2012.07.28 Sat
2012/7/23 第9回上野ゼミ書評セッション@東京YWCA武蔵野センター
『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』
(新雅史 光文社新書)
コメント
コメンテーター:角 能(日本大学 人文科学研究所)
本書は商店街という存在を単にその変遷を記述するだけでなく、行政・政党(自民党)や大手資本(流通資本)、消費者組合とのポリティックスという国内政治の観点や産業構造の変化や雇用形態の変化、経済状況の変化という経済的視点、さらには80年代の日米関係とそれを踏まえた公共事業拡充による商店街の衰退という国際政治の観点、そして商店街の構成員としての近代家族とそのことによる後継者不足と衰退という社会学的視点を踏まえ、非常に包括的かつユニークな視座から分析した著作である。特に商店街が「近代の発明」であり、その「近代」の過程に様々な鬩ぎ合い、ポリティックスが存在し、それらが相互にどのように結びついたのかまで体系的に考察した点で非常に示唆に富む。また商店街考察を通じて、新自由主義や政官財の癒着、土建国家に対抗する意味で一貫して学術的、社会的に重視されてきた「個人単位の社会給付」という視点の限界を暴き「地域単位の規制」の重要性を提起した点も現代社会に対して大きな意味を持つ。
評者が特に政治的観点から有意味であると考えるのは、地縁的な既得権益に囚われない形での「地域単位の規制」という発想である。本書はこのような状態を理念型として商店街の変遷の実状の意義及び限界を描き出してきた。このような観点は地域におけるつながりを重視しつつ同時に異質性の排除という副作用を回避していく、「出入りの自由なつながり」を形成していく上でも極めて重要な政策手段である。
しかしながら従来の社会理論は「出入りの自由なつながり、異質性排除の回避」の重要性を提起しつつも具体的な政策手段となると沈黙する傾向が強く見られた。さらに現代日本では「上からの市場化を推進する政治勢力」と「当事者の権利を現場から提起する政治勢力」が(目ざす社会像が全く異なるにも関わらず)反官僚、反既得権益、さらには反男性稼ぎ手モデルで共振してしまっている。そしてこのような共振は小さな政府への支持、特に後者の「当事者の権利、つながりを重視する政治勢力」までもが小さな政府を支持する流れを80年代~2000年代前半期にかけて作り出した。2000年代半ばの小泉政権末期になってようやくこのような小さな政府が格差や貧困をもたらすことが社会的認識として定着するようになった。また同時に旧来型の政官財の癒着、既得権益も政府によって人為的に格差が作り出されてきたものとして引き続き批判の対象とされた。しかしながらそこで小さな政府と旧来型の政官財の癒着双方への対抗策として持ちだされたのは「利用者のニーズに応え既得権益を解体するために規制は緩和しつつ、格差を縮小するために給付は拡大する」という「個人単位での社会給付政策の拡大」であった。だが、ここでも規制=既得権益・悪という図式に囚われ「既得権益とは異なった形での、人々のつながり」ということへの着眼点は弱く、少なくともそれに対応した政策手段は用意されていない。そしてその後の米国初の世界同時不況以降の長引く政治経済社会の停滞の中で、再び雇用創出の手段として、「地域単位の給付政策」である「公共事業」が重視されている状況である。
この点で規制という手段による雇用の創出を通じた生産者としての相互のつながり、さらには(移動手段の困難な)消費者としての相互のつながりという理念型から、双方の可能性およびそこに潜む限界を示唆しうるものとして商店街の変遷に着目した本書の意義は非常に大きい。
以上の本書の大きな意義を踏まえて、以下の疑問点を提起する。特に現代社会に対する本書の含意に着目した疑問点を提起したい。
1:現代における商店街の促進要因は?
本書において、1980年代以降は「商店街の衰退の促進要因」のみに特化した記述が多く見られる。しかしながら「商店街の衰退の抑止要因」はこの時期も存在しなかったのだろうか?あるいは現在も存在し続けているのではないだろうか?
