2014.09.11 Thu
制度の中の公私とジェンダー
――5/30講演会「厚生労働省の『自助・共助・公助』の特異な新解釈を批判する~選別型から皆保障型社会保障をめざして~」および7/26フェミニズム経済学会大会シンポジウム「フェミニズム運動と反貧困運動」に参加して--
荒木菜穂
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個人が生活する上で満たされるべきニーズ、受けられるべきケア。その構成員のそれらを保障するのは社会の責任であるはずなのに、日本では健康で安全な生活においても、子育て、介護においても、すべて個人まかせ、家庭まかせにされっぱなしになっている。漠然としたそんなイメージはもともと持っていましたが、では、日本の社会保障って具体的にはどこまで「○○まかせ」?と言われると、一応、社会保障や社会政策がキレイゴトな言葉とともに語られているせいか、なんとなく踏み込んで考えたことがなかったなあと思います。
また、生存のためのケアや責任が家庭や個人といった私的領域における問題と位置付けられてしまうことは、そうすると、いまなお残るジェンダーによる固定的な役割分担では、私的領域での役割を割り当てられた女性に大きく関わる問題なのではないか。男も女も、自由に働いたり育児したり、みたいな社会のタテマエの裏で、そのあたり、実は結構深刻なことになってくるんじゃないの?
そんな疑問もあるわたしたちの、社会保障、公私の問題を、開催からかなり時間が経ってはしまいましたが、講演会「厚生労働省の『自助・共助・公助』の特異な新解釈を批判する~選別型から皆保障型社会保障をめざして~」の報告を軸に、勉強し、考えてみたいと思います。
里見賢治先生による本講演では、日本の公式な文書などに自助・共助・公助の前段階である言葉、自助・互助が使用され始めた時期をスタートに、これらの言葉の使用や新解釈、経緯についての議論が展開されました。
まず、1970年代に高まった福祉見直しの議論に棹を差す形で、1980年代、自己責任原則である自助、住民の助け合いの互助という概念が強調されはじめた。1990年代になり、自助・共助・公助という言葉が使用され始めたが、80年代からこの時点までの公助は、公的福祉すなわち社会保障全般を意味していた。2006年の、社会保障の在り方に関する懇談会「今後の社会保障の在り方について」において、この言葉は転換期を迎える。ここでは、生活のリスクを相互に分散するという意味で共助に社会保険が想定され、それでは公助のほうはというと、公的扶助・社会福祉といった救貧的制度がここでは意味される。
実際、日本の社会保障の大部分は社会保険であるのに、これを国家が責任を持つ公助とせず、共助と位置付けるのが厚生労働省の新解釈であるということである。公助には困窮を条件とした救貧的制度だけでなく、社会福祉も含まれており、たとえば本来障害者福祉は普遍的なものとして運営されるようになったはずであるのに、条件的、選別的な制度と位置付け、その条件も厳格化していくという、厚生労働行政の自己否定がここで起こっているともいえる。これらの定義は、2008年の厚生労働白書など、現在に至るまでの文書や会議、報告書においても採用されている。これは、社会保障に関して、日本の厚生労働省は特異な定義をしている、すなわち社会保障の定義そのものを変えようとしているという意味で問題である。
では、なぜ自助以外の部分が公助と共助に分割されたのか。2006年の「今後の~」報告書では、この時期進行中だったいわゆる小泉型改革と連動する形で、社会保障も、その重要性がより薄められる形で定義が変更される。公助、という言葉は本来は公的責任を意味するが、そこから、日本の社会保障の大部分を占める社会保険を外し、助け合いの意味の共助とすることで、その責任が薄められる。
現在、社会保障のプログラム法案と呼ばれる法案が国会を通過しているが、来年度以降それに基づき、社会保障のあり方がどのようになっていくのかに注目していく必要がある。
