今月は筆者の住む国・ハンガリーの女性作曲家をご紹介します。エンマ・コダーイ。1863年生まれ1958年没。19世紀後半から20世紀前半の95年を生きた方でした。第2回エッセイのクララ・シューマンが1819年生まれですから、その後約50年を経て、この世に生まれています。また、ハンガリー人作曲家フランツ・リストは1886年にドイツで亡くなっています。

当時ハンガリーはお隣のオーストリアと二重帝国~ハプスブルグ帝国でした。第一次・第二次世界大戦を経て、亡くなる直前は1956年のハンガリー動乱によりソビエト侵攻が始まりました。

彼女は最初の夫との離婚後、作曲家ゾルターン・コダーイの最初の妻になりました。(なお、ハンガリー語の名前表記は、日本語と同じ順番で姓名を書きますが(例:コダーイ・エンマ、バルトーク・ベラ)、ここでは一般的な外国名表記順を使用します。夫となったゾルターン・コダーイ(1882~1967)はハンガリーを代表する作曲家の一人として、一時代を築きました。 ハンガリーのもっとも有名な作曲家ベラ・バルトーク(1881-1945)の盟友でもあります。

ふたりは協力し合い、地域に残る民謡(いわゆるわらべ歌)の採集を試みました。ハンガリー各地のみならず、果てはアフリカまで足を伸ばし、 採集したわらべ歌を元に、数多くの独自の曲を後世に残したのです。バルトークは、主にピアノ作品とオーケストラや室内楽曲、コダーイは、オーケストラのほか、たいへん多くの合唱曲や 歌曲を残しました。

加えて、 コダーイの偉業は、「コダーイ・システム」というソルフェージュ~音感教育です。(ハンガリー語:ソルミザーラシュ:Szolmizálás)「移動ド」と言われる、音程に基づいてドレミファソラシドを読む奏法です。「固定ド」(いわゆる絶対音感)を持つものには、ドはいつもド、その音そのものとしか聞こえないのですが、コダーイ・システムでは、例えば、ファラドラファとドミソミド。このふたつの音の連なりは、音は違えど同じ音程なのを瞬時に聞き分ける訓練を受けています。また、コダーイはこのメソードを、地域に伝承されている「わらべうた」を使いながら指導しました。

日本では主に1970年代から、コダーイの教育がピアノ教師や音楽教師の間で急激に広まりました。1980年代がピークだったようですが、現在もすそ野は全国各地に広がっているようです。導入は、羽仁協子さん。ウィーン留学の傍ら、ハンガリーでコダーイと出会い啓蒙を受け、1968年、日本にコダーイ音楽芸術研究所を設立しました。_ちなみに、羽仁さんのご両親は母・説子さん、父・羽仁五郎氏です。教育熱心で研究熱心な日本人、加えて、自国の「わらべうた」を取り入れた垣根のない教育メソードだったことが、日本人の気質に合っていたのかもしれません。

今日の主人公、エンマ・コダーイは夫のゾルタン・コダーイの19歳の年上の妻でした。ハンガリー南部の街、バヤ(Vaja)のユダヤ人家庭に育ちました。この地域は温暖で豊かな農地を背景に、農業で繁栄した土地だったそうです。また、ハンガリーは伝統料理のひとつ、川魚を使った「魚のスープ:Haláslé」もバヤ地方の名産です。パプリカ粉をふんだんに使ったタイプの、コクのある美味しさです。

エンマは幼少の時代から才気煥発、音楽にも才能を見出していました。彼女のプロフィールには、途中で苗字を変えたという記述を随所見かけるのですが、ユダヤ人出身だったゆえ、これを一般的な苗字・シャンドール~Sandorと改名した背景があることも調べからわかりました。

すでに豊かな銀行家グルベール~Gruber 氏の妻で、40歳になっていたエンマは、たいへん知的で文化的素養があり、経済的な基盤もあった中で、ブダペストの自宅を開放した音楽サロンを開いていました。お客の中に、若き音楽家ゾルターン・コダーイ、ベラ・バルトークもいました。エルヌー・ドホナーニも出入りしていました。エンマは、その後ドホナーニに作曲を師事します。

この家は、現在も威風を放つ国立オペラ座からアンドラシー大通り挟んだ向かい側の地域、市内の中心地にありました。バルトークとコダーイ。後世に残るハンガリーを代表する音楽家たち、ふたりを最初に引き合わせたのは、エンマだったとされています。文献によれば、若くもなく、あまり美人でもなかったご様子の彼女ですが、人間的な魅力に溢れていて、周りの若い男性たちを虜にしました。

