○はじめに
上野さんが、このWANのみならず、ジェンダー・スタディーズに関心をもつ方々をつなぐ活動、ヘイト・スピーチと闘う「のりこえねっと」の活動もされておられることなどに敬意を抱いてきました。しかし、中日新聞・東京新聞(2月11日)「この国のかたち」でのインタビュー記事(以下、「記事」)、および、「記事」に対する「移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)」からの公開質問状への回答(以下、「回答」)には、見過ごせない問題が多々含まれていると考えます。(なお、以下、「記事」「回答」からの引用には「 」を、「記事」「回答」や他の方々の意見、あるいは、ありがちな差別言説をまとめて表現した部分には< >をつけて区別いたします。)
私は「記事」が掲載された翌日に拝読し、周囲の方々との対話でもインターネット上でも批判的意見を表明しましたが、多様な観点から充実した議論をうかがうことができ、さまざまな場での言論の活発さにはげまされました。
そもそもの「記事」と同じく、今回の「回答」に関しても問題としたい点はあまりに多いのですが、<移民は選択できる>という捉え方については岡野さんが、<ジェンダーとセクシュアリティは選択できない>という捉え方については清水さんが、それぞれに的確な批判を、また稲葉さん・高谷さん・樋口さんが移民問題全般について丁寧な文章を投稿しておられるので、私は人権意識ということに焦点を当てて書きます。とはいえ、他の方と重複する部分が生じることはお許し下さい。
これは上野さん個人の言説を批判するだけではなく、フェミニストの中にある、上野さんの「記事」や「回答」を擁護する傾向、つまり日本社会におけるフェミニズム全般への懸念を表明することも兼ねています。
○「記事」および「回答」は、移民排斥主義の現状認識ではなく是認であること
最初の「記事」において、上野さんは「日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています」と、日本の将来をかなり恣意的な二分法にして<どっちをとるのか>と述べておられます(これが、構築物としての性別二分法を批判してきたフェミニストの発言とは皮肉なものだと、個人的に悲しく思いました)。
私は、上記の文章の中の、<移民を入れると、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ>の箇所が、典型的な排外主義言説、ヘイト・スピーチと受け取れるため、見過ごせないと考えました。同様の批判はさまざまなメディアで数多くみられたと思いますが、それに対して上野さんの「記事」を擁護する文脈で海外を例として<移民が流入すると地域が荒廃する、社会問題が発生する>と語る、フェミニズム関係の活動家や知識人も決して少なくないことに、さらに驚きました。そして、それと同様の趣旨のことを、上野さん自身が「回答」の中で本格的に展開されました。
「回答」で上野さん自身「移民先進国で同時多発的に起きている『移民排斥』の動きにわたしは危機感をもっておりますし、日本も例外とは思えません」と現状認識を語っておられます。<だから、移民受け入れには反対だ>と意見を述べておられます。
現状を客観的に認識することと、是認・肯定することは違います。「記事」でも「回答」でも、移民排斥主義を<しかたのないこと>として是認・肯定し、移民増加反対の意思表示を明確にしておられます。
○差別発言のレトリック
犯罪や社会的混乱と移民排斥の正当性を結びつける論法は、<被差別部落のひとびとは乱暴で、貧しく、学歴も低い、怠け者だ、モラルを共有しないetc. 〜だから差別されても仕方が無い>(被差別部落のひとびとを、黒人あるいは在日コリアンと言い換えてもよい)という、部落差別の正当化の論法とそっくりです。「被差別部落のひとびとは〜」の部分は、差別に基づく偏見や先入観と、差別の歴史的蓄積から被差別部落の(一時的な)特徴となっている点が混同されており、それこそが巧妙なレトリックとなっています。そうした差別のレトリックは、部落解放運動のみならず、女性解放運動も含めて、あらゆる反差別運動が問題にしてきたことです。
「回答」においては、<移民が増えると犯罪が増える>のではなく<移民が増えると排外主義が激化して社会的混乱が生じる>と言い換えておられますが、これは、上野さんの「記事」の中の「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」という言葉に対応しています。移民を受け入れなければ、差別が生まれないかのような発想です。それは、被差別部落のひとたちが、解放運動などせず、「融和」して不可視化すれば、差別がなくなるという発想と似ています。これは、在日コリアンの運動や障害者解放運動の歩みでも、闘いの対象となってきた発想です。