社会保険は、保険料を支払う見返りに年金や医療サービスを受けられるというしくみであり、税金をベースとしたサービスよりはたしかに共助の色合いが強い。しかし、強制加入であり、国会によって制度化されている以上、単なる助け合いではなく本来公助に入れるべき制度でありよって、社会保険を共助とする定義は国際的には通用しない破たんした定義である。 また、公助とされる社会福祉においても、社会福祉そのものにも、福祉につきまとうスティグマをいかに取り除くかという問題と格闘してきた歴史がある。それはすなわち、社会福祉を、すべての人に関係する普遍的な制度にすることに関する議論であり、これらを全く無視したものが、社会福祉をより限定的なものとする日本の定義であることとなる。
それでは、普遍的な社会保障制度とは、と考えた場合、日本では特に限定的、選別主義的でスティグマも生まれやすい公的扶助とは異なり、社会保険制度は普遍的制度と考えている研究者も多い。しかし、実際には社会保険もまた選別主義的である。 なぜなら、まず、社会保険は、保険原理と社会原理で構成されている。保険原理は保険料の拠出を条件に給付が行われる。と、いうことは「負担無き給付」にたいして排除原理を持つ、冷たい側面があるということである。そういった排除の問題は、例えば強制加入や保険料の減免制度などの社会政策的配慮から、社会原理に基づき、部分的に修正される。とはいえ、やはり保険原理が優位であり、20歳を過ぎ年金保険料を納めない場合、その後障がい者となった場合に障害年金が給付されないなど、選別主義は残る。資産が足りない人を選別の基準とする公的扶助とは反対の向きの選別であり、本当の意味で救済が必要な人を切り捨てる側面がある。
社会保障制度の望ましい姿としては普遍主義であるが、現実にはそうはなっていない。しかし、社会保障制度の普遍主義を考えるとしても、個別の制度で見た場合、普遍主義がふさわしい制度とふさわしくない制度に分けて考える必要がある。
普遍主義がふさわしい社会保障制度とは、選別ではない形の現物給付サービス、定額給付、基礎年金などであり、これらは普遍主義型公費負担方式、すなわち税方式で対応する。ふさわしくない制度とは、困窮を条件とする制度や所得比例型の給付であり、これらは選別型公費負担方式と社会保険方式で対応する。これらを基本とし、今後の日本社会に必要な社会保障の具体的なプランやビジョンを持たなければならない。そして、社会保障に関する特異な解釈を研究者はきちんと批判し続けなければならない。
以上の里見先生のお話を受け、社会保障の公的責任および生活者の立場からの社会保障への視点などについて、会場では様々な意見が交換されました。「高齢社会をよくする会 大阪」の吉年さんからは、生活援助が介護保険から切り離されることに関する調査結果を、大阪での公聴会に届け、介護保険で生活援助を行うことがいかに重要か、地域格差が生まれるのではなどについて意見を出されたことに関するコメントいただきました。これらの訴えにたいし、与野党からの質問はプロの介護とボランティアの介護がどう違うのかなどに終始し、介護保険や社会保障の根幹を揺るがす問題だとは認識されていなかった。すなわち、社会保障を薄める事態が現実にはどんどん起こっている、ということでした。
また、コメンテーターの北明美さんからは、まず里見先生のお話にたいするご感想として、社会保障の基礎概念から解き起こす大きな問題提示であるということが述べられました。加えて社会保障について基本的なところから勉強したい、と思う方に向けて、配布資料の参考文献中でも『改訂新版 現代社会保障論』、『賃金と社会保障』(2014)「厚生労働省『自助・共助・公助』の特異な新解釈と社会保障の再定義」をお奨めされました。 北さんは、里見先生のご論稿の中から、以下のことを指摘されました。それは、「特異な新解釈」の中で社会保険が共助とされる中、従来、共助に含まれるはずであった家族や地域社会などでの営みが共助から抜け落ちる点であり、そこから、日本社会において家族内や地域で行われていた育児や介護などのアンペイドワークが、1970年代終わりから1980年半ばごろには家庭の責任として自助として不可視化された後、1980年代半ばから2000年代まではやはり地域の助け合いが必要だとして共助に含まれ、2000年以降「新解釈」のもと社会における共助は社会保険を意味する中で再度アンペイドワークが不可視化される、2009年ごろからは共助ではなく互助として地域社会のつながりが再評価されるが、そこでもアンペイドワークが不可視化される流れが示されました。
