加納実紀代・著
「〈死〉の誘惑-三原山・自殺ブームをめぐって」
(『銃後史ノート』復刊1号所収)
かつて、大島・三原山は自殺の名所だった。1933年(昭和8年)からの2,3年のことで、37年まで続く。自殺志願者は、噴火口の縁から自ら火中に身を投じたという。自殺防止策が様々になされ、そのための人員も多く投入されたが、33年だけで944人(男性:804人、女性140人)が三原山で死んでいる。前年に比べてこの突出した自殺者数のきっかけは、21歳の実践女子専門学校の3人の女子学生の自殺だったという。
ジャーナリズムがこの自殺をいかに「猟奇的」と書き立てようと自殺がブームを起こすことは異常である、と加納は説く。自殺者の内訳は15歳から29歳までの若者、学生-女学生、中学生、高校生が多い。死の理由としては、はっきりとしない抽象的なもの、「厭世自殺」に括られるような自殺が多かった。「三原山自殺」は、海を隔てた島にアクセスできるスキル(経済的にも)を持った<特権的人間>による<特権的な>自殺であった。
当時、封建的で皇室中心の実践女子専門学校にも左翼運動の波は押し寄せ、袴をはいたままの学生が特高に連れ去られることもしばしばあったらしい。自分たちを取り巻く現実に違和感や疑問を感じてはいても、それに明確な「解」を与えてくれる何かに出会えた女性は数少ないだろう。親や社会・世間から強制される自分の将来…結婚制度や貞操観念を否定したい想いに駆られても、それに代わるものとしての思想や運動は女子学生の手の届くところにはまだ無かったのである。自分の将来への絶望、生きる意味の喪失…その行きつく先・唯一の自己表現は、<死>でしか無かったのである。
火口自殺という、むごたらしい、<瞬間的な完璧な死>、<瞬時の自己抹殺>は、自殺者の絶望の深さと社会に対する命を賭けての叫びなのだ。
のちの日中戦争開始後は、自殺者は急激に減少する。<特権的な死>から権力による<強制的な死>、<死体の無い死>へと変わったのである。では、<特権的な死>を選べた彼らは、まだ幸せだったと言えるのだろうか?
「自殺の多発という社会不安が<自由からの逃走>として」雪崩を打って戦争に突き進むことに加担したことを、私たちは忘れてはならない。
「生きたい想い」としての死を急ぐ者たちに想いを馳せれば、現在の「減らない自殺者数」や「自殺者の低年齢化(その多くがイジメによる)」をそのままにしておいて良い筈はない。「自殺」に於いても、明らかに「個人的なことは政治的である」のだ。
たとえ今は自殺念慮が無い私にとっても、個人が人としてのびやかに生きられない、生きる希望を持つことができない社会は、そこかしこに真っ黒い不気味な口を大きく開けている。そしてそれは、いとも簡単に集団的暴力としての戦争に繋がってしまう…三原山の自殺ブームは、それを私たちに教えているのである。
自殺者たちの声なき声に真摯に耳を傾け、己がこととして考える…歴史を簡単に繰り返させないための方途は、まだまだ私たちの周りにある。
*11月11日、上智大学で開催されるブックトーク「こうして戦争は始まる――孫世代が出会う「銃後の女たち」」では、『銃後史ノート』から九つの論文が取り上げられます。
この加納論文はその一つで、これを含めた九つすべての論文がこちらから閲覧できます。