シネマラウンジ

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8月のシネエッセイ① 「母と娘の物語」 川口恵子

2013.08.17 Sat

手術後の母は生きようという意志に満ちていた。「悪いものを全部とってくれたよ」。術後、お世話になった医師の説明を受けた後、麻酔のさめやらぬ母に声をかけると「全部とったん?」と安心し、翌朝病室に戻ってからは自力歩行に意欲をみせた。

午後、眠り始めた後も、旧知のリハビリ担当の先生の元気な声に反応。「今日は疲れたのですみません。明日またよろしくお願いします」と自ら意思を伝えた。

午後遅く、眠っていた母は突然目を開き、両手でベッドの柵をつかむと上半身を起こし渾身の力で端ににじり寄り、横に向きを変え椅子に座った。それから2度も立ち上がったのだ。

医学的には「せん妄」といわれる状態だったらしい。が、私は、生きることへの強靭な意志の表れと信じる。

入院中、母は一度も弱音を吐かなかった。唯一、述語、信頼する医師からよく響く太い声で「白石さん、いかがですか」と問われた時のみ、起き上がらんばかりの勢いで「辛いんです」と訴えた。本当に長い間頼るべき人をもたなかった母の生涯をその時感じた。

「かわいそうなお母さん」をいつか私が働いて幸せにする――それが私のフェミニズムの原点だった。しかし、術前術後の果敢な姿を思い返すにつけ、それがいかに幼く、一方的な思い込みだったか、反省させられる。そして、実際、母は「かわいそう」などではまったくなかったのだった。そのことは、母自身ある時、ふと、口にしたことだったが――「お母さん、かわいそうなんかじゃないのよ」――そのことの意味を深く問うことはなく過ごしてきた。その意味で、私はずっと小さい子供の視線のままで母を見ていたのだと、死後数年たち、遺品から父方の祖父の死に伴う遺産分割協議書と伯父が母にいつの日か母に渡した手帖を見つけ、ひとつひとつ事実確認しながら、痛感した。子どもの目に映る〈母〉像の修正を、どこかでし忘れてきたのだ。

「お母さん、ぜんぜんかわいそうなんかじゃなかったよ。にぎやかなところにお嫁にきてね」。母の死の翌年亡くなった本家の伯父の葬儀に集まった伯母から、そう言われたことも、あらためて今、思い返している。大家族の中で一人、若い嫁として忙しく立ち働く母をずっと気の毒に思っていたのだが。結婚によって早くに実家を出た伯母から見た〈次兄の嫁〉としての私の母と、私から見た母とは、違って当然なのだが。

ともあれ、古いアルバムに残された一枚の家族写真が、今では心の支えになりつつある。今は取り壊された「はなれ」で写された写真は、祖父母、父の兄弟姉妹(東京の大学に通っていた三男だけ写っていない)、本家の嫁となった伯父の妻(母の名が田鶴子で、この兄嫁の名は千鶴子だった)、伯母の一人の夫、父が子どもの頃よく面倒をみてもらい晩年まで「伴おばさん」と呼び慕い良き囲碁の相手でもあった大伯母(離縁して嫁ぎ先から戻ってきた彼女の嫁入り道具の塗の4段重が、今ではめぐりめぐって私の手元にある)がいるほか、小学校教員だった母方の祖母まで珍しく和服姿で来ていることから、両親の結婚式の後にでも写されたのかもしれない。あるいはお盆の集まりか。ジューン・ブライドだったと入院中の母からは聞かされた。それで昔の古い写真を集め「思い出の記」としてアルバムにまとめ、プレゼントした中の一葉だ。皆、夏服姿で実に幸せそうに笑っている。

 

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「母と娘の関係」は私の生涯のテーマであり、英米仏の女性作家の文学・映画作品分析を通して真摯に向き合ってきたつもりだった。特にマルグリット・デュラスの作品については、デュラス自身の母親との葛藤、愛憎関係といった観点から分析し、これを書き上げるまでは死にきれないと博士論文に仕上げ、本として出版もした。その過程において、いつしか書くこと自体が自己目的化し、書き続ける原動力であった現実の母と自分との関係からは目をそむける結果となっていった。それが、老いゆく母の現実を見落とすことにつながったのではないか――ならば何のための研究であったのか。

「博士論文を書いて母を幸せにする」――父の27回忌の法要で数年ぶりに母と再会したあと、しまなみ海道を渡って立ち寄った尾道のある寺で、祈願までたてたというのに。博士論文を書けたら、本を仕上げたら、非常勤職ではない正規のポストが大学で得られるかもしれない。そんな思いが自分を駆り立て続けてきた。母はそんなことを望んでいたのではなかったろうに。

「あんたと私の思いは違うんじゃ」

病院からある時かけてきた電話で、不意に放たれた言葉が忘れられない。何がどう違うのか、差異を確認しつつ気持ちを通じ合わせる時がもっと欲しかった。

母の住まいにはこの10年一人暮らしの間につけた家計簿が残されている。日々の思いも記されている。先に読んだ娘は、葬儀のあと帰京し、今朝、夢の中でおばあちゃんと抱き合って泣いたと電話をかけてきた。昨夜は私も白木の箱を抱いて泣いた。

以上は昨年7月、母の死後2週間足らずで書き、その後、書き足したものだが、2013年の今、一年たって、私はまだこの母の残した記録を読むことはできないでいる。「読んだ?」時に娘が問いかけてくる。私の罪悪感を知っている娘は、時折私をそのことでからかう。そのからかい方は絶妙のさじ加減で私をディープに沈み込む寸前で救う。その言葉にフリーズし、倒れる演技を娘の前であえてすることで、実際の崩壊から自身を救っているのだ。

この私との母娘関係もまたいつか娘にとっては負担となるだろう。「お母さんを幸せにしたい」と思い続けてきた私がいつしか「母の不幸は背負えない」と思うことで「自分らしく」生きられるようになったように、この娘もいつか私から離れなくてはいけないのだ。(ああでもその「自分らしく」とは一体、何だったのだろう)

「共依存でいいじゃない、何が悪いの!支えあっていこうよ」けなげに豪語する姉御肌の娘の言葉に甘えている自分を限りなく情けなく思いながらも、フェミニズムの原点を失い、進むべき道を見失っている私がいる。

母と娘の物語はこの先、どこまで繰り越されていくのだろう。

2012年7月24日愛媛新聞「四季録」掲載記事「フェミニズムの原点」を改題。転載にあたり、加筆修正したことをお断りする。

転載番号G20121201・01034

11フェミニズムの原点








カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 映画を語る

タグ:非婚・結婚・離婚 / くらし・生活 / フェミニズム / 家父長制 / 母と娘 / 川口恵子 / シネエッセイ / 家事(育児)労働 / 女と映画