
2017年4月29日〜5月6日、第17回イタリア映画祭が開催され、新作15本、旧作5本のイタリア映画が東京有楽町・朝日ホールで上映されました。この映画祭への出品を機に来日したイヴァーノ・デ・マッテオ監督(『はじまりの街』)にWANシネマラウンジ・スタッフがインタビューしました。『はじまりの街』は2017年10月28日(土)より、東京神保町・岩波ホールほか全国で公開されます。

WAN: 先にDVDを拝見しましたが、あまりに映像が素晴らしいのでスクリーンで見ようと、映画祭で拝見しました。この作品を見て自分がどれだけ若い頃イタリア映画が好きだったかを思い出しました。1970年代にフェリーニ、アントニオーニ、タビアーニ兄弟といった素晴らしいイタリア映画の数々が日本で公開されて、イタリア映画が好きになったのです
監督: 映画館で見るからこそ映画です。映画は映像、音楽、ロケーションすべてがあわさってできていますからスクリーンで見てくれてよかったですよ。
WAN: この作品の映画的魅力は、何気ない「街の描写」に現実のイタリア社会が垣間見えるところにあると思いました。ドキュメンタリーを多く撮られてきたこととも関係あると思いますが、世界の映画史と、そこに大きく貢献したイタリア映画史の中に、自分の作品を位置づけるとすると、あなたの作品は、ネオ・レアリスモの流れに位置づけられると思われますか?

映画の内容的には、少年の目から社会の現実を見る庶民の物語である点、周囲の人間の温かさを描く点、行政や社会制度の矛盾を描く点などにおいて、『自転車泥棒』や『靴磨き』といったデ・シーカ監督の後継者的要素も入っている感じがします。一番影響を受けたイタリア人監督の名前を教えてください。
監督: ネオレアリスモは、1940年代から戦後のある時期までの作品を指す、イタリアの伝統です。僕たちの作品は、今ある、より新しい問題を、違う角度から撮っているのです。ネオ・ネオレアリスモと呼べるかもしれません。
WAN: 〈違う角度〉とはどういう? 作品の源泉はどんな事だったのでしょうか?
監督: 作品の源泉は、常に、家族(ファミリア)です。家族は社会のミクロコズモ、社会の縮図なのです。家族は、人を保護をしてくれる場所でもあり、抑圧的な場所でもある。私の父は10人兄弟姉妹、母は11人兄弟姉妹で、私には40人近い従兄弟姉妹がいるのです。あの頃はテレビもありませんでしたしね。
――といって監督は、やおら携帯から写真を見せてくれた!そこには、ネオレアリスモそのまま、といえるような、戦前・戦中のモノクロ家族写真だった。監督のお母さんがまだ母親の腕に抱かれているような二世代前の写真だ。傍らに何人もの兄弟―監督の伯父たち―が、裸足で立ったままカメラを見ている。まるで『無防備都市』や『島の女』のような写真!
監督: 家族の中には愛情、憎しみ、憐れみ、対立、すべてがあるんだ。
WAN: 監督ご自身は、何人兄弟でしたか?
監督: 私と姉の二人です。テレビもありましたし、子育てはお金がかかる時代になりましたから。

WAN: DVから逃げる母と息子を主題としているとイタリア映画祭のカタログに書かれていたので、最初はそのつもりで見に来ましたが、物語の縦軸は、少年が「大人の男」になっていく物語といえます。その中で女性の果たす役割は、息子に献身的な愛情を捧げ、身を粉にして働く〈母親〉だったり、気の良い〈おばさん〉だったりします。これは、女性の視点、特に私たちの属するウィメンズ・アクション・ネットワークWomen’s Action Networkからあえて批判的にみると、やはり男性にとって都合の良い〈女性のジェンダー化〉といえなくもないと思うのですが、そうした点について、どう考えられますか?

