことを決して自らに許しはしない」と語っています。大量虐殺経験と折り合いをつけようとするアーレントの努力、すなわち「アイヒマン裁判」の報告において、「人間の尊厳の意味を判断作用の能力と結びつけた」ことは、メルロ=ポンティの言葉と同様の意味を持つものです。

アーレントは「アイヒマン裁判」の報告を書いたことによって、同胞や友人と決別してしまいます。その一人に宛てた手紙にはこうあります。「判断力は出来事の意味を我々が汲み取るのを助け、人間的英知的なものとするのに役立つが、この判断力なしには出来事はそうはならないのである。判断力の能力は人間的英知性に役立ち……また、英知性を付与することが政治の意味なのである」。

私たちは「理解」する前に「あちら側/こちら側」という判定をしてしまいがちです。しかし、アイヒマンにみたように思考停止は悪を生みます。考え抜くことで人間は強くなると、アーレントは語っています。

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★注1:「ハイデガーの哲学が、西欧を中心にした20世紀を代表する哲学であるとすれば……アーレントはユダヤ人女性として激動の時代に故国ドイツを追われて難民生活を体験したことに原点をおく。思考の中心に対して周縁に位置するこのような立場からの知の組み替え、発想の転換を求めることにおいて……彼女の視点はまた、これまでの家父長的な権威主義の見直しをラジカルに提起するフェミニズムの視点とも重なるのである。」(当日配布資料 1994/06/16毎日新聞 志水さんによる記事より)

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志水さんのお話は上記のものに、ご自身の個人史が挟まれていました。志水さんの来し方、身近なお話から哲学・政治思想への繋がりは、哲学や政治という問題が、私たちが生きる日々と地続きであることを教えてくれるものでした。志水さんが、アーレントの「世界への愛」という概念と「慰安婦」問題を繋げてきたことを、ご存知の方も多いと思います(★注2)。

会場での質問も、アーレントの言葉と身近な問題を繋げたものがたくさんありました。会場からの「若い学生さんには、戦争をどう考えてよいか分かっていない層がある」という問いに、志水さんは「いかに一方的な教育が人間の自由な判断を失わせてしまうか」と、「教育の重要性」を強調しておられました。

「原則、規則だから従うべきという人が増えているのでは?」という問いに対しては、アーレントのファシズム批判は、同時に大衆社会批判であったこと。今「この現状に危機感が見られないことに危機感を持たなければならないのではないか」とおっしゃっていました。

「アーレントの論じる「支配しない知」は、状況を作ることはできるが、この力をどのように発揮できるのか? 制度化・組織化に頼らざるをえないものがあるのではないか?」という質問に対し、「用心深い加担」「注視する必要」の重要性を指摘されていました。

アンケートでは、「用心深い加担――私は行政職員として、ともすれば「アイヒマンだらけ」になりがちな職場である意味“為政者の手先”でもあるのですが、自分で判断する、注視する、人としての判断を放棄しない、そういうあり方につとめたいし、まわりにも促していきたいと思います」という言葉や、「今の混とんとした時代に正にマッチしたテーマだと思いました。考えて、あきらめず、自分で判断し行動する事を力づけられました」という意見が寄せられていました。

質疑応答で、志水さんが「私たちは内的亡命をしてはならず、常に自分で問うていかねばならない」「無思想性と戦わねばならない」とアーレントのメッセージに深く同意しながらも、今、若い人が置かれている過酷な状況に思いを寄せていらっしゃることも印象的でした。

私は、「或る関心 Inter-est」のお話が出た時、映画の中の「私は国を愛さない」というアーレントの台詞を思い出しました。ユダヤ人として生まれたことは所与のものですが、国に対するナショナル・アイデンティティと、同胞や家族を愛することの差異は、フェミニストとして共感でき、また、「国」をあげた物言いが跋扈する現在、私たちにもかかる問題だと感じました。会場からも、日本人と日本人ではない人の「仲良い中にある敵対線」というお話が出ていました。

当日、辻元清美さんから寄せられたメッセージには、「『難しいことは、分からない』と他者からの指示や命令に従う習慣が広まるなかで、『おかしい』ことを『おかしい』と感じなくさせられてしまう現実。……『おかしい』ことを『おかしい』と思える人たちを増やせる活動が発展していきますよう願っています」とありました。

今回のお話では、今の状況に立ち向かうのに欠かせない「考える」ことについて、たくさんのヒントをいただきました。アーレントの本は理解するのが難しいのですが、少しずつ読み進められれば、と思っています。

主催:フォーラム 労働・社会政策・ジェンダー

問い合わせ先: tnforum2013renraku@gmail.com

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★注2:「アーレントはユダヤ系ドイツ人として第三帝国時代に強制収容所の過酷な人間性剥奪の実態を自ら体験しつつ、それでも人々が生活の全領域を一貫して否認する全体主義を経験したあと、自由を政治から分離しようとする方向に傾斜していた第二次大戦後の社会の傾向に逆らって、あえて自由を政治へと結びつけようとした。このアーレントの尋常ではない「世界愛 Amor Mundi」をベースにしながら、今日の難問のひとつである「慰安婦問題」解決の道筋を探って見たいというのが私の考えであった。」(当日配布資料 「<3.10「慰安婦」問題の真の解決に向けて>のシンポジウムの報告」(高槻ジェンダー研究ネットワーク通信48号所収)より抜粋)

イベントチラシ  http://wan.or.jp/wan/web/uploads/pdf/151_95257290c94770ea1a3bf57a59cd2e0b520251.pdf

『ハンナ・アーレント』を見る前に 岡野八代   http://wan.or.jp/reading/?p=12751

「ハンナ・アーレント」映画評 河野喜代美   http://wan.or.jp/reading/?p=12293

「慰安婦」問題 その③:シンポ開催しました 岡野八代 http://wan.or.jp/reading/?p=6406 (2012/03/10開催「「慰安婦」問題解決にむけて」シンポジウム)








カテゴリー:フォーラム労働・社会政策・ジェンダー

タグ:アーレント / 講演会