被差別者の存在をなくしたとしても、差別意識や差別を再生産するシステムは残ったままです。システムや意識が残存する限り、差別は別の形でうみだされるでしょう。
移民に話をもどすと、上野さんが言うように「日本人」(とは誰のことなのか)が、多文化共生できない文化(?)民族性(?)を持っているとするならば、現に存在する移民、多様な文化的ルーツやルートをもつひとびとの人権を尊重することができるのでしょうか。
そのような文化やシステムの下では、移民のみならず、誰の人権も守れません。
○状況は変革できる − 変革を妨げる差別発言やヘイト・スピーチは許されない
かつての部落解放運動や障害者解放運動が、一時「過激」な糾弾闘争やデモンストレーションをしなければならなかったのには、それなりの理由がありました。それらは<変わることができない(ようにみえる)被差別状況・抑圧状況>を変えるためにおこなわれました。
フェミニズムも「過激」でないと前にすすめない時代があったではないですか。それらを超えて、21世紀の今があるはずです。
現に日本に住む外国籍(元外国籍)のひとびとの人権をどう守るのか、地域や社会全体での多文化共生をめざす運動や実践、研究や教育活動が存在し、反ヘイト・スピーチ運動が活発におこなわれている中で、犯罪や社会的混乱と結びつけて、あるいは<日本人には多文化共生は無理だ>という理由において、移民排斥を肯定する言説を公の場で表現することは、ヘイト側に与する差別発言、ヘイト・スピーチそのものだと考えます。
人を差別する言論・思想の自由を公の場では存在させてはいけない。それこそ、フェミニズムが闘ってきたことです。何が差別なのかについては、もちろん文脈も時代状況もかかわってきますから、開かれた場で議論すべきです。そうした原則を踏まえた上で、現在のように移民排外主義が強まる一方で、それと闘う勢力がある状況であるにもかかわらず、排外主義を肯定する「記事」と「回答」は、ヘイト側に与することになるということが私の見解です。
きちんとした法制度やシステムをつくることなく、移民を「安価で雇用調整しやすい」労働力(それは女性の立場と似ている)として受け入れた場合に生じる混乱は、国内のみならず国際的な経済格差が生み出すととらえる視点が必要です。上野さんの主張が<世界中のひとびとが等しく貧しくなろう>ということであれば理解できなくはないし、その困難さは<日本社会内で等しく貧しくなろう>といった場合とそれほど変わらないと思います。
わたしたちは、異なる属性をもち多様な、すべての個人の人権尊重を、身近な地域においてもグローバルなレベルにおいても求め続けなければならないはずです。
理念なくして、現状改革はできません。
○最後に フェミニズムとアンチ排外主義の連帯
以上のことは、私にとってはすでに議論つくされた、実にシンプルな反差別の認識枠組みなのですが、それらを容易には共有できないフェミニストやジェンダー研究者が案外と多いということに、今回気づき、フェミニズムの時間は大きく逆行しているのかと眩暈に似た感覚を抱きました。このエッセイで、排外主義のみならずヘイト・スピーチという「過激」な言葉を使うのは、こうまで言わないとわかってもらえないのではないかという危機感からです。
上野さんは「回答」の中で「誤読」を主張されています。「記事」しか公開されていなかった段階では、私の周囲にも、上野さんが排外主義者のわけがないと、「誤読」の可能性を主張された方々もいらっしゃいました。しかし私自身は、「回答」を拝読し、「誤読」したわけではないことを確信するに至りました。
先日のトランプ 大統領就任翌日に世界中で開催されたウィメンズ・マーチは、フェミニズムと アンチ排外主義(や他にも、もろもろの差別や社会問題と闘う勢力)が連帯していました。そうした動きについて、近年の日本のマスメディアは表層的にしか報じなかったり、無視したりする傾向があり、私たちにはアンチ排外主義の勢力が見えにくくなっています。
この状況を変えたくて、WEBRONZA(朝日新聞社)に以下の記事を寄稿しました。カナダに住む友人の投稿もぜひ読んでいただきたく、以下に紹介させていただきます(WEBRONZA会員でないと、あるいは朝日新聞のデジタル会員でないと全文は読めないので恐縮なのですが、ともかく最初の方はどなたでも読んでいただけますので紹介させてください)。
「ウィメンズ・マーチが拓いた新しい空間と連帯の波 それはワシントンだけでも、マドンナだけでも、そして「反トランプ」だけでもなかった」 木村涼子
「私がウィメンズ・マーチにノリきれなかった理由 カナダ人として感じた高揚感と周縁化による疎外感のはざまで」 山田公二
日本にもすでに存在している連帯の動きがさらに広がることを期待しています。
2017.02.24 Fri