飽くなき日本近代帝国:「他者を食べる」物語と記憶―レスカコメントー
(谷崎潤一郎、林芙美子の小説と成瀬巳喜男の翻案映画を中心に)
日時: 2016年12月11日 16:00-18:00

・「飽くなき帝国」とあったので、てっきり大岡昇平系だと思っていたが、PDFを見て、あぁ、メタファーなのか?と思って聴きに参りました。林芙美子の<白い握り飯>、印象的でした。面白かったです。谷崎の、読みたくなりました。有難うございました。
・成瀬の「浮雲」が名作とされているのは、水木洋子の脚本の力が大きいのだと思われます。「帝国」にフォーカスすることに関係しないかもしれませんが。
・勉強不足で大したことが書けなくて申し訳ないのですが、後半の、映画と原作の違い、どこが削られたのかを考察していらっしゃったところ、大変興味深く聴いていました。
『この世界の片隅に』でも、原作のマンガと映画では、日本の加害性がそぎ落とされている、という批判があります。完全にデジャブでした。有難うございました。
・物理的に食べ物を食べる時には人間が自己で食べ物が他者だと思うのですが、メタファーとして「食べる」時には人間が食べられる方になるので、自己と他者がそんなにはっきり分かれているような気がせず、自己と他者のところをもう少し詳しく聴きたかったです。
・自己と他者の分析の部分で消費されるのが他者ではなく、主体になりうると理解しましたが、食されることの快感のようなことも気になったり、それが他者が主体化するきっかけになるのかなと強引に関係づけたりしました。ほんとうに消化しきれないほどコンテンツいっぱいで思考があちこちにとびました。レスカも発言も整理しきれていなくてすみません。
・「メタファー」としての「食」は「食う」という動作だけでなく「食べ物」そのものが時にセックスのメタファーとなったりするのかとも考えました。「りんご」というのがキリスト教的文脈で「少女」と共にテキストで用いられたりするものもあったと記憶しますが、宗教も絡めてその点の考察をしてみたいと思いました。
・帝国期の日本について、多くの指摘がありましたが、もう少し焦点をしぼったところに注目していくと面白いと思います。北米を中心にしていること…今の若者は努力しなければ林芙美子についての情報は、入ってこない。若い世代で読んでいる者は少ないということはあると思います。
・ジェンダー視点の一つとして、めしの映画の中での説明、台所が一段低いところにある、食品を腐らせないためでもあるが、台所は北向きの寒いところにある等、女性の働く場所、食べる順番、品数、量が少ない。それで当たり前とは知っていたが、映画でなにげに表現されていることに驚いた。教えていただき、有難うございました。
・私にとって林芙美子は、有名な女性作家ですけれど。現在も、「放浪記」の舞台化が新しい配役で始まるとかも話題になっているし。森光子では1000回以上公演しているし。新しい切り口の解釈を加えた「放浪記」を期待します。

第32回 上野ゼミ 飽くなき日本近代帝国 「他者を食べる」物語と記憶