2010.09.06 Mon
前回の富山さんに乗じて告白しますが、私も下ネタは大好きです。中でも好物はエロネタ、とりわけ腐女子的ネタをこよなく愛しております。『となりの801ちゃん』が大ヒットし、腐女子関連の書籍が書店に続々と並ぶ昨今、このネタもそれなりの人気と知名度を獲得したと言えるでしょう。が、やはりウンコネタ程の万国共通性と平和は約束されておらず、大方の男子諸君にとって居心地の悪いネタであることは認めざるを得ません。しかし「腐男子」「腐兄」というカテゴリーが存在する以上、勿論そればかりとは言えないでしょう。学部生だった頃、私たちの腐トークにつき合ってくれる男子も大勢いましたし。それも単なるおつき合いではなく、「絶対A×Bだ」という男同士だからこそ知り得る極秘情報?の提供まで怠らないアグレッシブ振り。彼らは一体何を考えていたのか(お前が言うなよ)。女子の気を引きたかったのか、或は完全なる他人事として面白がっていただけなのか(多分それだな)。
かつての「ダサくてブスで男にモテない処女」という偏見は薄れてきたとは言え、メディアにおける腐女子表象は、いまだに性的な問題や異性との関係性の有無を引き合いに出したがります。またやおい/BL研究の多くも腐女子を特殊な存在と位置づけ、彼女たちの行為をジェンダーやセクシュアリティの観点から論じたがる傾向が根強い。私もそのクチなわけで、まあ一面としては事実だと思いますが、やはりそれだけでは割り切れない部分もたくさんあるわけです。
例えば今回挙げた『妄想乙女通信』シリーズ。これは腐女子の、腐女子による、腐女子のための妄想ワールドを漫画で描いたアンソロジーですが、読んでみるとメディアの悪意に満ちた言説などどこ吹く風といった感がいたします。
クラスの同級生や先生、バイト先の仲間、街中や駅ですれ違うだけの他人、政治やスポーツの世界、果てはDVDレコーダーといった無機物や自然現象まで、腐女子の手にかかれば全て脳内妄想BL変換。食事中に白米とおかずの関係を妄想し、「どうなの!?日本料理ってどうなのこれ!?日本の未来は大丈夫なの!?」とヒートアップすれば、すかさず「おまえの脳内が大丈夫なの!?」と冷静なツッコミが入る絶妙なコミュニケーション。「私たちって腐ってる」と自嘲しつつ、彼女たちの心は日々の新しい出会いと発見に生き生きと輝いている。
皆様はここに何を見るでしょうか。現実と幻想の区別がついていない?確かにそうかもしれません。が、現実というものは極論を言ってしまえば各々の身勝手な幻想によって成立しているのですから、「何を今更」という気もいたします。男性を玩具にした「お人形遊び」という見方もあれば、「ジェンダーの娯楽化」という見方もあります。どれも然り。しかし私はそれらも全部ひっくるめた「恋愛の遊戯化」という見方を提案したいと思います。
谷本奈穂さんの『恋愛の社会学』は、雑誌記事やアンケート調査を基に現代の恋愛事情を読み解いた本です。著者は結論として、あくまで社会的物語上ではですが、「現代では、何も生み出さないゼイタクな恋愛像が言説のなかに浮かび上がってくる」と述べます。
この「ゼイタクな恋愛」とはロマンティック・ラブ・イデオロギーから排除された恋愛の非生産的な部分、つまり結婚という社会制度の枠外にある「遊びとしての恋愛」です。バタイユ流に言えば「エロチシズム」。実際、『妄想乙女通信』の百花繚乱な妄想ワールドは、さすがに死にまでいたらなくとも、「生の高揚」という表現が最もしっくりくるような凄味すら漂っております。
合理性や生産性を第一とする資本主義社会は、とかく非合理的・非生産的なことを嫌います。本田透の言う「恋愛資本主義社会」では、確かに腐女子の妄想は「非合理的」で「非生産的」以外の何物でもありません。しかし私たちは合理性や生産性だけで生きていけるでしょうか?いいえ、出来ません(断言)。どんな人間でも遊びの精神なくして生きていくことなど不可能です(再び断言)。腐女子はそれをよく理解しているからこそ、日々妄想という「ゼイタクな恋愛」を満喫しているのでしょう。
ウンコネタと同様、腐女子的ネタにも日常生活をカラフルにする可能性が満ち満ちています。様々な問題があることと思いますが、「理解出来ない」と頭から突き放すのではなく、とりあえずこれを読んだ皆様には一度身近な題材で脳内妄想BL変換を試してみることをお勧めします。手始めに政治家同士なんていかがでしょう?そうすれば何かと不愉快な政局もあっという間に楽しくなっちゃいますから。