本書の最後に言及されている「地域単位の給付政策」である「公共事業」の場合は常に衰退の促進要因と抑止要因がせめぎ合っているのが現状である。
本書における「地域単位の規制政策」においては、この公共事業のようなせめぎ合い、特に本書における「既得権益」層からの抵抗のベクトルは見られなかったのだろうか?
(かっての商店街の担い手が近代家族であり後継者不足であったことからコンビニエンスストアの担い手として大手流通資本によって吸収されたとはいえ、このような抑止のベクトルが作用しそれが保守勢力と結びつくことはなかったのか?)
特にここで注目したいのが、「消費者サイドつまり需要サイドからの商店街へのポリティックス」と「供給サイドからの商店街へのポリティックス」である。消費者団体サイドからは大店法への消費者視点の反映の弱さへの批判、大手流通資本ダイエーの熊本出店署名運動のような形で商店街への対抗的なベクトルが存在し、供給サイドからはダイエーによるメーカー・問屋・小売店の系列取引の解体・価格革命という形で商店街への対抗的なベクトルが存在していた。だが、消費者団体から大手資本への対抗運動のケースも数多く存在しており、また供給サイドでも松下からの「ダイエーによるメーカー・問屋・特約店のつながり解体への批判」というケースも存在している。この松下のケースは特約店や同業種の連携としての小売商への支援であるが、このような特約店は商店街に少なからず含まれている。このように商店街への消費者サイドや大手資本のポリティックスも一枚岩ではなく、商店街促進のベクトルも存在していたのではないか?あるいは時代が変遷していく中でこのような商店街促進のベクトルも新たに生まれてきているのではないだろうか?
さらに近年、「地元での生産・加工・販売流通の一体化」という「第六次産業」(宮本,2010)が注目を集めているが、このことに対して異業種の専門機能の集積としての「商店街」はどのような役割を果たしうるのか?
2:商店街の「専門性」とは何か?またその変容は?
商店街は「専門店」を1つ1つの地域につくることを目的として形成されたものであった(実際には出店規制の基準として地元の営業経歴などが重視され、専門性とは無関係に商店街の担い手は形成された)が、商店街における「専門性」は何を意味しているのか?また「専門性」の意味付けが時代とともに変質してきていないのか?
ここで特に重要なのが、誰に対する、どのような点での「専門性」か、ということである。当初の形成時点では商店街は百貨店や行政(公設市場)、消費者組合に対抗して形成されたものであったが、この点の変化はないのか?特にこれから「既得権益にとらわれない形」での地域に対する規制政策を目ざす場合、商店街が志向すべき専門性とは何を指しているのか?
「専門性」は大手資本や行政権力に対抗する場合は消費者のニーズへの対応と結びつくものであるが、消費者の活動への対抗のという意味合いを持つようになると、「単なるより安くより便利に」という消費者の要求への太刀打ちを超えて「専門家支配」にもつながりかねない。今後の可能性としての「専門性による規制」という場合は、「万屋」的なコンビニエンスストアーと異なった個々の品目に特化したというだけの内容のみの「専門性」ではなく質も踏まえた「専門性」であるはずである。
このように考えると「専門性」の判定は誰が行なうのか?規制の基準に「専門性」を用いた場合は行政、特に地方固有の状況を踏まえると「地方自治体」となるのであろうが、地方自治体がどれほど正確に「専門性」を判定できるのかという「政府の失敗」の可能性をどのように見積もるのか?画一的な基準ではなく状況依存性を踏まえた「専門性」、特に地域におけるつながりの形成という場合関係依存性が極めて強くなるが、このような状況下での「政府の失敗」の可能性はないのか?(確かに国が把握するよりも地方自治体が把握した方が行いやすくなるが、地方自治体間の財力の格差が歴然としている状況をどのように考えるか?また地方自治体が文脈依存性を考慮することは、一歩間違えると地方の既得権益の力関係に取り込まれることへの逆戻りも懸念される。他方で、地方自治体がこのような既得権益から距離を置いた場合、文脈依存性や関係依存性を把握しそこなうことになる。)
3:商店街における「近代家族」の性質の特異性とその政治的意味
商店街の担い手が「近代家族」でありこのことが後の商店街の衰退の一因になった、という知見が本書では示されている。この知見自体は非常に示唆に富むものであるが、果たしてサラリーマン家庭の「近代家族」と商店街の担い手の「近代家族」は同じ性質のものなのだろうか?