女性が担ってきたアンペイドワークは、家庭内の自助として、地域社会で担うという美名のもとで、そこで誰が何を担ってきたのかも評価されず不可視化される流れになっていたということだと理解し聞かせていただきました。すなわち、ここでは、公助と共助の問題には、公的責任から切り離され共助と分類される制度や取組の中には、ジェンダーを含むアンペイドワークも問題が多く存在することについて、議論する必要があることが強調され、公的責任であった子育てや介護は、地域社会の復活、地域の助け合いといった名の下、結局はそれまで家庭内でアンペイドワークを担っていた女性たちに押し付けられ不可視化される、それは、アンペイドワークの揺らぎとも捉えられるということです。この問題については会場からも、アンペイドワークは家庭から地域社会に移動し放り出されたのではないか、そこでのジェンダーの問題をこれからもっと考えていかないといけないという意見も、またアンケートにも、「女性を労働力(安価な)として引っ張りだそうとする一方で、介護を担わせようとしている政府の姿勢に怒りをおぼえた」という声が寄せられました。
この5月のフォーラムにおいて里見先生、北先生他からご提示いただいた、社会保障がどのように担われるべきかという問題は、公私の領域といった概念を経る以上、必ずジェンダーの問題とつなげて考える必要がある。しかし、それはどのよう考えいけばよいのかは課題だと感じました。人が幸福に生活し、生きていくための社会保障制度の内容が公的責任の側面を薄められ、社会構成員の自主的な助け合いや自己責任といった方向に分散される傾向の中で、まず共助、助け合いという作業が主に私的領域で行われることになるとするならば、結局はその責任は、それまで私的領域の役割を押し付けられてきた女性に向かわざるを得ないのではないか。
私的領域での固定化されたジェンダー役割の持つアンペイドワークとしての側面は、金銭で評価されることではない素晴らしい役割や幸せといった言葉で正当化されてきた一方、フェミニズムや女性労働研究の観点からはその偏りをずっと批判されてきました。家庭ではなく地域社会が生活に関する様々なことを担い助けあう、ということは、こういった偏りを解消する意味があるのではと、私自身は甘く考えていたところがあります。役割の固定化が自由な経済活動を阻害していること、同一価値労働同一賃金がないがしろにされることからくる女性の低賃金の問題、経済活動を十分担えないゆえに資本主義経済社会における女性の地位が相対的に低くなる問題に加え、より具体的に、個人の生き方を狭める深刻な問題として、公私が不自然な形で構成されているという事実を考えていく必要のある時代となってきたと考えられるかもしれません。
その後、7月26日に開催されたフェミニスト経済学会大会シンポジウムを聴かせていただく機会がありました。「フェミニズム運動と反貧困運動」をテーマに、女性、子どもの貧困の背景にある家父長制的家族主義、ジェンダー役割、女性が自立し稼げない構造を持つ社会についての議論がなされていたのですが、この5月の講演会で感じた公私とジェンダーの問題と関係する部分が多いように感じました。
女性の貧困の問題を解決するには、社会構造への働きかけが重要であり、現在の構造を維持する制度を改革していかなければならない。それは、言い換えれば、公的責任への訴えかけの必要であるともいえます。シンポジウムおよびディスカッションでは、実際に制度決定の場における様々な力関係に切り込んでいくことがいかに困難なことであるか、制度の変革を進めるためには、ある程度現存の構造に寄る形での運動を行っていく必要があり、構造の変革と矛盾することもありうること、男性中心の政策決定の場では女性の視点での貧困の問題などへの想像力がなかなか持たれないことなどの、現実的な困難に関する論点が多数挙げられていました。
公助としての社会保障の公的責任を問うこと、公的責任が薄められ、共助に流されがちな私的領域の責任をジェンダー役割の偏りとともに問うこと、しかし、公的責任を本質的に問うていくことは、公的席の意思決定の場に切り込む必要があり、そこでもまた公私の領域はそもそも独特なパワーバランスやジェンダーバイアスが強く存在していることにぶちあたるということ。これらの具体的な困難について、我々は今後、それぞれの生活の問題の延長線上に考えていく必要があると感じました。
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