川上未映子さんのご著書の中からこの2冊をとりあげた理由は、どちらにも東日本大震災からまもない時期に書かれた作品が含まれているという、ワタクシ的な関心からです。わたしも震災後被災地のボランティアに通ったことがあるのです。もともと川上さんは、読者に現実と幻想のあわいをただよっているように思わせる魅力のある作家ですが、震災の経験を書くのにふさわしいお一人だと思っていました。
『ぜんぶの後に残るもの』(新潮社 2011年8月刊)のほうは、2010年4月から翌年5月まで週刊誌や新聞に連載されたエッセイ集で、最初には「地震の後で」という章があり、2011年3月11日当日に書かれた文章もあるのです。そして2011年の夏に書いたと思われる「はじめに」が素晴らしい。
津波で壊滅状態になった南三陸町に、かつて泊まったことがあるという川上さんは、その時宿の浴場で出会った赤ちゃんを抱いた母親のことに触れ、ごく普通の母親と赤ん坊が「光り輝く」美しさに満ちていた、その生命力が「わたしにとっての南三陸町」なのだ、と書いています。
「あとがき」ではこの「過酷な現実」を「肝に銘じなければならない」と書き、続編にあたるエッセイ集『人生が用意するもの』(新潮社 2012年刊)には「3月の記憶」という章があって、川上さんは2011年9月に開かれた「さようなら原発」集会に参加したことがわかります。
『愛の夢とか』(講談社 2013年3月刊)のほうも、収録作品の多くはおそらく2011年から2012年の早い時期に書かれたに相違なく、なかでも「お花畑自身」と「十三月怪談」は震災一周年に近い時期のものだと思います。
この二つの短編は、直接震災や原発に触れた作品ではありません。「お花畑自身」は、夫婦で家を建て、家具や壁紙から庭の草木まで自分で気に入るようにつくりあげてきた「わたし」がその家を手放さねばならなくなって買主の女性に家具もろとも売り払ったあと、どうしても忘れられなくて家の近くに立ち通して買主にとがめられ、けっきょく大事にしてきた庭の花畑に自分で穴を掘って埋められてしまう、というホラー仕立ての作品ですが、そうすることで「わたし」はもう現実には自分のものではなくなった「お花畑」自身になってしまうのです。そこに満ちている言いようのない喪失感(家を失ったというだけではない)の深さに打たれました。
もう一つの「十三月の怪談」も、思いもかけない病名を告知され、夫をおいて死んでしまった時子という女性が「あの世」から夫の日常を見つめ続けるという、これまた幻想的な物語です。夫は愛する妻の死を嘆き悲しみながら、時が経つにつれて笑顔が戻り、再婚し、子どもが生まれ、やがて年を取って死にます。そのとき時子は夫と「どこでもないような」時間の真ん中で抱き合うのです。
この小説を読みながら、震災の後、家族を失った「遺族」の一人が「あの人は亡くなったのではなく、いなくなっただけだ」と語ったことを思い出しました。こうした声を聴きとることが川上さんの「忘れない」という約束の一部なのではないかと思った次第です。
11月11日、ミニコミ図書館と上野研究室が開催する「こうして戦争は始まる――孫世代が出会う「銃後の女たち」」というイベントに、川上さんが登壇者のおひとりとしておいでになります。川上さんが遠い過去である戦争の時代を生きた女性たちとどう向き合って下さるか、期待しています。どうぞ事前学習など要りませんから「わたし」自身の思いを持っておいで下さい。
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