「近代家族」論には「制度的形態に着目したもの」と「心性や意識に着目したもの」の双方が見られる。(施,2012)「制度的形態」では確かに商店街の担い手はサラリーマン家庭のそれと類似しているが、「心性や意識」の点では「保守政治への支持割合の高さ」という点で大きく異なっている。先行研究において「近代家族」は、社会政策における家族責任重視の「家族主義」そして労働市場や家庭における性別役割分業とそれに伴う職住分離とつなげて「男性稼ぎ手モデル」と結びつけて考えられてきた。だが、このような結びつきは本書でいう「雇用の安定」であるサラリーマン家庭に関してのみ当てはまるものである。商店街の担い手の場合は家族主義で「近代家族」でありながら性別役割分業の弱い共稼ぎという類型に当てはまるケースも多いように思われる。(職住は分離傾向が強くなったようであるが。)実際「家族で働ける」ということが、商店街のもとになった戦間期や終戦後の離農者の零細小売業起業の一因であった。このように「形式的な近代家族」という点では同じでありながら「心性の面でのサラリーマン家庭と商店街の担い手家庭の相違点」はどのような政治的機能、特に別の政治的アクターから商店街が支持を得る上でどのような機能を果たすのだろうか?特に本書で言及された「既得権益に囚われない形での地域における人々のつながりの確保」という目的に対してどのような機能を果たしうるものなのだろうか?
また、商店街の担い手が大手流通資本によってコンビニエンスストアーに取り込まれていく中で商店街の担い手の近代家族の「心性・意識」の部分の変容はどのようなものであったのだろうか?
4:大都市の商店街と地方の商店街
「バブル期の日米外交の結果としての公共事業の一環としてのショッピングモールの校外への立地も商店街衰退の一因になったことが」論じられている。しかしながら、都市部のショッピングモールと地方都市のショッピングモールの形成では多少商店街への影響は異なったものになるのではないだろうか?地方のケースでは確かに本書の指摘するように「公共事業を通じた郊外・国道沿いのショピングモール形成が商店街の衰退の一因」になっている側面が見られるが、都市部では駅前再開発の一環として中心部にショッピングモールが形成されているケースも見られる。また商店街に関しても戦間期に形成された場合とサラリーマン家庭の「住居と商品購入の近接」を意識して高度経済成長期に形成されたニュータウン近くの商店街あるいは団地内の商店街では、ショッピングモール建設から受ける影響も異なるように思われるが、この点をどのように考えるか?
5:「都市」という空間に注目することの重要性
既存の社会理論は「地方の農業という旧中間層から都市部のサラリーマンという被用者、新中間層への変化」を直線的に把握してしまい、都市部の旧中間層による地方の農家という旧中間層の吸収の可能性を看過していた。ここから読み取れるのはマルクス主義のように階層に注目するだけでは不十分であり、構造機能主義のように空間横断的な社会構造やそれに伴う機能に注目するだけでは不十分で、都市という空間そのものの機能、ポリティックスに注目することの重要性である。しかしながら戦後日本の都市社会学が十分にこのような都市という空間の変質を把握してこなかったことが指摘されている。つまり「都市と地方の比較という形でまだ都市化が進展していなかった状況下での地方から都市への移動を把握するという課題には取り組んできたが、都市が制度として一定程度定着して以降の都市という要素の変質を十分に把握しきれていない」(中筋,2007)という状況である。本書の異業種の都市自営業が集う場としての「商店街」とその変質への着目はこのような課題に応えうるものである。
引用文献
宮本太郎,2010,『生活保障』岩波書店
施利平,2012,『戦後日本の親族関係 核家族化と双系化の検証』勁草書房
中筋直哉,2007,「研究動向<都市>」『社会学評論』56(1) pp217-231
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