時代はオーストリア・ハンガリー二重帝国、ハプスブルクの時代です。ハンガリーは、1956年ソビエト侵攻により社会主義体制へ入り、それは1989年のベルリンの壁崩壊まで続きました。ハンガリーは第1次大戦以前が最も栄華を誇る美しい街だったと聞いています。ロンドンに続きヨーロッパ第二の歴史を持つ地下鉄1号線は1896年開通、現在も小ぶりで可愛い山吹色の車両が日々運行されています。また、ドナウ川沿いの歴史的建造物群もこの時代に作られました。現在では世界遺産に登録され、日々、壮大で美しい景観に観光客の訪れが絶えません。

エンマが中心となった音楽サロンは、多くの芸術家が集まり、優雅な時間が流れていました。ほどなくして、エンマはコダーイと恋愛関係に入りました。実は、この時期のバルトークから母親への書簡には、魅力的な女性としてエンマの名前が度々登場します。バルトークもそれなりの至近距離にいたようですが、エンマはコダーイを選びました。最初の結婚の夫・銀行家と離婚を果たし、1903年、40歳のときにコダーイと結婚しました。この辺りの記録に興味を持ちましたが、どんなに調べても一切出てこないのは、たいへん残念なことでした。

ゾルターン・コダーイの音楽家としての活動は結婚後、さらに素晴らしいものとなり、エンマの内助の功が察せられます。ふたりは、たいへん仲の良い夫婦で、エンマが亡くなるまでいつも一緒に過ごしました。ユダヤ教からカソリックへ改宗したエンマでしたが、戦時下の1944年、出目ゆえにユダヤ狩りを恐れて修道院へ身を隠しましたが、夫コダーイは、どんな時も常に一緒に行動しました。また、コダーイは散歩を日課としており、エンマが90歳のころは、70代になるコダーイがエンマの車椅子を押して散歩をする姿も、ご近所の方たちに微笑ましく目撃されていました。

ここでお伝えしなくてはいけないことは、彼女をあらわす評伝が、ハンガリー語でも英語でも、とても少なかったことです。
ゾルターン・コダーイはエンマが亡くなって以来、深い苦悩の中で生活をしていました。根幹をなすはずの作曲活動からも離れ、世間からも隔絶していましたが、このような彼を見かねた友人たちが、さまざまな機会に一緒にお茶をしたりお食事をしたりと、コダーイを励ましました。

その中に、父親に連れられてコダーイと会った、まだうら若き19歳のシャロルタ・ペーチェイ Sarolta Péczelyがいました。 コダーイは闊達な彼女にすっかり見せられ、恋に落ちました。翌年にはあっという間に結婚を果たしました。最初の妻は19歳上、次の妻は52歳下、孫のような妻です。若き妻はリスト音楽院で声楽を学んでいましたが、結婚と同時に活動をやめて、生涯をコダーイに捧げました。周りの思惑をよそに、ふたりは仲むつましく、結婚生活はコダーイが亡くなるまで10年間続きました。

この妻はコダーイ博物館が1階に入っているマンション上階に今もお住まいです。博物館は、かつてコダーイの自宅でした。ペスト側の、アンドラシー大通りに面した博物館、最寄り地下鉄駅は「コダーイ円形広場」と作曲家の名前を冠しています。前を通る度に筆者は開館かどうかを気にしておりましたが、ある日、居住者のネームプレート一覧に彼女のお名前を見つけました。ハンガリー語では、⚪︎⚪︎夫人と表すことばは、néを使いますので、Kodályné(コダーイ夫人)Pécsely と読めました時は、静かな驚きでした。コダーイが亡くなった時は29歳、現在は80歳を超え、生涯をコダーイ夫人としていらっしゃる方です。

エンマに関する資料は、彼女によってほぼ封印されていることもわかりました。理由を相当リサーチしましたが、調べが進まなかったことを心底残念に思います。国立ハンガリー科学アカデミー内、音楽研究所の研究者たち、また、コダーイ音楽院の院長は、40歳にして院長に抜擢された筆者の個人的な友人でしたので、いろいろな質問を携えてお会いしましたが、とにかく、この学究肌の専門分野の方たちが根をあげるほど、「2番目の奥さんはむずかしい人」。どなたからも一様に、この言葉をお聞きしました。コダーイ音楽院院長も、質問は必ず夫人にお伝えするけれども期待はできないと思う、とのおことば。その通りの結果となってしまいました。

この理由のみによって、エンマに関する記録が世の中に出ない状態が続いています。コダーイは、2度の結婚ともにお子様はいらっしゃいませんでしたので、遺産を含めてあらゆるものが、すべて二番目の奥様の管理下に置かれていること、エンマの作品は、実はもっとあるのではないかとのお話もお聞きしました。

