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映画『MILK』は絶対観てほしい! 木下衆

2009.07.29 Wed

 5月17日、小さな劇場でこの作品を観た。観客の数は多くはなかった。しかし不思議な感覚である。この作品の主人公が最後には死んでしまうことを、この場にいるすべての観客が知っている!にもかかわらず、人々が劇場に集い、涙し、そしてエンドクレジットが終わるまで誰一人立ち上がらなかった。僕はこの映画から、大きな希望を得た。そして自信を持っていえることだが、あの場にいたすべての観客が、この映画から希望を得たはずである。 この作品は、実際に起きた一級の悲劇を扱った映画であり、一級のエンターテインメントであり、そして何より、一級の希望を描いている。それは、民主主義の希望である。つまり、言葉の希望である。そして、人同士がつながれる/分かり合えるという希望である。とどのつまり、一人の人間が、ただ生きているということを肯定されることの希望である。

 あらすじを紹介しておこう。1977年、サンフランシスコ。ハーヴィー・ミルクという人物が、市制執行委員に当選する。彼の当選が話題となったのは、彼が「自分は同性愛者(ゲイ)だ」と公言して選挙に勝った、米国史上はじめての公職者だったからだ。
 彼の当選を祝う人の中には、同性愛者もいれば、(異性愛者の)高齢者もいれば、(異性愛者の)労働者たちもいた。72年、NYからこの街に移り住んできた彼は、地域で暮らす弱者の代表として、まさに人々の希望となっていた。

 しかし4度の選挙戦を戦う中で、彼は多くを失っていた。同性愛者として憎悪の目を向けられてきた彼は、選挙に立つことで脅迫にさらされ、安全な生活を完全に失った。そして生活を共にしてきた恋人は、ミルクが政治に邁進する中で、孤独を抱えて自殺した。さらにミルク自身、就任から1年もたたない内に、同僚議員によって射殺されることになる。それも、彼が目指してきた議会の中で。

 愛する人を失い、そして自らの命まで失ったミルクが残した希望とは何だったのか?そして、それはどの様な形で残されたのか?

 「この作品を観なければならない」と思ったのは、『ニュースの深層』という番組でのおすぎさんの『MILK』評を拝見してからだった(09.5.7、CS朝日ニュースターで放送)。

 実話を基にしているといっても、これは映画であって、実話ではない。結局のところ、この作品は解釈でしかない。では、ミルクの一生に対するこの作品の解釈とは何か?おすぎさんは、それを「希望」と表現した。それは、弱者が声をあげることの希望、普通に生活している人の中から代表を選べることの希望、民主主義の希望…。
 
 声をあげるのは、自らの利益を達成するためだけではない。声をあげることで、「弱者」たちが連携していくためだ。おすぎさんは、こう強調する。「ハーヴィーの場合は、もちろん自分たちが快適に生活できることを望んだけど、それは自分だけじゃなくて、『自分たち』っていう、その『たち』の多さね。」

 だからこそ、おすぎさんは、「これはゲイの映画ではない」と、繰り返すのだ。「(『MILK』は)色んなことを見せながらも、ゲイっていうものが背負っているのは、特別なものじゃなくって、人間が生きるっていうのは全て同じだっていう、その権利を、どうやってオープンにしながら訴えていけるかっていうのが、この映画の問題だったわけよ。」

 それにしても、弱者とは誰か?それは『MILK』本編の中でも、あるいはおすぎさんの批評の中でも、一貫して定義されている。すなわち、「自分は困っている!」と声をあげた人々である。

 僕が生活している。その生活の中で困ったことが出てくる。そのとき、「自分は困っている!」と声をあげる。そのことによって、自分は困っているのだと、そして困難は解決されるべきなのだと認めさせる。僕が困っていることが肯定される、すなわち、僕が生きていることが肯定される。そうやって、一人一人の生活が肯定されること、一人一人の存在が肯定されること、それが希望である。

 最近見たパレスチナのドキュメンタリーで、ある少女の言葉が印象に残っている。彼女はこの言葉を、学校の先生から聞いたという。

「恐れを知っているものだけが、本当の意味で立ち向かえる。」

 暴力にさらされる、迫害される恐れを知っているからこそ、その矛盾に立ち向かうと、彼女は言っているのだ。彼女はテロリズムに走ろうというのではない。学び、報道し、あるいは選挙に立とうというのだ。それはすべて、民主主義という制度の希望である。

 パレスチナの地で、恒常的に暴力にさらされた少女の言葉は重い。しかし忘れてはならない。この日本でも、ほんとうに多くの人が恐れを知っているのだ。それは障害であり、年齢であり、性であり、国籍であり、労働条件である。自分たちが生活の中で恐れを感じているのなら、そこで初めてその矛盾に立ち向かうことが可能になる。それこそがまさに、『MILK』のメッセージだろうか。

 それは、大学でジェンダーを学ぶことにも関わると思っている。われわれは、男か女に振り分けられる。男に振り分けられた人もいれば、女に振り分けられた人もいる。そこからトランスした人もいれば、あるいはしなかった人もいる。いずれにせよ、私たちはみな、性への恐れを感じうる立場にある。

 そこで誰かが「困った」と思ったとき、つまり性への恐れを感じたときに、「私は困っています」と声をあげる手助けをするのが、「ジェンダー研究」の役目なのだろう。

 あなたが困っているものが、己の性であれ、国籍であれ、年齢であれ、障害であれ、労働条件であれ、何であったってかまわない。あなたが困っていることにこそ、あなたの生きている証が、希望がある。――『MILK』はそう語りかけるようである。

(大阪市立大学、人権教育科目『ジェンダーと現代社会Ⅰ』補助教材、「Gender Paper」No.4 [2009.5.29発行] より、一部改変の上、再掲)

(きのしたしゅう 京都大学大学院・院生)

タグ:映画 / 同性愛 / ゲイ / 木下衆