大潮の日曜日。
京急富岡駅に降り立つと、駅前にしては細めの道に数本の旗が並んでいた。白地に水色で「祗園舟(ぎおんぶね)」の三文字。「こちらですよ」。通りすがりの地元の方がそう言って道順を教えてくれた。
車の往来が多い国道16号をぬけ、樹木があたりに増えてきたころ、祭礼の白装束に身を包んだ背中が見えた。目的地に到着したらしい。
「祗園舟」は富岡八幡宮が伝える神事。その本舞台でいよいよ、5月に祝島で舟おろし(進水式)をした二隻の和舟がお目見えする(舟おろしについてはこちら:「潮目を生きる」第6回 )。この宮は、源頼朝が摂津(現在の兵庫県)は西宮の恵比寿様を祀(まつ)ったことに始まるという。鎌倉幕府を開く前年、1191年のことだ。鬼門封じのためと聞く。ここ富岡は鎌倉の北東、鬼門と呼ばれる方角に位置していた。そこから鬼が出入りするとして、忌み嫌う風習はいまも残る。現代の行政区分では神奈川県横浜市金沢区の一部だが、富岡は古来、むしろ鎌倉と関係が深かった。
金沢区はその昔、六浦(むつうら)庄と呼ばれる荘園だった。風浪(ふうろう)をよく防ぐ港に恵まれ、特に六浦の港は、房総(ぼうそう)半島と三浦半島をむすぶ海の道の玄関口。かつて東海道は、ここを通っていたのではないか。だからこそ、ここから山を越えてすぐの鎌倉を、東国政権の中心としたのではないか。要害の地ゆえに鎌倉に幕府がおかれたという教科書の知識は、その後の研究成果でそう刷新されていた。いにしえの東海道は、相模(さがみ)から房総半島へは海を渡り、そこから北はふたたび陸路。鎌倉から六浦への道は、相模から房総への渡海(とかい)ルートの起点だったかもしれない。事実、頼朝の幕府があった場所は六浦への道に面している。
800年以上つづくという「祗園舟」は、頼朝の時代も行われていただろう。この宮は1227年に八幡様も祀るようになり、名も「八幡宮」に改めたといわれる。それでもこの神事は絶えず、いまでは横浜市の無形民俗文化財に指定されている。青茅を楕円形の筏舟(いかだぶね)に仕立て、麦団子と御幣(ごへい)を載せる。それを沖合まで和舟で運び、潮の流れのよいところで海に浮かべて流してから、陸へ戻る。海の神へ麦の初穂をお供えして豊穣・豊漁を感謝するとともに、1年の罪と穢(けが)れを御幣に託して取りのぞく行事だという。
茅舟を沖へと運ぶ2隻の和舟が古くなり、80年ぶりに新しく造ることになった。ところが船大工がいない。八方探してたどり着いたのが、周防灘(すおうなだ)と伊予灘の境に浮かぶ祝島だった。
国東(くにさき)半島先端の伊美別宮社(いみべつぐうしゃ)とともに執り行う、海を渡る神事「神舞(かんまい)」を千年を超えて伝える島だ。こちらは山口県の無形民俗文化財に指定されている。それを支える匠(たくみ)が祝島には健在なのだ。四代目の船大工、新庄和幸さんである。
最初に相談を受けてから1年以上を経て、祝島の船大工は美しい二隻の舟を完成させた。実物の確認のため、祝島と富岡を互いに行き来しつつの工程だったという。2016年7月17日は、新造した二隻をつかって初めておこなう「祗園舟」だ。
「一人前の船大工になるには10年は修行がいる」と言われるなか、匠の技をを受け継ぐ機会はタイムリミットに近づきつつある。70代に入った新庄さんに弟子はないからだ。弟子入りする者がいたとしても、かつてのように仕事はない。修行ができる社会状況にもなかった。いまは実物を大事に使い維持して未来へ伝えていくほか、受け継ぐ途(みち)はないのだろうか。
かつて海に面していた富岡八幡宮。その昔は宮の前の浜から海へ砂嘴(さし)が延び、松の木が2Kmほど立ち並んでいたのが、1311年頃の大津波で海没したと伝わる。そのとき長浜千軒といわれた村も海に沈んだという。その大津波から富岡の集落を守ったのが、八幡宮の山だった。この宮が「波除八幡(なみよけはちまん)」とも呼ばれるのはそのためだ。
その山からつづく海で「祗園舟」は行われていた。現在は「船溜(ふなだま)り」で行なっているという。地図を見ると、確かに水面が描いてあった。実際に歩いてみる。小山の上に建つ八幡宮から階段を下り、並木道をしばらく進むと視界が開ける。そこが「船溜り」だった。
