『中日新聞・東京新聞』2/11付け「考える広場 この国のかたち 3人の論者に聞く」における上野千鶴子さんの発言に対して、特定非営利活動法人移住者と連帯する全国ネットワーク・貧困対策プロジェクトから公開質問状を出しました。その後、上野さんから回答をいただきました。まずは、誠実に回答してくださった上野さんに感謝申し上げます。
しかし、上野さんが自らまとめられた回答は、新聞記事よりさらに深く懸念を持たざるを得ないような内容でした。これに対して、質問状を執筆した研究者メンバーで意見をまとめました。すでに岡野八代さんと清水晶子さんから重要な論点が提示されているので、移民に限定して議論します。なお、上野さんから責任ある個人としてのやりとりが望ましいという示唆をいただきましたので、今回は執筆者の連名で公表いたします。
Ⅰ 上野さんの回答へのリプライ
まず、上野さんは「みなさま方の理想主義は貴重なものですが、理想と現実を取り違えることはできません」と指摘しています。こちらが理想主義に傾倒するあまり、現実を冷徹に見ていない議論をしているという趣旨だと理解しました。しかし、移民をめぐる議論に関わってきた立場からすると、以下の理由で上野さんが言われる「現実」の方が非現実的な想像の産物のようにみえてしまいます。
1.「移民の大量導入」を決められるという前提
移民政策あるいは移民のフローというのは、上野さんが言われるような「受け入れます」「受け入れません」などという掛け声でできるものではありません。移民政策研究の主要な論点の1つは、反移民の態度をとる人が多い中でも移民の流入が止まらないのはなぜか、というものでした。相互に矛盾する要求を持った要素が複雑に絡まり、方針を明確に定めるのが難しい、仮に方針が定まったとしてもそれを裏切る意図せざる結果が続出する、それが移民をめぐる現実です(Freeman 1992, Hollifield 1992)。
具体的には、経済的自由主義(労働力需要)、国家主権(ナショナリズム)、政治的自由主義(権利尊重)、セキュリティ(治安=安全保障)、移民ネットワーク(移民規制の無効化)といった要因が複合的に作用して、移民政策や移民フローを作り出します(Guiraudon and Joppke eds. 2001, Huysmans 2006, Massey et al. 2002, Soysal 1994)。そのため、「これから移民国として転換します」などと宣言して移民受け入れに舵を切るなどというのは、現実離れした想定です。実際には、なし崩し的に移民が増加した結果、「宣言なき移民国」になったり、「新たな移民国家」になったりするものです(Hollifield et al. eds. 2014)。
上野さんは、「みなさま方に『移民一千万人時代』の推進に賛成されるかどうか、お聞きしたいものです」と逆質問されておられます。しかし、経団連や自民党の議員連盟が出す政治的アドバルーンを額面通りにとり、それに対して二分法で賛否を問うこと自体が現実離れした議論といわざるを得ません。つまり、逆質問にお答えするならば、「移民を(大量に)受け入れるか/拒否するか」という二分法自体が意味をもたない問題設定であるというのが私たちの回答となります。
2.「これまで」と「これから」について
上野さんは、「基本的な誤読」として、「私の見解はこれまでではなく、『これから』先の将来について論じたものです」としています。質問状に現状認識や現状評価に関することが含まれていることに対する応答ですが、「これから」について「これまで」と切り離して論じるのは非現実的です。
福祉国家論でいわれてきた経路依存性の議論は、移民政策研究にも適用されています(Favell 1998, Faist et al. 2004)。ある時点で作られた政策が、その後の政策を拘束して一種の経路を作り出す、その結果として最適な政策が取れなくなっている状況の分析に使われる概念です。日本の場合、冷戦と植民地主義から引き継いだ差別構造・意識を背景にしてつくられた、入管法と外登法のセットによる外国人の「管理」、申請帰化による国籍取得などが、移民政策の根幹をなしてきました(Morris-Suzuki 2010)。外登法はなくなりましたが、基本的に政策の基調は変わっていません。その結果、「単純労働者は受け入れない」といいつつ、「親族訪問」や「技術移転」という名目で、多くの非熟練労働者が入国し、働く状況が続いています。
現時点での移民をめぐる状況は、過去の政策に規定されて生じており、それは将来をも規定します。それゆえ、質問状では将来について語る際の基本的な判断材料として、現状認識をめぐる内容を多く含めました。これは、上野さんが言及されている諸外国よりも先に参照されるべきだからです。上野さんが「基本的な誤読」とおっしゃるのでしたら、日本の移民政策が経路依存的でなく、フリーハンドで作り直されると判断される根拠を明示すべきと考えます。そうでない限り、現状と将来を切り離して論じることは不可能で、上野さんのご批判自体が質問状に対する基本的な誤読にもとづくものと言わざるを得ません。
II 「回答」に対する懸念
1.流入制限と移民の権利保護の関係
上野さんは、難民を除く移民流入に対して制限的な政策をとりつつ、社会民主主義的な分配の強化が必要という立場をとっておられます。これは、現時点で居住するエスニック・マイノリティの権利は尊重すべき、と理解できます。しかし、これを両立させるのは至難の業ではないでしょうか。
現実をみると、欧州の極右政党は1980年代には「反移民」と「自助」を合わせた主張をしており、福祉国家に批判的な立場をとってきました。それが、欧州統合により欧州懐疑主義を前面に打ち出すようになってからは、むしろ国民の保護=分配の強化を強調するようになっています。しかし、そこで分配の強化の対象となるのはあくまで「国民」であり、住民たる外国籍の人や当該国籍を持つ移民ルーツの人はしばしば排除の対象となってきました(福祉ショーヴィニズムの発動は、常に民族・人種・国籍による排除を伴うものです)。とりわけ日本の場合、エスノ文化的な「国民」理解が主流であり、異なるルーツの者に排他的に作用しがちです。