ブダペストの名門・リスト音楽院ピアノ科教授、イロナ・プルーニ先生が唯一、二番目の妻からエンマの作品の演奏とCD出版を許された方で、プルーニ先生のCDには歌曲とともにピアノソロ曲が入っています。プルーニ先生にも直接お話をお聞きしましたが、封印されている件、2番目の妻はむずかしい方というおことば、先生もこの状況を残念にお思いなのがお話からわかりました。

コダーイ博物館は国立リスト音楽院の経営傘下にあります。アポイント制で見学をできる建前になっていますが、メールでお願いをしても電話をしても、何もご連絡がないまま時は過ぎました。現在の状況がすべては二番目の奥様に依拠していること、周囲が何も手を出せない状況に、ハンガリーの国としての文化的損失ではないかと、筆者は単純に思いましたが、それは多くの方が思うところではないでしょうか。

ひるがえり、バルトーク博物館はバルトーク財団の管轄にあり、バルトーク夫妻がアメリカに渡るまでを過ごした家が博物館として保存され、ブダ側の緑あふれる地域に瀟洒な建物が建っています。訪れる人も多く、こちらは連日のコンサートも盛況です。

エンマは、生家も裕福で、最初の夫は成功した銀行家、その後の若き夫・コダーイも、当代一流の作曲家に成長し、そこにはエンマのサポートは絶大なものでしたし、自身の作品を書けば評価され、しかしながら、とりわけ強い意志によって音楽活動を続ける気持ちもなく、女性としての自分を、意識的に見つめる社会的環境もないのですから、結果として、きわめて恵まれた女性だったのかと思いました。

周りにいた男性たち、例えばバルトークも、2番目の妻はバルトークのリスト音楽院のピアノのお弟子さんでしたが、腕前もバルトークと対等に2台ピアノを演奏する素晴らしいピアニストでしたし、女性をひとりの人間として認める男性たちに囲まれた人生だったのでしょうか。そのなかで、職業人として女性が世に出る社会環境も整わない時代では、女性は男性たちの脅威となりませんし、持って生まれた魅力で周りを幸せにし、ご自身もお幸せな人生だったのかもしれません。エンマの資料がこのような状況のため、深く掘り下げられなかったことは、返す返すも残念に思いました。

一時はエッセイ掲載を断念しようかとも思いましたが、皆さまにありのままをお伝えすること、加えて、素敵な作品が残されているゆえに、ご披露しない勿体なさを思いました。ピアノ曲には「主題と変奏」「セーケイ人の踊り」「ウィーンのワルツ」がリスト音楽院図書館に所蔵されていました。このほか、佳作・単品の曲が何作か、また、歌曲も作曲しています。

この度の作品は「ウイーンのワルツ」。ハプスブルグとの二重帝国の時代、ウィーン風ワルツを扱った作品は数多くありますが、この作品が、ピアニスト/作曲家のゴドフスキーの残した作品とたいへん似た印象を筆者は受けました。コダーイは、エンマにドホナーニを作曲の先生として紹介しました。

作品は、本来は違う音ではないか?と感じる場面も何箇所かありましたし、筆者がエンマ独特の和声に慣れ親しんでいない面が大きかったですが、オリジナリティに溢れた強い個性を感じさせる作品でした。

「ウィーンのワルツ」楽譜の巻頭には、夫コダーイからエンマを讃えた、以下のメッセージが書き添えられています。 (訳) この曲は、48年間を一緒に過ごしてきた、もっとも非凡な女性であり、私の愛する妻の一端をあらわした作品です。彼女は楽譜の出版にも、作曲家として認知されることも気にかけませんでした。作曲の世界は、高度なピアノや歌の演奏と伴に、彼女の人生にとにかく無くてはならない根源を成す部分でした。エンマは、彼女に会ったことのあるどの人にも`喜びをもたらすファントム`として存在しました。 “These melodies may reflect a few personal traits of a most remarkable woman, the beloved companion of my life for 48 years. She did not care to be published, or to figure as a composer; her music was just an organic part of her life, as well as her very fine piano playing and singing. She was a ‘phantom of delight’ for everybody who met her.” Zoltan Kodaly.1964

 また、エンマの師事した作曲家・ドホナーニの作品に、「クリスマスパストラーレ」という、ハンガリーのクリスマスのメロディを使った、静謐な美しい曲があります。クリスマスのちょうどこの時期、併せてお楽しみいただけますなら幸いに存じます。