竹や旗や注連縄(しめなわ)で飾られた小さな砂浜。その奥の大きな池のような水面に、見覚えのある真新しい和舟が二隻、浮かんでいた。宮司が神事を執りおこなうと、白装束の男の人が次々に和舟に乗りこみ、漕(こ)ぎ出した。二隻それぞれに櫓(ろ)は五丁。交代で漕ぐのだろう、あっという間に見えなくなった。閉じられた池ではなく、細い水路で海とつながっているらしい。
賑やかに雅楽(ががく)が鳴り響く。砂浜沿いの芝生にテントをはり、日射しを避けて演奏していた。和舟が沖へでて茅舟を潮に流して浜へ戻るまで、演奏は続くそうだ。空は雲に覆われがちながら、太陽も時折のぞいた。かなり蒸し暑い。祭りに集まった人びとは、しばしの涼を求めてエアコンの効いた量販店や木蔭のベンチへと散った。
1時間は経ったろうか。空砲が鳴った。帰還の知らせだ。ここからが「祗園舟」のハイライト、二隻の競漕(きょうそう)である。急ぎ足で戻ると、先ほどの砂浜がさらに小さくなっていた。満ち潮で水面が上昇している。「船溜り」は確かに海なのだ。
ザブン! ザブン! と音をたて、和舟から数人、勢いよく海へ飛びこんだと思うと、浜に並ぶ角材へと駆けた。和舟の向きをかえ、角材の上に置くまでを競うようだ。
「頑張れ頑張れ」。あちこちから声援があがる。
「お父さんカッコイイね」という女性の声が聞こえた。親子か親戚か近所か、はたまた別の縁か。小さな子どもに話しかけている。
目の前で勝負がつきつつあった。勝ってよし、負けてよし。互いに競いあいながらチカラをあわせ、ひとつのことを成す爽快さ愉快さも漂う。
「船溜り」から海への水路に沿ってしばらく歩き、シーサイドラインの並木中央駅から帰路についた。駅までは主に高層の集合住宅が、その先は工場が広がっていた。海はさらにその先にある。かつての海岸線を思い起こさせたのは「船溜り」だけ。池に近い姿ではある。それでも潮の満ち干が、これは海だと知らせてくれた。高度経済成長の時代に主力を担った京浜工業地帯にありながら、埋め立てずに残された海のかけら。「祗園舟」ゆえ、なのか。
帰宅後に少し調べてみた。横浜市が1968年に決定した金沢地先(ちさき)埋立計画により、金沢区の海は1971年から1988年までに順次、埋め立てられた。だが計画の実現は容易でなかったと、横浜市の資料に残る。市内で自然の海岸線が残る最後の海であり、漁業者の生業(なりわい)の海でもあったからだ。特に海苔の生産は、1955年以降に急増していた。
漁師が埋め立てに抗った。そこで横浜市が、近隣3漁協の組合員458人の説得に動き、妥結に至る。総額100億円を越える漁業補償金だけでなく「残存漁業」も認められたと、地理学者の鈴木範仁さんらは記す。つづいて住民が抗った。1973年9月の神奈川県議会は、埋め立ての是非を越え、開発か自然保護かと熱い議論になったという。だが県議会は埋め立てを認め、県は、翌日には金沢地先の埋め立て手続きを開始した。
早期に着工された富岡は、埋め立てによって2Kmほど海と隔てられた。砂嘴に松並木が続いていたと伝わる距離と同じだ。海没した松の根株が、海を埋め立てた際に発見されている。長浜千軒の伝承もある。かつて町が栄えながら現在では消え去ったところに「何々千軒」という名がつけられると、中世史家の網野善彦さんは言う。川底から町が掘り出された、広島の草戸千軒が有名か。
富岡八幡宮の山からつづく海に陸が見える風景が、地域の記憶だったとしたら? 海と陸の境界は、常に確定しているわけでも、不変なものでもない。もちろん大海原に細長い島が浮かぶような砂嘴と、置き去りにされたような海のかけらを囲むコンクリートの広大な地面は、陸は陸でも似て非なるものではある。だが単純に否定することも難しいのではないか。高度経済成長へと走った時代の激しさを私は知らないが、抗しがたい何かも、あったのかもしれない。結果的に、濃い緑がつづく松並木の先に房総の山々を望んだという富岡の漁港は、廃港となった。
「祗園舟」は雨となることが多いと聞く。だが今年、雨は遂に降らなかった。富岡と祝島の縁を言祝(ことほ)ぐ、天の贈り物だろうか。その縁は思いがけず、時空を超えて幾重にもつながっていた。さらなる交差もありえそうだ。それを探すともなく探しつつ、富岡を祝島をそぞろ歩き、時代の潮目に目を凝らせば、思考の自由が広がりそう。「祗園舟」は毎年、「神舞」は4年ごとにある。奇しくも今年は神舞年。古来の航路の記憶を呼び覚ます海上渡御の祭りが、8月16日から祝島で行なわれる。
※連続エッセイ『潮目を生きる』の前回まではこちらからご覧いただけます。