こうした国内外の「現実」を踏まえると、外に対して排他的な政策をとる国が、内なるマイノリティの権利擁護に熱心であると考える理論的・現実的な根拠がどこにあるのか、上野さんのご回答から読み取ることはできませんでした。
2.上野さんと「新しい人種主義」の近似性
上野さんの回答を読んで、私たちが一番危機感を持ったのは、(現役の政治家ならマリーヌ・ル・ペンのような)欧州の極右が用いる新しい人種主義の論理ときわめて近いことでした(Balibar & Wallerstein 1990)。その論理に従えば、個々の文化的共同体は「差異への権利」を持つ、それを守るには国境を越えた文化の交雑を避けるべき、となります。フランスの極右は「多文化主義の真の擁護者」を自称していますが(Mudde 2007: 191)、それは移民を受け入れないのが相互にとって幸せという理屈によります。
上野さんは、日本(人?)にとってよくないとして移民受け入れに反対されるのか、移民にとってよくないとして移民受け入れに反対されるのか、つまびらかにしていません(そうした二分法自体が非現実的ですが)。が、どちらであっても「差異への権利」にもとづく新しい人種主義です。くわえて後者の場合、移民にとっての幸福を他者が決定するパターナリズムでもあります。
また、上野さんは「(移民の問題は)政治的に選択可能」であり、「移民の大量導入に消極的ですし、その効果についてかつてよりも悲観的になってきました」と言います。この主張は、たとえ「国内に在住している外国人に出ていけということを意味しません」と留保をつけたとしても、「出ていけ」という効果を持ってしまいます。移民が差別され周辺化するのは目に見えているから来させてはならないという言説は、日本で差別される外国人は帰国したほうがよい、という言説に容易に換骨奪胎されてしまうでしょう。というのも、「移民受け入れ」に反対する主張は、前述のように非現実的であるだけでなく、「移民・外国人=否定すべき存在」というメッセージとして機能するからです。
そして、こうした主張は、しばしば国内にいる移民や外国ルーツの者にたいする排外主義的暴力を引き起こしてきました。上野さんも言及されるドイツでは、1990年代に難民への暴力が続発しました。これは、(上野さんのような)影響力のある人が、庇護権の見直しなど難民への否定的な言説を広めたことが大きな原因となっています(Koopmans and Olzak 2004)。お手軽に反移民を表明しているようにみえる上野さんに公開質問状をお送りしたのも、軽率な意見表明が排外主義を促進する効果を持つとの懸念を持ったからに他なりません。
3.「国民主権」の全能性について
上野さんの議論は、岡野さんも指摘されているとおり、移民管理における「国民主権」の全能性を信奉しているようにみえます。しかし実際には、主権は、全能な「至高の権力」ではなく、移民ネットワーク、国際規範、外交関係、社会の道徳規範などによって規定される社会的・歴史的産物にすぎません(Ngai 2004)。主権が全能でないことは、各国に存在する非正規移民が端的に証明しています。とはいえ、日本の場合、国家、正確には入国管理局は、「至高の権力」としての主権であるかのように振る舞い、大幅な裁量のもと外国籍者を管理・追放してきました。また、マクリーン判決に代表されるように、裁判所もそうした「至高の権力」としての主権という神話を追認してきました。こうした状況において、「国民主権」の全能性を当然視する言説は、入管局の振る舞いにお墨付きを与え、民族的マイノリティを抑圧する政治的効果をもたらします。
またこうした主権の全能性についての信奉は、移民の存在を「国民」による操作もしくは保護の対象としてのみ捉える議論につながっています。上野さんの回答において、移民は「国民主権」によってどうとでもなる存在として位置づけられ、彼・彼女らの行為者性(agency, 行為する力)はまったく無視されています。具体的には、それは、移民の数量規制を云々する箇所にくわえ、「わたしたちが外国の人たちにどうぞ日本に安心して移住してください、あなた方の人権はお守りしますから、と言えるかどうかも」というパターナリスティックな記述に表れています。
しかし、在日コリアンの権利獲得の歴史ひとつ振り返っても、「日本国民」が彼・彼女らの人権を率先して「お守り」したことがあったでしょうか。むしろそれらの権利は、国際的な圧力にくわえ、当事者自身による身をかけた闘いによって獲得されてきたのではないでしょうか(朴君を囲む会編 1974; 田中 2013)。私たちが関わってきた移住者支援運動も、当事者による運動の蓄積の上に成立しており、上野さんのようなパターナリズムは規範として問題があるだけでなく事実としても間違いです。
4.移住女性は女性ではないのですか
上野さんは、「EPA 協定で年間 500 人の看護・介護労働者が入ってきましたが(中略)、これが年間 5 千人、5 万人の規模なら、どうなるでしょう。」と書かれています。これは、端的にいって、事実認識上の間違いがあります。というのも、年間数百人のEPA労働者とは別に、定住する国際結婚女性やシングルマザー、フィリピン等から来日した日本人男性との間に生まれた子どもと母親など、すでにケア労働の現場で働く移民は数万人を超えると推測されるからです(野口 2015; 高畑 2009)。くわえて、2016年には、「特区」における外国人家事労働者の受け入れおよび在留資格「介護」が創設されました。また「介護」分野における外国人技能実習生の就労も2017年中に始まることが決定しており、今後ケア労働に従事する移民はより増加することが見込まれます。