監督: 映画の中で、女性は最初、肉体的・心理的暴力を受けます。しかし、そこから勇気をもって立ち上がり、新しい生活を始める女性を私は描いたのです。慣れ親しんだローマでの生活から息子を連れ出し、清掃の仕事をして、生活を自分の腕で再建する女性です。そういう勇気ある女性を描きたかった。そしてそれを助ける女友達がいる。Solidarite femininaソリダリテ・フェミニナ。女同士の連帯があります。

WAN: この作品ではイタリアにおけるDV問題が映画の基調として描かれています。日本社会にはいまだに、「男は男らしく、女は女らしく」といった保守的な性別役割意識が比較的根強く残っているのではないかと感じており、もしかしたらイタリアも似た面があるのではないかという印象を持っているのですが、そういう社会背景が女性の生きづらさの背後にあるのではないかという点はいかがですか?
監督: 私はイタリアが他国に比べてどうかといったデータを持っていないので、そこはなんとも言えませんが、イタリアと言えばマフィア、日本と言えばサムライ、みたいなステレオタイプがありますが、そういう(マッチョな男性をよしとする)イメージもなんらかの真実を映し出している可能性があるのではないでしょうか。また、日本でもそういう問題があるとは知りませんでしたが、世界の他の国々でも普遍的にそういった問題があるのなら、悩んでいる女性たちにこの映画を紹介できて、少しでも力づけることができれば、監督としてこれほど嬉しいことはありません。

WAN: 女同士の友情は、台詞を通してではなく、一緒にいる時の自然な雰囲気から感じ取れました。こうした雰囲気描写は、脚本を書かれた女性パートナーの視点を参考にしたのでしょうか? それとも、女友達を演じる二大女優の演技でしょうか?
監督: テーマを選んで脚本を書くのは妻の仕事です。私はドキュメンタリーを撮っていたので、調査が得意です。今回は、二人の大女優が出演しています。現場でそうした大女優たちを扱うのは大変なので、その意味では私も貢献しているかもしれません。
――と監督はここでチャーミングに笑ってみせた。
ところで、イヴァーノ・デ・マッテオ監督の第一作は、市役所福祉課勤務の男性の転落譚を通して現代ローマの生活の厳しさを描いたもの。第二作は、上流階級の兄弟と子弟たちの犯罪を通して現代社会における〈格差〉〈良心〉〈贖罪〉の問題に焦点をあてるものだった。そして、今回の作品には、DVから逃れる母と息子の姿や彼らの周囲にさりげなく配置された共同体の描写を通して、イタリア社会に巣食う〈暴力性〉に焦点をあてたかにも見えた。しかし、 DVを生みだす〈暴力の根源〉には迫っていない。妻に暴力をふるう夫は最初に登場するだけで、その後は姿を現さない。けれど、トリノの街で少年がアパートの窓から見下ろす光景には、〈男社会〉ならではの日常的暴力が垣間見える。そうした男社会にこれから生きる〈息子〉の物語としても、監督は、この作品を描こうとしたのではないか? おそらくは、未来に向けた希望として。あるいは、変革の可能性を信じて――
そこで30分のインタビュー時間の最後に、次のような質問を投げかけて見た。

WAN: 監督は、映画で社会を変えられると信じていますか?
監督: 映画で社会を変えられると思うのは〈おごり〉だと思う。けれど、この作品を見て、DV被害に悩んでいる女性が一人でも立ち上がり、前を向いて、一歩踏み出そうと思ってくれたらと、思っています。
WAN: そうなるよう、作品を心から応援しています!

イヴァーノ・デ・マッテオ監督プロフィール:
1966年 ローマ生まれ。劇団での活動を経て、1990年俳優としてのキャリアをスタートさせた。99年には初のドキュメンタリー作品を手掛け、2002年に長編劇映画の監督デビュー。本作『はじまりの街』は長編6作目となる。監督、ドキュメンタリスト、俳優として、映画のみならず、舞台、テレビ等でも幅広く発信を続けている。
監督作品
1999年 Priginieri di Una Fede (ドキュメンタリー)
2001年 Provocazione Barricata San Calisto
2005年 Codice a Sbarre
2006年 Fermata Pigneto, Sulla Zattera
2007年 短篇 Pillole di Bisogni
2009年 『幸せのバランス』Gli Equilibristi:市役所の福祉課勤務の真面目な男性が一つの過ちから人生を狂わせていく姿を描いた人間ドラマ
2015年 『われらの子どもたち』I Nostri Ragazzi:やり手弁護士と誠実な小児科医の兄弟の対比と、子供たちの犯した罪をめぐる良心の物語
2016年 『はじまりの街』La Vita Possibile:夫のDVによりローマを逃げ出しトリノの街で人生の再スタートを切ろうとする母と息子と周囲の支え、それを温かく見守る周囲の人々を描く

2017年5月2日 東京千代田区神保町・岩波ホールにて
インタビュアー:川口恵子、俵晶子(WAN)
取材協力:クレストインターナショナル
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