この点に関して、ベル・フックスの「私は女性ではないのですか」という問いかけ(bell hooks 1982)を思い起こさざるを得ません。この言葉は、移民受け入れより「平等に貧しく」を主張する上野さんにも向けられるのではないでしょうか。上野さんは、移民がいなければ日本人女性が手を汚さずにすむと考えているようです。これは、すでにケアワークに多くの移住女性を巻き込むことで成立している現実を見ないで済ますことができるミドルクラスの日本人女性には、心地よい言説となるかもしれません。しかし、すでにケアワークに移民が参入する経路が確立しているなかで、ことさらに「日本人」と「移民」を区別することは何をもたらすのか。「日本人」ケアワーカーと移民ケアワーカーの労働条件の違いを正当化し、両者の連帯を阻害することで、結果としてケアワークの労働条件自体をあげることをも困難にするのではないでしょうか。
私たちは、上野さんが単純化された二分法に取り込まれてしまい、結果的に排外的なメッセージを発していることに危機感を抱いています。机上の空論に振り回され、排外主義の片棒を担ぐより前に、今ここにある現実の複雑さを引き受けた上で、ありえる選択肢を模索するのが社会学の役割ではないでしょうか。
【文献】
Balibar, E. & I. Wallerstein, 1990, Race, nation, classe: Les identités ambiguës, La Découverte.
bell hooks, 1982, Ain’t I a Woman: Black Women and Feminism, Pluto Press.
Favell, A., 1998, Philosophies of Integration: Immigration and the Idea of Citizenship in France and Britain, Macmillan.
Faist, T., et al., 2004, “Dual Citizenship as a Path-Dependent Process,” International Migration Review, 38: 913-944.
Freeman, G., 1992, “Migration Policy and Politics in the Receiving States,” International Migration Review, 26: 1144-67.
Guiraudon, V. and C. Joppke eds., 2001, Controlling a New Migration World, Routledge.
Hollifield, J. S., 1992, Immigrants, Markets and States: The Political Economy of Postwar Europe, University of California Press.
Hollifield, J. S. et al. eds., 2014, Controlling Immigration: A Global Perspective, third edition, Stanford University Press.
Huysmans, J., 2006, The Politics of Insecurity: Fear, Migration and Asylum in the EU, Routledge.
Koopmans, R. and S. Olzak, 2004, “Discursive Opportunities and the Evolution of Right-wing Violence in Germany,” American Journal of Sociology, 119(1): 198-230.
Massey, D. S. et al., 2002, Beyond Smoke and Mirrors: Mexican Immigration in an Era of Economic Integration, Russell Sage Foundation.
Morris-Suzuki, T., 2010, Borderline Japan: Foreigners and Frontier Controls in the Postwar Era, Cambridge University Press.
Mudde, C., 2007, Populist Radical Right Parties in Europe, Cambridge University Press.
Ngai, M. M., 2004, Impossible Subjects: Illegal Aliens and the Making of Modern America, Princeton University Press.
野口和恵,2015,『日本とフィリピンを生きる子どもたち――ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン』あけび書房.
朴君を囲む会編,1974,『民族差別――日立就職差別糾弾』亜紀書房.
Soysal, Y. N., 1994, Limits of Citizenship: Migrants and Postnational Membership in Europe, University of Chicago Press.
高畑幸,2009,「在日フィリピン人介護者——一足先にやって来た『外国人介護労働者』」『現代思想』37(2): 106-18.
田中宏,2013,『在日外国人 第三版——法の壁、心の溝』岩波書店.
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